4.魔法は使えますか?「もちろんです」
4.魔法は使えますか?「もちろんです」
深夜。物音一つなく、寝静まっていた。
ぼくはというと、ベランダで星空を眺めていた。
まったく知らない星座が天上にあった。地球なら天の川にあたる光の帯が、二つに分かれていた。つまり二つの銀河が一つになろうとしており、その途中にこの星の太陽系が存在していた。天の川が一つになるには、あと数億年かかるだろう。
十分ほど観察したけれど、北極星にあたる天体はなかった。
(経度を計算するには精確な時計が必要ですね……)
緯度は太陽の高さで調べやすい。大航海時代、東西にまっすぐ航行することは簡単だった。でないと世界一周はできない。
(来たか……)
この星のことをもっと知りたいと思ったが、来訪者だった。
気配を察知する日本人の感覚は、海外の人には理解できないだろう。この世界の人間も同じだった。
ぼくが振り返って、持っていた濡れタオルで〝何もない〟空間を切った。
「うっ!」
光学迷彩が滲んだ。白いチョークが光を反射して、一部が人の形になった。
斜め後ろにもう一人いた。ご丁寧にナイフまで光学迷彩らしい。
(もう一人いるのか……)
静かな夜だ。吐息の音くらい聞こえる。
「流石は〈異邦人の魔術師〉だな」
やはり三人目がいた。
「貴公に折り入って頼みがある」
ぼくはタオルで、手前の女の手首を絡めて引き寄せると、ナイフを左肋骨の隙間に滑り入れた。
「!」
訓練されているらしく、声を上げなかった。ゆっくり横に倒すと、女の右腰のグラディウスを手にした。
「当方に敵意はない。話し合いに応じて――」
音の反響を確かめてグラディウスを投げるが、もう一人に落とされてしまった。
「くっ!」
しかし同時に投げた濡れタオルは避けられなかったようで、顔にべったりと付いていた。
「貴様、ザイザルさまになんということを!」
プロフェッショナルではないらしい。予約もなく深夜に武器を持って来訪するなど返り討ちにされても文句はないが、名前を漏らすとは……。
(よほどのバカだな)
「引くぞ。その者は捨て置け」
「ですが……」
「朝までもつまい」
ザイザルの命が下った。
「……かしこまりました」
二人がおとなしくドアから廊下に出ていった。
錠前の音がした。同時に光学迷彩が消え、見捨てられた美女が現れた。
(やはり裏切っていましたか……)
「炎よ。いざ静寂を賜わん」
口の中で消えるほどの小声でぼくがそう唱えると、静かになった。
「ベイヴィル」
名前を呼んで抱き起こした。
「お前……この国……言葉……話せ……のか……どう……今にな……話す?」
「質問する前に考えろ」
出血がある。
「助けてやろうか?」
ぼくには確信的に感じていた。他の魔法も使えるはずだと。
「フッ……致命傷……だ。絶対に……無理。聖女さまでも」
聖女さまには特別な力があるようだ。
「ぼくは〈異邦人の魔術師〉だよ? ――聖女とは?」
「白き……魔の術の……使い主」
「白魔術使い(ホワイトマジシャン)か。術に白も黒もないだろうに。――遣り残したことはないのか?」
「パスライ……お嬢さま……」
「ベイヴィル、君の真名を教えろ」
「あの……お方に……心臓……」
たぶん心臓を捧げたのだろう。背くと心停止するか、破裂する。
「お前は捨てられた。教えろ」
蒼ざめたベイヴィルが目を瞑りそうになる。
「まだ眠るな」
ぼくは肋骨に刺さっていたナイフに手をやった。
まだ痛みがあるらしく、ベイヴィルが覚醒した。
「パスライお嬢さま……」
「パスライも助けてやる。言え」
「――」
大きく見開いたベイヴィルがその真名を口にした途端に、ヴァイオリンの弦のように心臓の血管が切れた。
「パス……ライ……お嬢……さま……」
ナイフを刺した部分だけでなく、目鼻口耳、他のあらゆる穴から血が噴き出した。
「この世界の理よ。いざこのベイヴィルの真名をもって命を織らん」
呪文は適当だ。ぼくは精霊を信じていないから、精霊の術は使えない。
この世界の理とは物理法則だ。確率として、ミルクティを牛乳と紅茶に戻すことができる。であるなら、その術を行使するだけだ。
「!」
ぼくの脳裏に、ベイヴィルの記憶が降順で再生された。
――再生。
再生の術。
死滅の術。
真名の告白。
パスライの笑顔。
刺された痛み。――
(ラプラスの悪魔か)
確率としては存在するがほぼ不可能な情報体系――すべての情報を保持するラプラスの悪魔――が存在することはできない。「先の情報を捨てる」行為が必要だからだ。
ベイヴィルの再生の場合は、その記憶を除去する行為に該当する。ベイヴィルの消えた記憶は、ぼくの脳に記憶される。記憶を外部媒体に移行して、その管理者権限がぼくにある状態になった。
記憶時間が倍速になり四倍速になり、八倍速になってついには観ているだけの状態になった。
肋骨に刺さっていたナイフが落ち、流れでた血が逆流して体内に消えていった。
ベイヴィルの顔色が戻ると同時に、ぼくは気絶した。