第零話「逢魔時と猫と」
音がする。
何処か遠くから、音が聞こえる。
いつからだろうか、
その音がやって来るのはいつも一瞬だった。
絶えず迫り来る、ひび割れた甲高いその音に、
遍く響き渡るその音に、
俺の鼓動が今、
ーーーーー共鳴した。
第零章「世は並べて事も無し」
第零話「逢魔時と猫と」
「やめろ!!」
大禍時の薄明かりの中、気づけば俺は咄嗟に叫んでいた。
それは何故か、今に至る経緯を思い出す。
ここは都内から少し外れた、ブランコ一つしかない休日の公園。
そうだ、たしか俺は白銀色の髪で碧眼の、幼馴染である彼女ーーーー白夜と晩御飯を食べに出かけた帰りに、公園で一休みしようと中に入ろうとした、その時の事だったんだ。
「凛ちゃん……」
急に、白夜が俺の手を握り止めたのだ。
突然のことに、俺は動揺し、混乱した。
けれど白夜の顔を見れば、その理由を聞くまでもなく、直ぐに脳から理解できた。
ーーーー白く青い前髪の隙間から覗く、物凄く何かに怯えた白夜の顔。
それは公園の中央、辺りを暗闇が支配する中に向けられていた。
宵闇に紛れる人影が三つ。
その影に怯える影もまた、三つ存在していた。
大小ばらつく3人の不良に囲まれて、血を流した三匹の猫が鳴いている。
痛々しい叫びはお構いなし、いや、寧ろそれが嬉しいようで、男達は俺達に気づくこともなく猫をいたぶり続けた。
あまりの光景に、俺は呆然と立ち尽くす。
誰かに押されればそのまま倒れてしまうかもしれないくらいに、不思議と足に力が入らない。
「っはは、全く楽しいなこれはっ!!」
振りかざしたその足で、柔い猫の腹を蹴り飛ばす男。
「たまにはこうやってストレス飛ばしいかねーと、まじでやってられないですもんね」
丸まった背中に、乾いた発砲音と共に容赦なく弾丸を浴びせる男。
「しかもこいつらならバレる心配はねぇし、やりたい放題だしなぁ。ク、ククッ」
首根っこを掴み上げ、垂れ下がった頭を眺めて嗤う男。
あたりは静寂に満たされているからか、その愉悦に満ちた下卑た声がなお鮮明に頭に響いた。
猫達が鳴いて叫んでも、その手を止める事はない。
何だこれ、何だこれ……
拳、脚、エアガンの銃口、その害心や苛立ち、愉悦の矛先は一心に、突猫達に向けられ突き刺さっている。
何でお前らは傷つける?
何でお前らは傷つけられている?
気づけば狂気に満ちた光景に、かぶりつくように目を見開いている自分がいる。
ーーーー何で?
分からない。分かりたいんじゃない。
苦い石を噛み砕いたかのように、ギリと奥歯が軋む音がした。
何でお前らは、そんなに愉しそうなんだ?
何でお前らは、そんなに苦しそうなんだ?
ーーーー何で?
結局、俺はこの時さして自覚もせず、認めたかっただけなのかもしれない。
理解しがたい光景に、きっと何かの感情を。
俺の知らぬ物凄まじい疑問が浮かんだ、その時だった。
意識の把握外。
握られた震える小さな手が、それでもより強く俺の手を握る。
見れば、先程まで怯えていたはずの白夜が、まるで誰かを守らんという覚悟めいた顔をしていて。
蒼く光る瞳が、鋭く細められていて。
そこで俺は、我に帰った。
「っ…………!」
剥離しかけた意識を引き戻し、唇を強く引き結ぶ。
大丈夫、まだ大丈夫だ。
脳をフル回転させ、自分に問う。
ーーーーこの状況で、何を選択するべきか。
考えられる最悪の展開はあいつらが俺達に気づくことだあの手の連中はきっと見逃してくれはしない加えて俺と同じくらいの身長や制服から3人は高校生だ三対一の状況じゃ万が一にも勝ち目はないし逃げ切れる自信も無いそして何より一番の不幸は今俺の隣に白夜が居ることだ俺だけならまだ殴られてでも何とかはなるだけど白夜が傷つくことは避けなければならばどうするどうすればどうしたら……
刹那に渡る思考の末。
結局、一度は覚悟を決めてみたものの。
やはり、俺が出せる結論は一つしかなかった。
このまま、引き返す。
逃げて、何も見なかったことにする。
薄情ともとれる、残酷な選択。
でも、ここで助けなけれは、きっと猫達は死んでしまう。
俯瞰するもう一人の自分が、背後から問う。
だけど、それは俺にはどうしようも出来ないことだから、俺は、何より白夜を危険な目に遭わせたくないから、だから……、ごめん。
こんな風にみっともなく言い訳を並べないと目の前で死にゆく命を見殺しにできない自分が、俺は酷く嫌いになりそうだった。
それでも、仕方がない。
今一度、白夜の手を強く握り返し、
「帰ろう」
小声で短くそう伝えた。
その判断に、白夜は何も言わなかった。
一体、俺はどんな表情でこの言葉を言ったのか。
情けなかっただろうか。
格好悪かっただろうか。
それとも……醜かっただろうか。
足音を立てる事なく、あいつから見えない所まで……。
俺は動き出そうと、片足を踏み出した。
大丈夫だ。気づいていない。
張り詰めた緊張感から少し、安堵の息が漏れた時、
その内の一匹。
青い眼をした猫の首が、ぐるりとこちらを向いたのだ。
俺達に気がついた、そう確信した。
冷や汗が頬を伝い、一瞬にして背筋が凍りく。
猫の視線と鳴き声で、不良共が俺達に気づく可能生が頭によぎった。
魔が悪いなんてもんじゃない。最悪だ。
人と猫、交差する視線。
おい、こっちを見るな
泣くな、呼ぶな、叫ぶな乞うな
俺の思考はいつの間にか、助けられないから逃げる、から逃げる為に助けない、そんな悍ましく自分勝手なものへと変貌していく。
ほんと自分勝手な、忙しい感情だ。
俺を恨んでるか?
それはそうだろうな。
現に今、俺はお前を見殺しにしようとしている。
無理だと割り切れば良いじゃないか。
諦めて嘆けばいいじゃないか。
血が出るくらいに片側の拳を強く握りしめ、それでも目を逸らさず、
だからそのまま……
俺に助けを求めんなよーーーー。
俺はそっと、白夜の手を離した。
結論から言うと、その傷だらけの猫は声を発することはなかった。
何も言わずに、嬲られ続けた。
それでも、俺はあの瞬間が脳裏に焼き付いて離れない。
その眼差しは、とても弱く、
その眼差しは、とても脆く、
そしてその眼差しは、助けを求めなかった。
まるで全てを悟ったかのように、自らの死を受け入れていた。
そんな姿で、そんな有様が、
あの時俺の中で何かを壊し、音を発したのだと思う。
ーーーーそうして、俺は叫んだのだった。