絶望家族(6)
店内では遠慮がちは雅楽に代わって備前が多めに注文をし、食べきれないと言い訳をしながら食べさせたほど雅楽は控えめな態度だった。
当初はまるで大人に萎縮するような様子ではあったが、次第に備前にも慣れて、最終的には満腹まで食事をした雅楽はいよいよ話をしようというところで突然、涙を流し始めた。
「僕たちの家族に……いったい何が起きたのか、教えてください……」
その質問を聞いて備前は意外という顔をした。
「それを、どうして俺に聞くんだい?」
「そうですよね……両親に聞くべきですよね……」
「わかっていて聞いたということかい」
雅楽は小さく頷く。
「それを俺に聞くのは、たぶん君のなかである程度の真相が見えているんだ。だって、俺が君の家庭の話を知っている確証はないんだから。……つまり君の持つ真相はところどころ虫食い状態で、わずかでも俺が知っている情報と合わせて、穴が埋められたらいいくらいの認識で聞いてきた……違うかい?」
「そう、ですね……仰るとおり母の荒れ様からなんとなく察してはいます……でも、僕からは見えないことが多過ぎて……」
「……母親の言うことを全て鵜呑みにできない。疑念を抱いている。そんなところか」
雅楽はまた小さく頷いた。
「この間、備前さんが家に来たとき、母の喚き声を聞いて、不思議なんですけど、意味のわからないことを考えるようになってしまいました……」
雅楽は泣きながら話す。
「なんで両親は離婚してしまったんだろう。どうして母は知らない男の人と仲良くしてるんだろう。どうして僕はその人に殴られるんだろう。どうして僕は……辛いんだろう……」
備前は押し黙ったあと、胸の内に詰まったものを吐き出すように重いため息をついた。
「……俺も君の父親からしか情報を得ていないに等しい。それはわかっているね?」
雅楽は小さく頷く。
「だから、両方の話を聞いて、僕で判断したいと思います」
「わかった。それならあくまで俺は俺が聞いた話から推測した君の家族に起きたことを話すよ……たぶん辛いことも含むよ? いいんだね?」
「お願いします」
備前は雅楽の真剣な顔を見て続けた。
「君の両親が離婚したのは、君の母親の不倫が原因だ」
「……やっぱり」
「でも君の母親はそれを隠したまま、一方的に君の父親を切り捨てた。君の父親がそれを知ったのは離婚後のようだったよ」
「どうして母はそんなことを……」
「不倫の理由までは知らんが、不倫相手の低スペックを見れば大方わかる。基本的に恋愛脳のお花畑だから見た目のいい男が好きなんだろう。そして離婚についてはその男と堂々と一緒にいたかったからだろうね。なぜなら、君の父親から金さえ搾り取れば、求めるものは男の容姿しかないのだから」
「そんなことのためにお父さんを……」
「正直、君の母親の考えは俺には理解できない。不倫相手が住んでるのは市営住宅でね、収入が少ない人しか住めないところなんだ。子どもたちごとお金に困るような生活をさせるくらいなら、君の父親のほうがよっぽど魅力的に見えると思うんだがなぁ……しかも、君に暴力を振るうようなクズなら尚更だ」
「本当にそうですね」
「君の父親もね。その男の部屋の上から飛び降り自殺をしようとしていたよ」
「っ!?」
「よっぽど悔しかっただろうね。恨んだろうね。君の母親を殺したいとまで言った。でも、君たちが人殺しの子になってしまうから、それだけはしないとも……彼の言っていることは矛盾だらけで、とても考えがまとまっているような状態ではなかった」
「どうしてそんなことに……」
「君の母親が追い詰めたからさ。君たちを人質にとった交渉で、ありえないほどの条件を押し付けられ、金を搾られ、生活保護以下のような暮らしを強要され、仕事・食事・睡眠だけの人生……それでも彼は君たちのためにと歯を食いしばって耐えてきた……だが」
備前は冷たい声で続ける。
「そんな彼に吐き捨てられた言葉は、君たちとの関係断絶だった」
雅楽の顔は泣きながらも青褪めるようだった。
「君たちは彼の全てだった。だから、絶望して死のうと思っても不思議じゃない」
「そんな……」
「彼はたぶん君たちにはとても優しかっただろうね。でもそんな彼が泣きながら言うんだ。もう何もかもどうでもいい。子どもたちのことさえ、そう思いたくなくても、どうでもいいと思ってしまった……そりゃあそうさ、誰だって死んだあとのことは関係なくなるんだ」
「父はっ!? 父は今、どうしているんですか?」
「安心してほしい。俺が今、面倒を見ているから」
「そうですか……ありがとうございます」
雅楽は備前に深く頭を下げた。
「知らなかったんです……父がそんなに追い詰められていたなんて。だって、僕たちと会うときには、そんなの全然感じさせないから……」
「彼も最後のほうは内心、隠そうと必死だったはずさ。うつ病を患ったそうだからね。それでとうとう仕事もできなくなり、君たちの生活を支えるどころか、自分の生活すらままならなくなってしまったんだ……」
「うつ病……治るんでしょうか?」
「どうだろうね? そればかりはなんとも言えない。俺も最初は君たち子どもだけでもなんとかなるなら、彼はまだ再起できるんじゃないかと思っていたからね」
「僕たちをなんとか、とは?」
「親権を取り返すってことさ」
「親権?」
「親としての権利さ。……いいかい? この国のルールではね。基本的に9割以上は親権者は母になるんだ。それはもう理由なんかないに等しくてね。女だから、というだけの話なんだ」
「女だから?」
「そうだよ。親としてどちらが適切か、ましてや不倫したのが女だとか、そういった要素はほぼ全て無視して女が親権を取ると言えば9割はそのとおり。男から見れば著しく不合理だが、現実はそうなっている……こんな状態でまともな交渉ができると思うかい?」
「じゃあ父は……」
「君たちのために過酷な条件を耐えてきたくらいだ。当然胸のうちでは親権を欲しがっただろうよ……だけどね、場合によっては争う姿勢を見せただけでも手痛い反撃を加えられる恐怖すらあるのが男側の交渉立場さ……」
「酷い……」
「月に一度の面会で子どもを預かった父親が、そのときに子どもを巻き込んで自殺したなんて事件も実際にあったくらいだ。残された元妻は絶望するしかなかろうが、男に子どもと心中させるまでに追い詰めたのはいったい誰なのか……」
備前は色を失った雅楽に追い討ちを掛けるように不敵に笑う。
「断言してもいい。世の中の離婚男性のほとんどは、口にはせずとも元妻に復讐したいと思っているね……下手したら、子どもたちが育ったあとに元妻を殺しに行くことを計画している男もいるだろう」
「そこまでですか……」
「それほど不公平なルールって訳さ。男たちがいつか爆発したときのことを思うと俺は楽しみで仕方がないよ。他人事として見ているぶんには最高のエンターテイメントだからね、ははは」
雅楽は言葉を失った。
「そんな訳でね。通例と言わんばかりに……いや、むしろそんななかでも最上級に厳しい条件を負わされたんだ、君たちの父親は……普通、殺したいなんて気持ちは言葉にせず胸の内に秘めておくものなのに、俺の前で漏れてしまったくらいなんだからね」
「……」
「しかも、そんな状態の彼に与えられたのは君たちと引き裂く宣告さ。そしてその理由は、離婚の原因を作った間男との関係構築……正直、今の状況は誰か死んでもおかしくないよ?」
「……最悪ですね」
重く言葉を漏らす雅楽。
そんな場の空気を断ち切らんばかりに備前はそこでパンと手を叩いた。
「ま、あくまでこれは彼の立場に寄り添う俺からの見え方さ。片方の言い分を鵜呑みにしたくないと思って君も来たんだろうから、あとは君が自分で整理して考えてみるといい」
「だけど……だけど……そんなことを聞いてしまったら、僕は……」
「なんとかしたい。でも、大人たちと話をするための交渉の武器がない……なんなら、授けてあげようか?」
「……お願いします」
「さっきの話にヒントはあったろう? 親権さ。親権者は9割は母親と言ったけどね。これを決めるうえで最も大事とされていることってなんだかわかるかい?」
「なんでしょう?」
「離婚によってどちらかの親と別れなければならない、子どもたちの気持ちなんだよ」
「僕たち、の……?」
「子どもはね。大体小学5年生くらいになると意思もしっかりしてくると認められて、親を自分で選べるようになるんだ」
「じゃあ僕と……妹もちょうど5年生です……それなら」
「だろうね。だから正直に言うと俺も君がそう考えると見越してこの話をした側面がある。……それで彼が再起できるのなら、俺もそうしたいのだからね」
「僕もそうしたいです!」
テーブルに身を乗り出すように言う雅楽を抑えるように備前は少しトーンを落とす。
「ただ、それでも彼はもう無理かもしれないけどね」
備前は弱く首を横に振った。
「さっきも言ったけど、引越し中に君の母親が乱入してきたとき、君たちの存在も含めてどうでもいいと言っていたことを考えると……彼の傷の深さまでは俺にもわからない」
「そんな……」
「彼はね、もしかしたら身体だけ生きているだけで、もう心は死んでいるのかもしれないんだ……君の母親に殺されてね」
それを聞いた雅楽の拳は小刻みに震えていた。
「これは実際にうつ病で自殺未遂まで到達しながら回復した人が言った言葉なんだけどさ」
備前は前置いてから言う。
「たとえうつ病の症状が落ち着いても死のうと思った事実と記憶は消えない、のだそうだよ。それを思い出すと苦しくなるから、その傷跡とは一生付き合っていかないといけないそうだ」
備前は苦しそうな表情で続ける。
「彼が立ち直れる日が来るのかは俺にもわからない……だから、俺は彼のために君たちの親権を取り返してやりたい気持ちを抱えながらも……それを実現させてしまった先のことを考えるのが……正直に言って怖い」
「そんなの、そんなの……」
ついには強く握った拳を雅楽はテーブルに叩きつけた。その目は怒りに満ちていた。
「許せない……なんで悪いことをした母だけが……」
「やめてくれよ……君のそんな怒りは彼が望んだものじゃない……こんな話をしておいてなんだが、俺はこの話を、少しでもいい方向に持っていきたいから話しているんだよ?」
「す、すみません……」
備前が言うと、雅楽はまた控えめな印象の雅楽に戻った。
「俺もこの話の持っていき方に迷っているんだ。……だから話の方向性にも一貫性を持てないでいる。手段や情報を与えるだけ与えて、最終的な決断は君たち親子に任せようという汚い大人の考えも持っている……」
「そんな! 備前さんはこんなにも誠実にお話をしてくれてるじゃないですか!」
「だけど、正しく導くような提案ができずに迷うことしかできないんだ……」
「いいんですよ。だって、それを考えるのは本来は僕たちの家族であるはずなんですから……だからほかに選択肢があるなら教えてくださいませんか? 僕が両親に代わって考えますから!」
備前は伏し目がちに言う。
「選択肢のなかには彼と君たちを引き合わせることあった。だけどこうも思った。逆に、それは彼を苦しめるんじゃないかとも」
「僕たちが、お父さんを苦しめる……?」
「彼は、住所や連絡先を変え、君たちとの関係を絶つことを選択したんだよ?」
「ど、どうして……?」
「父親のそんな惨めな姿を見せたくはないだろう。そしてこれから貧困で転がり落ちていくかもしれない君たちの姿を見るのが怖いだろう。合わせる顔も……ないだろう」
「……絶望的じゃないですか」
「だけど、彼が君たちの姿を見たくないと思うのは、ホンの少しの希望を求めたからじゃないかとも思うんだ」
「希望……?」
「もしかしたら、僕の目の届かないところで子どもたちは幸せに暮らしているかもしれない……転げ落ちた君たちの姿さえ見えなければ、そう希望を持ち続けることができる」
「うっ……」
雅楽は堪らずに嗚咽を漏らした。
「だから頼むよ。君たちは絶対に幸せになっておくれ」
備前は泣きじゃくる雅楽に頭を下げた。
「……どうしたら、こんな状況で、僕はどうしたらいいんだろう……」
「難しいよ。本当に難しい。だから俺も適切な助言ができないんだ……だけど、これだけは言える。今の君たちにできて、もっとも間違いのない方法は、ちゃんと成長することだ」
「ちゃんと成長……?」
「そのために彼は自分自身すら切り詰めてお金を渡してきた。たぶん君たちには学資保険という進学のために積み立ててきたお金が残されているはずだよ。……だから、それを君たちの母親が食い潰さないようにしっかりと監視して、しっかりと自分達の成長に使うんだ」
「そう……ですね。そんなの、母に任せておけるはずがない」
「何かあれば俺がまた相談に乗るから、まずはそれを確認してみたほうがいいだろう」
「はい。わかりました」
「頼むよ。それでもし、君たちが幸せになれたと思えたときは、ぜひ、その姿を彼に見せてあげてほしい」
「そのときは、備前さんに連絡をすれば取りついでくれるんですか?」
備前は首を横に振る。
「実を言うと、俺ももう何年も生きていられないかもしれなくてね……でも平気さ。今は難しくても、君たちがちゃんと一人前の大人に成長できたときは、自然と自分たちだけでも父親の居場所くらい探せるようになっているはずだから」
「そう……なんですね。じゃあ、頑張らないと」
「うん……くれぐれも頼んだよ」
そう言って備前はレシート入れに入っていたレシートを手に取った。
「あの、最後に一ついいですか?」
付け足すように雅楽は言った。
「そのときが来るまで、もう父には会えないかもしれないから……最後に、一度だけ取り次いでいただけませんか?」
「……どうする気だい?」
「一度、家族で良く話をする場がほしいんです」
「家族とは……もしかして君の母親も含めてのつもりかい?」
雅楽は覚悟を決めたように強い目で備前を見て頷いた。最初に泣き出していた少年のような弱さはその瞳にはない。
「僕にチャンスをください。母と話をしますから」
「何を話すつもりだい?」
「母と同じことを。僕は、僕たち自身を人質にして、母の間違った考え方を直してもらいます……必ず、父に対し頭を下げさせます」
「だが、そんなことをしても彼の心はもう……」
そこで言いかけた諦めの言葉を備前は飲み込んだ。
「いや、そうだな。君に任せるのが正しいのかもしれない」
「ありがとうございます!」
「話がまとまったら俺に電話をしてほしい。こちらも無悪君にそれとなく話を伝えて家族で話をする場を設けようと思う」
そんな話をして二人はファミレスをあとにした。
いつもお読みいただきありがとうございます。
「たとえうつ病の症状が落ち着いても死のうと思った事実と記憶は消えない」
これは私が実際に相談者さんから打ち明けられた言葉で、めっちゃ記憶に残る重たい言葉でした……
この絶望家族では、もう一つ別の相談者さん絡みでリアルに記憶から消えてくれない重たい言葉を紹介しますが、正直、私が感じたあの重さを表現できるか心配です。
相談者さんと私生活上では無関係の私でさえ「ぐえっ」と重たかったリアルな言葉を……胸糞状態のみなさんにオーバーキルできるようにお見舞いしますね(笑)







