絶望家族(1)
・離婚で親権を争うと9割以上は女が有利
ある日の昼前、備前が帰宅しようとしたとき敷地の隣にある市営住宅の屋上に人影を見た。
「ん? 屋上に出るには鍵が必要なはずなんだが……?」
備前は不思議に思ってそちらのほうへ足を向けた。市営住宅の屋上の扉は開錠されており、備前が屋上へ出ると、備前が見た人影は一人の男性だということがわかった。
六階建てのさらにその上からとなると足元も竦みそうな高さである。そんな屋上のちょっとした淵の上に立って男は遠くを見つめていた。
「すごいね。死ねるのかい?」
備前は男性の背後からそう声をかけた。
ゆっくりと振り返った男性は備前を見て少し驚いた顔をした。
備前もまた、その男性の顔には見覚えがあった。
「おや……? 君はどこかで見たことがあるな……」
男性の年の頃は40歳手前。痩せこけて、精気の抜け切った顔をしていた。
「備前さんでしたか……僕は住宅課の無悪流舞です」
「なるほど、見たことあるはずだ。市の職員だったか。どおりで屋上の鍵を開けられたのか」
「そうですね」
そう返事をしたきり無悪は口を閉ざした。
「なかなか死ぬのは怖いもんだろう」
「そうですね」
「俺も自殺を考えたことがあるからわかるよ」
「……そうですか」
「君が俺の目の前で飛び降りれたら、俺にも勇気が出るかもしれないな」
「実際には、もうできませんでしたけどね」
そう言って無悪は屋上の淵から安全な位置まで降りた。
「あの、このことは職場には……」
「言わないさ。俺はもう退職した身だからね」
「あ、ありがとうございます」
「礼を言われるようなことじゃないさ。……それよりこっちも悪かったね。君が俺を知ってくれていたのに」
「いえ」
「君はいくつだい?」
「38です」
「それでもう死にたいのかい」
「生きててもムダですから」
「そうかい。同じく死を望む者同士、仲良くできそうだね」
「はは……そう、ですね」
「良かったら少し話でもしないかい? 実は家が近いんだ。……話してスッキリすればよし、しなけりゃそのあと死ねばいいだろう?」
無悪は渇いた笑みを浮かべた。
「すげ……こういうときにも引き止めたりしないんですね」
「むしろ背中を押してほしい気持ちがわかるからさ」
「ははは……なんかちょっと、話を聞いてほしいなって思っちゃいました」
「いいだろう。じゃあ俺の家まで案内するよ」
こうして備前は自殺志願者を自宅に招いたのだった。
備前の部屋のリビングでコーヒーを傾けながら備前は問うた。
「で、どうして死のうと思ったんだい?」
「全てを失い、何もかも、どうでもよくなりました」
「なるほどねぇ……俺と似たようなもんか」
「備前さんも?」
「ま、今のところはこうして悠々自適に暮らしているがね」
「羨ましいです……僕は、今、とても苦しい」
「訳を聞こうか」
「きっかけは……まぁ、離婚ですね」
「多いよな、そのパターン」
「男は惨めなもんですよ。男って理由だけで親権はほぼ百パーセント奪われる。そして養育費を払ったらギリギリの極貧生活。しかも子どもを人質に取られているから、その後の交渉すらまともにできない……向こうは男を作ってのうのうと生きてんのに、僕はと言えば、自分だけ生きるのに精一杯です」
「ま、基本的に結婚や離婚は女性の保護的な観点が強いからな」
「何が男女平等だってんだ……チクショウ」
「そうやって痛い目を見た男が女を恨むから男女の分断が広がるんだよな」
「備前さんも……?」
「いや、俺はちと違うが……でもわかるぜ? その気持ち、怒り」
「嬉しいです。わかってくれる人がいて」
「公には言えねぇもんな、そんなこと。言えば男が何言ってんだって袋叩きだ」
「そうなんです! ……だから!」
「だから死のうとしたのか?」
「そうです……あの女、本当は離婚後に男を作ったんじゃなかった……浮気してやがったんです。あの市営住宅に住んでた底辺男と……だから、だからその男の部屋の上から飛び降りて死んでやろうかと……」
「やめとけやめとけ。……そこまで聞いたら話は変わった。市営住宅に住んでる低所得で不倫もするような男がまともな訳ねーだろ。んで、そんな男と関係を持つ君の元妻も相当だな」
「学生の頃から知ってたみたいで……」
「関係ねーな、まごうことなき底辺同士だ。……そんな奴らのために死んで抗議をしたって当人たちは気にも留めねーぞ?」
「……やっぱり、そうですよね」
「それに子どものことは考えたのか?」
「当たり前ですよ! 養育費だって一度も欠かしたことはない。むしろ、子どもたちを思うからこそ自分をギリギリまで追い込んでも頑張れてきたんです」
「そんな言い方をするんじゃあ、だいぶ絞られたな?」
無悪は重く頷く。
「もうメチャクチャですよ……。財産分与じゃ学資保険も全部持っていかれたし、共有で持ってた持家も持分を全部差し出しました。でも、ローンだけは僕にも残っています」
「は? そんなメチャクチャな条件を飲むなよ」
「言ったじゃないですか、人質がいるって……そうしないと面会させないと言われたら……交渉の余地なんてまるでない……」
「相手の不倫も、離婚後に知ったから時すでに遅し……って訳か。そりゃあヒデェ女を掴んじまったな」
「ねぇ? こんなのアリなんでしょうか? 不倫をしたのは相手のほうなんですよ!? それなのになんで親権は問答無用で女なんですか」
「残念だが、それが女の特権だからだ」
「こんなの……本当に物言えぬATMだ」
「だから死ぬのか?」
「もちろんそれだけなら耐えてましたよ……でもね、今度はあの女、こんなことを言ってきやがった……新しい関係もあるから、子どもにはもう会わせない」
「そりゃ、好き勝手やりすぎたな」
「殺したい。本当にあの女だけは殺したい……でも殺したら子どもたちが人殺しの子になってしまう……そんなことできるはずがない」
「それは悔しいだろうな」
「僕だって子どものことは心配ですよ……でも、もうあの女の思い通りになるのだけは嫌だ……心が折れた。いや、壊れてしまったのかもしれません。信じられますか? 自分の子どものことなのに、どうせ会えないのならどうなったっていいや……って思っちゃったんです」
備前は黙って無悪の言葉を聞いていた。
「あの女はパートだ。養育費もなく、僕がローンの支払いも滞らせれば詰む。……だからそれは確実に子どもたちの環境にも影響を与える。……それでも、それでもあの女が終わるならいいと思ってしまった。子どものことすら、どうでもいいと思った自分に気づいてしまった……こんな結論、心が壊れてなきゃ思いつくはずがない」
「なるほどな」
備前は重く頷きつつも淡々と言った。
「だが、それでも死ねもせず、君はいったい何をしたいんだ?」
「もう何もかもどうでもいいんです。全てのことに期待なんかしていません。だから希望もありません。本当の絶望です。死んでもいい。むしろ無差別殺人とかテロでも起こせば死刑になれるんですかね?」
「落ち着け……自分の子どもを人殺しの子にしたくないと言ったのは君だろう?」
「でももう今さらどうでもいい……どうせ会えもしない子どもなんか存在しないも同然ですから。どうでもいい、何もかもどうでもいい」
無悪の取り乱しようを見て備前は少し首を傾げた。
「君、すごく病んでいるように見えるが、もしかして今、休職中だったりするかい?」
「そうですね……うつ病です」
「やっぱりな……見たところ躁鬱が激しいように見える」
「実は、市営住宅の屋上の鍵も勝手知ったる職場に忍び込んで持ってきました」
「もう行動から考え方まで、何もかもメチャクチャだな……そこまで自分で考えをまとめられなくなってしまったか」
「それは自分でも自覚があります……だから、仕事ができなくなってしまったんです」
「だよな。子どもすら本当にどうでもいいのなら、思うがまま元妻に復讐をしたらいい。殺してやったらいいはずなんだ……君の考えは矛盾しているよ」
「そう、ですよね……復讐……そうか、復讐か……」
無悪は虚ろな目で呟いた。
いつもお読みいただきありがとうございます。
今回の「絶望家族」はいつもの制度説明的な内容でなく、物語に寄せて書きます。
ただ、すごく底辺臭のする当作品のなかでも屈指の胸糞展開かもしれません。







