更年期サイマー女(6)
福祉事務所の窓口でいつもどおり安岡が肩を落としていた。
「じゃ、いつものとおり頼むよ、安岡君」
「……わかりました、としか言いようがありません」
古謝を伴っての生活保護申請はつつがなく終了した。席を立った備前と加奈子、古謝は窓口から少し離れた待合スペースに腰をかけた。
「備前さんが主導してくれたおかげか、申請がスムーズで驚きました。以前私が相談したときとは大違いです」
「ははは。慣れたものですから、と言っておきましょうか。職員さんも私の前でうかつなことは言えないでしょうからね」
「備前さんに頼んで正解でした。ありがとうございます」
「お役に立てて光栄です。ですがまだ、税金滞納の話が残っていますので、このあとは納税課にも行こうかと思いますが……」
「あ。はい……」
古謝は少しためらいの表情を見せた。
「何か気になることでも?」
「いえ……私ちょっと、納税課の窓口は苦手でして……」
「なるほど。無理も無いことです。では交渉は私のほうで行いましょう。基本的に納税相談は他人では行えませんが、窓口で私に一任する旨を職員に伝えていただければ、あとは別の場所で休んでいてもらって結構ですので」
「お手数をおかけします」
古謝は備前に一礼をした
「備前さん。アタシは同席したほうがいいですか?」
加奈子が古謝の前でかしこまった言い方をして備前に問う。
「そうだな……納税課でのやり取りはあとで共有するから、笹石クンは古謝さんといてくれたまえ。……そうだ。これで二人とも何か飲み物でも」
備前は財布から千円札を一枚取り出して加奈子に渡した。
その後、備前に従って納税課で相談に関する委任の意思を表した古謝は加奈子に導かれて納税課の窓口をあとにした。
残ったのは備前と、安岡と同期の納税課職員、百鬼である。歳も安岡と同じく30代半ばの男性で、体格は縦にも横にも備前よりひと回りも大きい。こわもてで威圧感のある男だった。
窓口を挟んで1対1。立ったまま対峙する備前と百鬼であったが、先に口火を切ったのは百鬼のほうだった。
「どうも~。ご無沙汰しております備前さん。ささ、どうぞイスにおかけください」
百鬼の表情はとたんに砕け、こわもてに似合わぬ笑顔で言った。
「やあ。百鬼君も相変わらずの迫力だね」
「図体だけですよ。備前さんのようにはいきません」
「なかなか皮肉を言ってくるようになったじゃないか」
「いやいやホントですって、本当」
二人は笑い合った。備前が席についたあと、自分も席についた百鬼は改まって切り出す。
「たしかに色々と安岡から聞いてますけど、備前さんがすごいんだってのに変わりはないですからね。そこんとこは理解してるんで、俺はただ、ルールどおりにやらせていただきますよ」
「話が早くて助かるよ。用件とすれば先ほどの古謝紫さんが生活保護になることを伝えておきたかっただけなんだ……まぁ、後ほど福祉事務所から調査もあるだろうからお察しだろうけどね」
「なるほど。執行停止狙い……ですね」
「そうそう。2号になるかな」
「国税徴収法なら153条、地方税法なら15条の7」
「滞納処分によって生活を著しく窮迫させる恐れがあるときは執行停止ができる」
「基本的には申請によるものではありませんが、生活保護ならやむを得ませんね」
「まぁ、滞納自体がすぐになくなる訳ではないけれどね」
「ない袖は振れませんから。こちらも積極的に納税を求めることはしなくなるでしょう」
「2号の執行停止の場合、そのまま3年経てば?」
「もちろん義務は消滅しますね」
「さすが、百鬼君はよくわかっているね」
「そりゃあ備前さんにしごかれましたからね」
二人はまた笑い合った。
「それじゃあ、客を待たせているんで俺はもう行くよ」
「はい。こちらのほうはお任せください」
そして備前は早々に席を立った。
一方でひと足先に納税課をあとにしていた加奈子と古謝はベンチに横並びで座っていた。
「備前さん、本当にすごい方ですね……職員さんが手も足も出ないって感じでした……でもさすがに税金までは……」
宙に視線を投げながら古謝が呆けた様子で言った。
「心配ありませんよ。備前の様子を見る限り、まったく問題ないと思います。アタシはまだ見習いなので、どんな手段を使っているのかまでは想像もできませんが」
「そもそも税金て踏み倒せるようなものなんでしょうか。良く差押をチラつかせるような通知も来るじゃないですか」
「でもきっと大丈夫ですよ。備前がそう言ったんですから」
加奈子の根拠もない自信を持った笑みを見て、古謝は苦笑した。
「さて。税金の件が片づけば、残るは破産手続きのみですね」
加奈子がそう切り出したときだった。
「あの~……。そのことでひとつ、ご相談が……」
古謝が小さく手を上げた。
「破産の件についてですか? いったいどんなご相談でしょう?」
「その、実は色々考えたんですが、良く考えてみたら、たった50万円のために破産なんてバカみたいじゃないですか」
「は、はぁ……」
加奈子は身構えた。
「備前さんが仰ったとおり、ほかの方に頼むと破産ってけっこう費用がかかるんですよね……なので、お支払した20万円のうち、大部分は破産手続きのぶんだと思うんです」
「そ、それが何か……?」
「ご相談というのは、今からその破産手続きをキャンセルする代わりに、大部分とは言いません。半分の10万円だけでも返金していただけないかと……」
「え、えええっ!?」
加奈子は仰天した。
「そ、それは私にはなんとも……」
「どうしてですか!? 依頼のキャンセルじゃないですか」
古謝は加奈子に詰め寄った。
「でも、それじゃあ申請代行の美味しいところだけ使うようなものじゃ……」
加奈子がたじろぎだしたときだった。
「古謝さん。お待たせしました。税金の件、片づけてきましたよ」
備前が二人の前に姿を現した。
「えっ!? も、もう済んだんですかっ!? 税金の滞納が!?」
古謝は飛び上がるようにベンチから立ち上がった。
「え、ええ……終わりましたが……何か問題でもありましたか?」
備前は古謝の驚きように戸惑いの表情を見せた。
「いえ、そうではありませんが……税金ですよ? それがこんなにも簡単に片づいてしまうんですか!?」
「ですから、私どもも手馴れていると申し上げたではありませんか」
「し、信じられない……」
「ははは。それでも以後は納税課に怯える必要はありませんよ? 執行停止と言って……銀行に置き換えるなら回収できない貸付金は不良債権として諦めるじゃないですか。それと同じことをしてもらったんですよ」
「そ、そんなに簡単に!? あの嫌~な言い方であら探しをしてくるような職員さんたちが税金をそんなに簡単に諦め!?」
「だ、だいぶ古謝さんも嫌な思いをされたようですね……でも、本当に大丈夫です」
たじろぎながらも答える備前の表情を見て、古謝は胸を撫で下ろした。
「本当に良かった……備前さんに頼んで、本当に良かった……」
「いやいや古謝さん。まだ破産手続きが残っているではありませんか」
備前がそう言ったときだった。
「あ、実はそのことで先ほど古謝さんから……」
加奈子がおずおずと手を上げた。しかしすぐにその声を掻き消すように古謝が声を発する。
「い、いえ! なんでも! 私ちょっとまだ気が落ち着かないみたいで……笹石さんに変なことを聞いてしまったのですが、もういいんです。笹石さんも先ほどのことは忘れてください!」
「は、はぁ……」
加奈子は呆けた顔で首を傾げた。
「ええと。古謝さん、いったい先ほどは何が?」
「いいえ何も。備前さん。残りの破産手続きもよろしくお願いしますね!」
わざとらしくも微笑む古謝を見て、備前は首を傾げながらも最後には軽く微笑むに至った。
「ええ。もちろんお任せください」
こうして備前と加奈子は古謝を伴った生活保護申請を終えた。
「おい小娘。あのサイマー女と何かあったのか?」
備前と加奈子の二人の帰り道。備前が問うた。
「う~ん。結果的には何もなかったんだけど……実は、破産手続きをキャンセルする代わりに10万円返せって言われてたんだよね」
「ほう? それを小娘が跳ね除けたのか」
「いや、ちょうどパパが来て助かったんだ。自分から急に引っ込めた感じ。たぶんパパの前でいいカッコしたかったんだと思うけど……これって、やっぱりアタシ、格下に見られてたってことだよね?」
「……ま、そうかもしれんな。女同士は面倒臭ぇな」
「う~。なんかもやもやするぅ。何事もなく終わったけど、もやもやするぅ!」
「ははは。んなもん、社会に出りゃ日常茶飯事だろ。勉強と思って飲み込んどけや」
「うう~! スッキリしなぁ~い! 結局パパがどうやって税金までチャラにしてきたか良くわかんなかったし!」
「ああ、それな。それなら本当はただひとこと、納税課に生活保護になりましたって言ってくるだけだぞ?」
「へ?」
「だから、生活保護になったと言うだけだ。別に申請書もなんにも要らねぇんだよ」
「マ、マヂ!?」
「本当だ。国税徴収法にも地方税法にも条件が規定されていてな。死んだり倒産した場合や、生活困窮だったり、居所不明だったりするとき、国や自治体は執行停止と言って取り立てを諦めることができるんだ。取る金がないのに、いつまでも無駄な労力を割いているほうがよっぽど無駄だからな」
「そぉなんだ~……貧乏人の相手は無駄ってこと?」
「そういうこった。だが気をつけろよ? この時点で完全に義務が消える訳じゃねぇ。資力が復活したと知れれば執行停止を解除されて再び取り立てられることになる」
「どうすればいいの?」
「2号停止、つまり困窮による執行停止の場合は3年経過するか、元々あった5年経過の時効、どっちか早いほうがきた時点で義務消滅する……つまり税金は消えるし、逆に納めたくても納められない状態になる」
「へぇ~……要は資力がないまま最長3年待てばいいんだね?」
「死んで相続人がいなかったり、法人が倒産した場合などは1号停止と言って即時欠損だ。3年待つ意味がねぇからな」
「う、う~ん。頑張って覚えておく……」
「あとはそうだな……基本的に執行停止は納税部門が勝手に判断して行うもんだから申請をするものじゃねぇんだが、例えば公売などで今にも家を売られてしまうとか、いざというときには申し出することもできるからな、覚えとけよ」
「う、うん」
「執行停止は、言ってみりゃあ税金を納めなくても良いと認めてもらう行為だから貧困層には救いになる。だから本当はもっと詳しく教えてやりてぇんだが」
「何かあるの?」
「過去にとある弁護士が国税庁に情報公開請求したことがあるんだが、執行停止に関する一部は公開が認められなかったんだ」
「なんで?」
「不開示理由はザックリ言って、悪用する奴が出るからだ」
「あ~……パパみたいな奴のことだな?」
「バカ言え。俺レベルになると不開示部分まで大よそ検討がついてんだよ」
「え!? じゃあ教えてよ」
「そうしたいのは山々なんだがな……国が不開示にしてる情報を俺がベラベラ喋ってしまう訳にはいくまいよ。ま、俺はその情報を知れる立場じゃねぇし、あくまで一個人の推測って話なんだが、正解か否かはともかく、不開示の趣旨には引っ掛かっちまう情報だからな」
「いいじゃんいいじゃん。今はアタシしか聞いてないんだし」
「いや、どこに人の耳があるかはわからん」
「そんな。妖精さんが聞いてる訳じゃあるまいし」
「それが、なんか妖精さんとやらの気配がするんだよなぁ……だからあとで妖精さんの気配が消えたときにコッソリと教えてやる」
「ぃやったぁ! ありがとパパ!」
加奈子は軽く飛び上がった。
「とりあえず、税金や破産についての説明はこんなもんでいいか?」
「うん! 生活保護を検討しているときは、借金や税金についてそんなに怖がる必要はないんだってことはわかった」
「そうだ。なんたって貧困の強みは失うもんがねぇってことだからな」
「無敵すぎぃ!」
「だから小娘。その無敵の人間の刃が自分に向くことがないよう気をつけて、相手を選んで養分にすることを覚えろよ?」
「うん! わかったぁ!」
加奈子は笑顔で答えた。そんな笑顔の帰り道だった。
「あ。だがヤクザ絡みの借金が生活保護申請をキッカケに見つかって取り立て再開されたって話を聞いたことがあるな。生活保護申請はそこで住民登録をするようだし、不正な手段でもヤクザに住所が割れてしまえば終わりだからな。ははは」
「最後の最後に笑ってぶっ込む話じゃねー……」







