絶望家族(4)
無悪の引越し当日、備前は軽トラックを手配したうえで石田や隆史、加奈子を労働力として伴って無悪宅で作業を行わせていた。
「お前ら。小遣いは出すんだからその分は働けよ」
「パパ、自分で働く気なくてワロタ」
家電などの大きな家具は石田と隆史、細かなものは加奈子に手伝わせて分担している。
「すみません備前さん。こんなに大勢で手伝ってもらって」
「気にしないでくれ。こちらこそ誰も車を運転できずに申し訳ないね」
「いえいえ。大きな物さえ動かせれば、軽トラの運転くらいは僕が」
「助かるよ」
無悪の部屋からは次々と荷物が運び出されていく。
「おっと。せっかくだし隆史の働く姿でも写真に撮っておくか」
「どうしてキモオジの写真なんか撮るの?」
小さなダンボール箱を抱えた加奈子が立ち止まって備前に聞いた。
「たまには有料老人ホームに突っ込んだあいつの母親でも様子見に行こうかと思ってな。息子の働く姿でも見せてやろうかと思ってさ」
「うわ……パパ、優しい」
「ああ。少しでも長く元気でいてほしいからな」
「養分目的でワロタ」
「隆史なんか時給300円とでも言いてぇところだが、今日は奮発してやろうか」
などと賑やかに作業をしていたときだった。
アパートの敷地に蓬が現れた。
無悪は元妻の姿に気づいたとたん、嫌げに顔を背ける。しかし蓬はそんな無悪の態度を物ともせずズカズカと一直線に近づいた。
「ちょっとあんた! なんで電話に出ねーんだよっ!」
それが第一声だった。しかし無悪は抑揚なく、視線すら向けずに口を開く。
「……もうお前と話すことはないからさ」
「私たちはどうすんだよっ!」
「知るかよ。自分で考えろ」
「家はっ!? 子どもたちはどうするんだよ!?」
「もう会わせないと言い出したのはお前だろ? ならもう俺にとって存在しないも同然なんだ、知るか」
「ふっざけんな! 養え!」
「嫌だね。……て言うか、もう払えねーよ」
「……っ! 本当に仕事辞めたの?」
「正式には、まだだけどな」
「どうすんのよ」
「お前が知る必要はない」
「子どもたちの将来がかかってんでしょうが! 働けよ!」
「お前がな。ははは」
「私は子育てしてんだっ! パートなんだよ!」
「普通に働きながら育てている女性もたくさんいるんだが?」
「知らねーよ! とにかく払えっ!」
「気が向いたらな」
「ふっざけんな!」
「……もう用件が済んだなら帰れよ、邪魔だ」
「金払うまで帰らねーよ!」
「じゃあずっとここにいろ。僕はもう引っ越すことにしたから」
「はぁ!? ふざけんな! どこに行くんだよ!」
「言う訳ないだろ」
「子どもを見捨てる気!?」
「……残念だが、もうどうでもいいんだよ」
「はぁ!?」
のれんに腕押し状態の無悪に言葉を失う蓬。
そこへ一貫して冷たい表情のまま続ける無悪。
「どうでもいい。何もかもどうでもいい……」
「……ふ、ふざけてるんでしょ? なによ、どうでもいいって!」
「どうでもいい。何もかもどうでもいい……」
「そんな訳ないでしょ……? アンタの子よ!?」
「どうでもいい。何もかもどうでもいい……」
「マジでどうしちゃったのよ……?」
呆然とする蓬に表情のない無悪の視線が重なることはない。
その状況に、加奈子も石田も隆史も、誰もがその作業の手を止めて辺りは静かになった。
「もういいでしょう? 壊島さん」
備前が二人の間に割って入った。
「無悪さんはね、もうあなたとは関わりたくないんですよ。なのでここから先は代理人の私が話を伺います」
「備前さん……よろしくお願いします」
無悪は備前にだけ一礼して作業に戻っていく。
「これでわかったでしょう? 壊島さん、あなた少しやりすぎましたね。女がなんでも好き勝手に振舞える時代は終わろうとしているのでしょう」
「は? ……ふざけんなよ。……どうすんだよ」
「もう良い歳したオバサンなんですから、自分で考えたらいかがです?」
「ふっざけんな!」
「あっ。考える知能が足りませんでしたか。それでは風俗で稼ぐのはどうでしょう。あいにく私には指名したいほどの魅力を感じられませんが……」
「ふっざけんな!」
「なら、間男に貢がせるというのはどうでしょう?」
「無理に決まってんだろ!」
「そうでしょうねぇ。あなたに釣り合うような男じゃあ。ははは」
「ふっざけんな!」
「ふざけんなふざけんなって、もしかして日本語がわからないサルの言葉でしたか?」
「テメェ!」
蓬は激昂し、手を振り上げ備前に殴りかかろうとした。
そしてそれを待ち受ける備前はむしろ頬を差し出すように殴られやすい構えをしていたからか、蓬は逆に警戒を強めるように怪訝な顔をして手を止めた。
「あぁ惜しい。もう少しで手を出してくれると思ったのに」
「アニキ、もうこいつ男女平等パンチってやつをくれてやればいいんじゃないですかね?」
横から口を挟む石田を手で制して作業に戻らせながら備前は蓬を嘲笑った。
「今日は少しだけ冷静なようですね、ははは」
「あの人に代わってください」
一旦落ち着いたのか抑揚のない声で淡々という蓬。
「お断りします」
「こちらには公正証書もあります。住所を変えるときは知らせてください」
「無視します。ご不満なら裁判でもなんでもご自由にどうぞ。ただ、失うものがない彼にいったいどんな命令が有効なのでしょうか……?」
「ふざけないでください……!」
「ふざけているとでも思っているんですか?」
「くそっ!」
一時的に冷静なふりをしてもすぐに鍍金が剥がれ落ちる蓬に備前は失笑を禁じえない。
「言っておきますがね? おそらく彼は自分自身すらどうでもいいと思っていますが、それに救われているのはあなたなんですよ?」
「……は?」
「彼があなたの不倫について何も言わないのはどうしてだと思います?」
「そんなの……証拠がないからでしょうが!」
「違いますね」
「じゃあ、なんなんですかっ!」
「あなたのことも含め、心底どうでもいいからですよ」
「はぁ?」
「私はこう思うんです。男が女を許せないのはその女が大切であるがゆえ。つまりワガママを許したりと寛容であればあるほど、その女に興味を持っていないんです。不倫すらどうでもいいと見過ごせるのは、そういうことなんですよ」
「……」
「見逃してもらえたことに感謝して、もう彼を解放してあげるべきだ」
備前の静かな言葉にしばらく俯いていた蓬であったが、やがてゆっくりとその口を開く。
「見逃すってことは、許したってことですね」
「は?」
蓬の理論は備前すら呆然とさせた。
「許しているなら、もういいじゃないですか……」
「それはさすがに吹っ飛びすぎな考えでしょう」
「許してるなら、もう無かったことにできるってこと!」
「ダメだ、こいつ人類ではなかった……」
備前は思わず額から目を覆わずにはいられなかった。
そして備前が手で目を覆い隠している一瞬のことだった。突如として蓬は地を蹴り、素早い動作で備前の脇をすり抜け、作業中の無悪にまで駆け寄ったのだった。
「おい流舞! じゃあちゃんと子どもたちに会わせたら働くんだな!?」
無悪はため息をついて答える。
「どうでもいい」
そして一瞥だけくれて作業に戻る。
そこへ一瞬の隙を突かれて蓬の行動を見逃した備前が追いつく。
「ちょっと壊島さん。あまり勝手なことをすると付きまといで然るべきところに相談することになりますよ。しかもあなたの非常識な行動の数々……正直に言うと私はあなたの親としての資質を疑っています。彼のためにも親権を争うことすら考えていたくらいですよ」
「は!? 何言ってんだアホ。私は女なんだよ! 親権は女に決まってんだろ!」
「本当に残念ですよ……。私もまだ、彼は親権さえ取り戻せれば子どもたちのために再び頑張れるんじゃないかと期待していたんですから」
備前は首を力なく振る。
「彼の目を見てわからないんですか……? もはや子どもたちの存在ですら心を動かせなくなった彼の絶望が。あなたのような女は、もう彼の視界にも入らないんですよ」
「そんな……ふざけんな……ふざけないでよ……」
蓬は呆然と立ち尽くした。そんな蓬をまるで存在すら認識していないかのように荷物を詰めたダンボールを持って通り抜ける無悪。
「ねぇパパ。……大丈夫?」
作業の手を止め、加奈子が備前の隣までやって来た。
「良く見ておけ小娘。これがヒステリック女の末路だ」
「う、うん……さっきから聞こえちゃってたけど、もうメチャクチャだよね……こんなにとんでもないんだ……狂ってるよ」
「な? 話が通じないってレベルじゃないだろ? 人間の姿をしただけの別の生き物さ。小娘はこんなふうになるなよ?」
「な、ならないよ」
「よし、いい子だ」
備前は加奈子の頭をグシャグシャと撫でた。
そんな茶番がすぐ横で繰り広げられるなか、蓬は静かに口を開く。
「わかった。わかったわよ……そんなに言うなら考え直してあげなくもない」
加奈子は顔を引き攣らせた。
「うわぁ……こいつまだ上から目線とか、マヂ意味わかんねー……」
加奈子は完全に痛いものを見る目だった。
蓬は自分を視界にさえ入れない無悪を追って声をかける。
「あの男と別れて、アンタとやり直す、これでいいんでしょ!?」
「ブハッ! ダメだこいつアホすぎワロタ」
ついに加奈子は吹き出したが、蓬は至って真面目な顔で無悪に声を掛けていた。
そしてそんな言葉を掛けられた無悪は無視を決め込んでいたにも関わらず堪らずえずく。吐き気を隠し切れない様子だった。
「な、何よその態度! 許したんでしょ!? ならいいじゃない……!」
そんな蓬に無悪は一度冷たい視線を送り、小さくひとこと洩らした。
「ほかの男の手アカがついた女とか無理だから」
「はぁ!? 何それ!?」
「汚ぇもんを近くに置いとくなんて無理だと言ったんだ」
「うわ! 処女厨かよキモ」
「いや、若い商売女も結構良かったぜ? 使い捨ての女体なら全然ありだったな……お前みたいな絞りカスには女体にすら価値を感じねぇし……なんて言えばいいのか、生ゴミを近くにキープしておきたくないって感じだな」
「ふっざけんな! 器が小っせぇんだよ!」
「お前は脳ミソが小さいだろ。そのぶん顔が小さくて良かったな、ははは」
「はぁっ!?テメェ……!」
そう言いかけた蓬の肩を加奈子がポンと叩いて止めていた。
「オバハン、もう止めときなよ。さっきから聞いてればさすがに見苦しいって」
「はぁっ!? オバ……!?」
「そうだよオバハン。わっかんねーの? 女としての減価償却を終えた備忘価格の残りカスなんだよ、あんた」
それを聞いて吹き出したのは備前だった。
「ブハッ! 小娘、お前ちゃんと簿記の勉強ができてんな……実は用語上は『備忘価格』じゃなくて『備忘価額』なんだが、そんな些細な問題はともかく、本質は大正解だ!」
事業用機器など高価な資産も経過年数とともに価値は減少する。やがて完全に失われても廃棄するまで実物として存在する以上、帳簿上に1円の価値は残しておこうという趣旨が備忘価額である。
誤字の間違えを指摘された手前、加奈子は備前に少し照れ隠しの笑みを向けるも、またすぐに強い視線を蓬に向けた。
「んで次に言うのはこう? あんたみたいな小娘が! たしかにアタシは今はまだ若いだけ。でもね、今は色々と積み上げてんだ。オバハンよりはものの価値が少しは良く見える。何も積まず、唯一の武器だった若さを消費しきったババァには最早なんの価値もありゃしねーよ」
加奈子の言葉が耳に入った石田も隆史も作業を続けながら苦笑いを浮かべていた。
「だから、オバハンの備忘価額に見合うような男はぁ……ここにいる、キモオジだけっ!」
加奈子はビシッと隆史を指差す。
「お、俺……?」
突然の指名に隆史は戸惑った。
一方で蓬も隆史の容姿を見て顔を引き攣らせていた。
「ねぇオバハン。このキモオジの童貞でももらって、あ・げ・て?」
「俺だって嫌だよ、こんなヒステリック女……」
「ぐはっ! 中年童貞ニートからもまさかの拒否ワロタ」
隆史の反応を見てから加奈子は得意げに蓬を見てニヤける。
「だってさ?」
蓬と隆史以外の誰もが失笑を禁じえない状況で、やがて蓬は顔を真っ赤にして叫んだ。
「あぁ! もう! 本当にゴミみてぇな奴しかいねぇな!」
そして勢い良く踵を返して帰っていく。
「マジで使えねー男どもに価値なんかねーから!」
蓬はそんな負け惜しみのような言葉を残して去って行ったのだった。







