疑惑の申請
安岡はしばし呆然としたあと、言った。
「……本気ですか?」
「こんなことは冗談では言わないよ」
「でも財産は? 退職金だってありましたよね?」
「退職金はね、言い難いんだけど全て失ってしまったよ。詐欺に引っ掛かってしまってね」
備前はとてもそんな目にあったようには見えぬほど淡々として言った。
「とても信じられません」
「なら調べて見て欲しい。生活保護法第29条に定める調査権を使ってね」
「どうやったのかは知りませんが、我々の手法を我々以上に熟知している備前さんが尻尾を掴ませてくれる気もしません」
「そうだね。俺は離婚で家も手放したし、申請前に車も売った。財産と呼べるものは一切ないから要否判定も確実に通るだろうねぇ」
「しかし備前さんはまだ働ける年齢じゃないですか」
備前は安岡の問いに答える前に一冊の手帳を差し出した。
「精神障害者保健福祉手帳3級。うつ病でね。障害年金2級も決まったよ。……要するに働けないし、障害者加算(イ)も足して支給してくれってことだよ」
「そんな……」
「大丈夫。安岡君に手間は取らせない。ケース会議用の資料は俺が用意しておいた。俺も制度や実情は把握しているからね、通るようにしてある。あとは安岡君の好みで多少編集してもらって構わない」
「そりゃあ裏の裏まで知っている備前さんが通そうと思えば表面上は通るように作れてしまうでしょう……でも、だからって、こんなやり方は……」
「安岡君。発言には気をつけた方が良い。君たちは俺の申請内容を否定できる材料を持っていないはずだが?」
「財産を隠したり、申告しないのは法律違反ですよ」
「だが、そういうことは見つけてから言うものだ」
「捕まりますよ」
「それでもいい。失うものは何もないからね。却下されたらまた申請すればいいだけの話。無敵なんだよ、今の俺は」
「どうして……どうしてこんな裏切りみたいなことを……」
「汗水垂らして働いたって、俺は幸せになんかなれない。そんなことに気づいてしまったのさ」
「このこと、美幸さんは知っているんですか?」
「元妻は今さら関係ないな」
「生活保護になんかなって、どうするつもりですか」
「遊んで暮らすのさ。全ての時間を趣味に使って悠々自適、ルール無用のお気楽無敵生活をね」
「……認められません」
「それを決めるのは安岡君ではないはずだ。生活保護は誰でも自由に申請でき、福祉事務所にそれを拒む権限などない」
「ですが備前さんの仰ることは明らかな嘘だ」
「それが証明できなければ真実となる」
「探し出しますよ……こんなやり方、酷すぎる」
「ぜひやってもらいたいね。原則は申請があってから14日以内だ。間に合うかな?」
「法第24条第5項後段では特別な場合は30日まで延長可能なはずです」
「結構。ではその間、楽しみに待たせてもらおうかな」
備前は自分の保護決定を信じて疑わなかった。
「ただ、根拠もなく印象だけで却下することだけはしないでくれよ? そんなことをすれば余計に大変なことになるだろうから、ね?」
「わかっています」
備前は満足そうに頷いた。
「それから……俺が最初にこう言ったのを覚えているかな? これからは困っている人を助けてあげられる人になりたいと」
安岡は備前の不敵な笑みに戦慄した。
「俺は、お前達が俺にした仕打ちを忘れない……これからは保護になりそうな奴らを片っ端からこのI市に呼び込んでやる……この小娘はホンの手土産だ。公金をしゃぶり尽くしてやるからな、楽しみにしておいてくれよ?」
安岡はいたたまれない顔で口を閉ざしていた。
「なぁんてな、冗談だよ。何も保護者とCWは敵同士じゃないんだ。仲良くやって行こうじゃないか」
そう言って備前は安岡に握手を求めたが、安岡はそれを不審がって躊躇っていた。
「ははは、怖がらないでくれよ安岡君。ビジネスライクに行こうじゃないか。そちらが余計なことをしなければ、こちらも大人しくしておいてやるからさ……ルールに従ってね」
「恐ろしいですよ……こちらの手を知り尽くした生活保護のスペシャリスト、最強の査察指導員が闇落ちだなんて」
安岡の引き攣った顔を嘲笑うように備前は頬を緩めた。
「ま、冗談はさておき、申請の方はよろしく頼んだよ」
双方作り上げた笑顔の裏で申請手続きは終わった。
お読みいただき、ありがとうございます。
題材としている以上、私自身ある程度の制度を知っているつもりです。
将来的にポロッと色んな制度の抜け道知識が披露されてしまうかも知れないですね~。
実質、差押えされない預金口座の作り方とか、知りたくないですか?
おっと! 犯罪はオススメしませんよ?
それに念のためですが、私は無職でも滞納者でも生活保護者でも査察指導員でもありません(笑)