絶望家族(5)
・公営住宅では割と下品な住民トラブルが起きがち
蓬が備前達の前から去った後、何度かに分けて荷物は運ばれ、問題なく無悪の引越しは終了した。
「今日からお世話になります、大家さん」
「いえいえこちらこそ。こんな古いアパートですみません」
新しく引越しをした部屋の前で、無悪と佳代が挨拶をしていた。佳代の隣には備前。そしてそのうしろには加奈子がおり、石田と隆史はそれぞれ自分の部屋に帰った形だ。
「とんでもないです。おかげさまでこれからは生活保護として不安なく生きていけそうです」
「そ、そうなんですねー」
佳代は不安げに隣の備前に耳打ちをする。
「マ、マー君。この人、元気なさそうだけど大丈夫?」
「心配だったら佳代が慰めてやれよ。歳も近いし、元気になれば彼はそれなりに優秀な人間だぞ?」
「や、やだよ! 私はマー君ひとすじなの」
「なんだ面倒くせぇ」
「ひ、酷いよぉ……」
などと二人で小声で会話をしたあと、備前はポンと手を打つ。
「そうだ! せっかく間男の住む市営住宅の隣に引っ越して来たんだ。これからは無敵人間ゆえの嫌がらせを生き甲斐にするってのも悪くねぇな」
「ま~たマー君は悪いこと考えてる……」
「遠慮せず好き放題にやろうぜ? 車のフロントガラスに犬のフンを塗り込んだり、ボディを十円玉でガリガリしたり、集合ポストへのイタズラも楽しそうだ」
「ははは。いいですね備前さん。市営住宅の係にいたときは実際に良くそんな住民トラブルが起きていましたよ。まさか僕がそれをやるほうになるとは思いませんでしたけど……」
「やるんかいっ!」
うしろから加奈子が突っ込んでいた。
「ははは。いいか小娘。男ってのは本来、イタズラが大好きなんだよ」
そして隣からは佳代がほっぺたを膨らませて備前を睨む。
「マー君が変なことを教えるからだよっ!」
「なーに言ってんだ。間男だって一つの家庭をぶっ壊したんだ。それでもまだ甘いくれぇの復讐だぜ……勤務先に突撃とか、そういう決定的なダメージじゃねーやつを長くやろうぜ?」
「ははは……そうですね。間男が引っ越していくまでは無敵を楽しむことにします」
「遠慮はいらんぞ無悪君。逃げても追いかける方法を俺が教えてやる……仮に捕まろうが俺がサポートしてやる……徹底的にやりたまえ」
「心強いです備前さん」
「最悪なブラック・ホゴシャンが一人増えたんですけどぉー!」
「あはは……無悪さんもマー君も、ほどほどにしようね……?」
そんなやりとりをしていたとき、備前の携帯電話が鳴った。
着信相手を見た備前は眉をひそめた。
「公衆電話……? 今どき珍しいな……いや? これはまさか」
備前は無悪を一目見た。
「備前さん、どうかしましたか……?」
「ちょっと気になってな……すまないが俺は電話をするからここで解散する。無悪君もみんなもあとは自由にしていてくれ」
そう言って備前はその場を離れつつ素早く着信に応じた。
「はい、備前です」
だが、電話の向こうからはなかなか声が返ってこなかった。
「あの……」
しばらくの無音のあと、ようやく返ってきたその声はまだ若い。ようやく変声期を迎えた男児の声のように備前には聞こえた。
自分から遠ざかった無悪の姿を見て、声が聞こえていないだろうことを確認した備前は言う。
「もしかして……無悪君の息子さんかな?」
「あ」
声の主は驚いたようだった。
「はい。僕は壊島雅楽と言います」
「やっぱりそうだったか……どうしたんだい?」
「実は……さっき母が家に帰ってきたときから荒れ狂っていまして……」
引越しの最中に蓬が乱入し、その後発狂したまま自宅に戻ったとすれば、それからしばらく対応に苦慮していただろうことが推測できるようなタイミングでの電話だった。
「あぁ……お母さんが何か言っていたのかい?」
「いえ……正直、何を言っているのかわからないくらいで……たぶん父のことで何かあったことはなんとなくわかってはいるんですが……」
備前は苦笑した。
「なるほど、それで公衆電話から電話してきてくれたんだね。まずは電話をくれてありがとう。君の判断はとっても正しいよ」
「こうなることを見越して備前さんが僕にも名刺とお金をくれたのかなって思って……」
「ふむ。落ち着いて、良くまわりが見えているね。さすがは無悪君の息子さんだ。母親のほうに似なくて良かったね」
あえて皮肉を言ったのは雅楽を試すためだと言わんばかりに備前の目は少し細くなった。だがそれに対する雅楽の返答はなかった。
「ははは、すまない。君にとっては母親のことを悪く言われたようで気分が良くないか」
「……いえ、備前さんがそう仰るのもわかります」
その言葉を聞いて備前は少し頬を緩めた。
「君は本当に利口だな。……もしかして君が母親に洗脳されてないか試して、俺があえて嫌な言い方で聞いたことにも気づいていたかい?」
「あ……なんか言葉に違和感があるとは思いました」
備前は満足そうに頷いた。
「今は君一人かい? それとも妹さんも一緒?」
「僕一人です」
「なるほど。君の気苦労を察するよ。改めてよく電話をくれたものだと思う。良かったら会って話すかい? 言いたいこと、聞きたいことがたくさんあるだろう?」
「いいんですか?」
「もちろん。いつがいい?」
「できれば今からとか、ダメですか?」
「今からかい?」
備前は一度、無悪のほうを見た。まだ部屋の前で加奈子や佳代と談笑を続けていた。
「わかった。いいよ。どこで待ち合わせようか。君の家の近くでいいからね? そうだなぁ。俺もちょうどお腹も空いてきたのでどこか食べ物屋さんはないかい? もちろん君のぶんもお金は俺が払うから心配はいらないよ」
「は、はい……では、家の近くにファミレスがあるんですが……」
「ああ、前に君の家に行ったときに見かけたからわかるよ。じゃあ30分後くらいに待ち合わせでいいかな?」
「はい。よろしくお願いします」
こうして雅楽との電話を終えたあと、備前はその場で佳代を手招きして呼びつけた。
「佳代。すまないがちょっと急用でね。車で送ってほしいところがあるんだが……」
「わかった!」
その後、備前は佳代と二人で待ち合わせ場所へと向かった。
備前と佳代がファミレスに到着すると店の入り口前に雅楽が立っていたのが見えた。
「なんだ。先に着いていたなら中で待ってればいいのに」
車の中で備前が言った。
「待ち合わせの人って、あの男の子?」
「そうだな。さっきの無悪君の息子だ」
「へぇ。このタイミングで……どうしたの?」
「実はさっきの引越し中、前の住居に元妻が文句を言いに来て一悶着あったんだが、自宅に帰ってからも子どもたちの前で荒れ狂っているようでな」
「ま~たマー君たちがボコボコにしたからじゃないの……?」
「それもあるんだろうが、あの子がこうして俺を頼ってきた以上は今日に限った問題だけじゃないんだろうよ」
「どうしてわかるの?」
「考えてみりゃあ、店の前で待っているのは金の心配だってのが想像つく」
「どういうこと?」
「常に親の経済事情まで心配している貧困家庭の子どもたちにはありがちなんだ。もし口約束だけで俺が現れなければ、店内からタダでは出られないだろう?」
「で、でも、無悪さんからありえないくらい養育費とかを貰っているんじゃなかったの?」
「さぁな。母親に支払われたあとの金の行き先なんざ知ったこっちゃねぇよ。だが、事実としてどうも貧困っぽい雰囲気が出てんな……良く見りゃ痩せている気がする」
「まだ中学生くらいだよ……? 可哀想だよ……」
「万が一、腹でも空かせていたらと思って食い物屋を指定して良かったぜ……」
「マー君、お腹いっぱい食べさせたげて!」
「あぁ。そのつもりだ」
備前は車から降りて佳代のほうに振り返る。
「送迎すまんな佳代。話が済んだら一人で帰るから、佳代は先に帰っていてくれ」
「うん。気をつけてね」
先に去って行く佳代の車を見送ってから備前は店の入り口で待つ雅楽に声を掛けた。
「待たせてすまないね。詫びの気持ちと言ってはなんだが、中で腹いっぱい食べてくれ。家で待ってる妹さんにも土産を持って帰ってもらいたいね」
そう明るく微笑みかけて備前は雅楽とともに店内に入った。







