船旅
パディスの港に寄港したのは、大きな貨物旅客船だった。最も大きなドッグにつけた船は、近くで見れば「聳え立つ」という形容がよく似合う。これもかつての世界――「黙示の禍」が起こる前の、全地上にわたる繁栄を誇った世界――の遺物から作られているようで、船体の傍らには擦り切れたロゴマークのようなものが見える。
荷車は朝のうちに貨物番のところに預けてきてしまって、二人は少しの荷物だけを持って桟橋にやってきた。辺りを見回せば、多種多様な風貌の人々が列に並んでいるのがわかる。家族を連れている者、仮面で顔を隠している者、頻りに水を口にする者。あらゆる性質や行動が、その列からは見て取れた。同時に、はるか向こう側では貨物の積み込みが始まっている。大きな箱を平らな甲板に載せていく重労働も、この場所に残された鉄骨建造物の恩恵もあって、着々と進められているようだった。
「あれ、大昔のものなのかな」
貨物を持ち上げる重機と、それに纏わりつくように作業をする人々を見て、フィズはぽつりとつぶやいた。
「きっとそうだね、この場所は昔から、こういう仕事がたくさんあったのかもしれない」
「あの縄、引っ張るの大変そう……」
木の板に載せられ、縄で固定した荷物が、あの重機の滑車を回して持ち上がる。足元ではどれだけの人が働き、普段はどれだけの人があの巨大建造物の整備をしているだろう。はるか昔、これを建造したころの世界では、今に比べてどれほど少ない人員でこれを動かしていたのだろうか。空想は尽きない。
橋が掛けられ、旅客を導き始める船員の呼び声に応じて、列がざわざわと動き出す。ラブイルがフィズの手を取ると、彼もにっこりと笑って、手を握り返した。
船室の割り当ては他の客船と同様、船員から手渡される木片で行われている。列に入って廊下を行き、無事に船室に入ると、相乗りの旅客がすでに入っていた。そこそこ裕福な身分と見られる老人だ。彼は扉を押し開ける二人を見て、帽子を取りながら穏やかに笑った。
「どうぞよろしく、お邪魔しているよ」
「こちらこそ、お邪魔します」
部屋の反対側で、ベッドに腰掛ける。ふたつの窓から、塩っぽい匂いの風が吹き込んだ。天井から吊られたランタンが、ゆらゆらと灯りを振りまく。老人は、「サム」と名乗った。
船が出る。大きな汽笛の音が響き、机上に飲みかけのコーヒーが揺れる。左右に振れて立ち上る湯気を吸いこむように、サムはその香りを堪能している。
「お二人は、どこの大陸までかな?」
「第二大陸へ行くところです。この子のふるさとの村に」
「ほう、旅の子かい。まだずいぶんと小さく見えるが、立派なものだね」
目じりに皺を寄せて笑うその姿に、フィズはなんとなく懐かしさを感じていた。おそらく、それは故郷ツミュルで、幼い彼を大切に育ててくれていた皆の記憶に重なったからだろう。
老人は白いカップを置く。
「いまこの十余年、若い衆はみなどこかへ行ってしまって、長らく帰らないものだがね。君のふるさとはきっと幸福だよ」
「絶対、帰らないといけないんです。みんなを助けたくて」
少しだけ照れたように打ち明けるフィズの言葉に、サムは少し背筋を伸ばした。
「“助ける”?」
「僕のふるさと……ツミュルは、とっても暑いところなんです。だから、冷たい空気をたくさん持って帰って、すこしでもみんながつらくないように、って」
フィズは革袋と、自分の手のことを話した。老人は時折頷きながらも、とても真剣な顔で少年の使命を聞いていた。手荷物にしていた暖気の革袋に触れたとき、老人は目を見開いて袋を抱きしめた。
「これは――そうか、君の手が」
フィズは部屋の空気を掬う。小さな手の上で淡く光を放つ空気の球体を、驚嘆の顔で見つめる老人。彼は柔らかな温かい手で、少年の手を包んだ。
「――昔、もうずっと昔のことだが、君と同じことをする人間を見たよ」
「僕と同じ手を……?」
サムは深く頷くと、飲みかけにしていたコーヒーを飲み干した。暫し窓の外を見つめてから、何かを思い出すように目を閉じた。
デオサミュリエ・ポロ、愛称はサム。当時はまだ若く、世界の広さをこれっぽっちも理解していなかった。第五大陸の片田舎に育ち、いつか第六大陸の謎すら解き明かすような大人物になると決心した青年サムは、仲間を連れて町を出た。荷車に思い思いのガラクタを載せて、「果てを目指す移動基地」などと嘯いた。エンジン技師、地理学者、狩人、そして旅好きの鍛冶職人。みんな、まだその肩書を持たない見習いだったが、それでも果てのない旅は順調に進んだ。
彼らが目指していた「謎」とは、数百年前に全世界を覆ったという「夜」の正体だ。船着き場から陸路を辿って、魚の缶詰と一緒に町へ流れ着いた噂話。どれだけ尾ひれがついたかわからないが、その「夜」はひと月もの間、世界中を真っ暗に覆いつくしてしまったのだと聞く。もちろん、そんなことが起こるとは思ってもいなかった。それでも、サムとその親愛なる仲間たちは、「きっとその大本になった『夜』があったはずだ」と結論付けた。あわよくば、本当に世界を覆った「夜」について手がかりが得られるなら、それほどありがたいことはない。いずれにせよ、4人には旅立つこと以外の選択肢はなかった。
「あちこち駆け回ったよ。第六大陸の大いなる柱の跡――ザヘリスへ向かうためにね」
「ザヘリスを、見に行けたの?」
「……いいや、結局見られなかったなぁ」
老人は首を横に振った。
「恥ずかしいことだが、大陸に上げてももらえなかった」
「どうして……?」
第六大陸への直通便は、とうとう見つからなかった。どこのシディリの給仕に訊いても、どこの港の案内人に訊いても、そんな船はない、と言われてしまう。ひとりで遠洋に出る旅をしていると言っていた老練の帆船乗りには、「やめておけ」と諭されてしまった。
「あの場所は魔境だ。やすやす若者がたどり着ける場所じゃあないんだよ」
彼は第六大陸に近づく術を語った。吹き荒れる熱風に耐え、前後左右に揺れ動く生き物のような波濤を越えて、そうして運が良ければ漂着できる。漂着した先には何もない。そこにあるのは焼き払われた大地だけ。そこはあまりに熱因子の濃度が高く、並みの人間は数時間もしないうちに臓器をやられて帰れなくなってしまうだろう。
老人もまた、かつてあの大陸へ向かおうとした少年だった。
旅の果てに何も得ることはなく、ただ友人を失うのみであったと告げた。
そうして、すっかり意気消沈した青年たちは港を去り、その夜を手近な町のシディリで過ごすことに決めた。とても寒い町だった。彼らは何も語り合う気になれず、ただ毛布を肩にかけて席に座っていた。店主も、そんな彼らの境遇を察してのことか、何も話しかけては来なかった。
店内から段々と人がいなくなり、あと一時間もすれば店が施錠されてしまう時間になったころ、彼らは眠気に襲われ始めていた。毛布はある。暖炉も、他の滞在客が見てくれている様子だ。何も恐れることはない。その分、この旅のことを考えざるを得なかった。
「相席してもよいかしら?」
若い女性の声で、うとうととした感覚を脱した4人は、すぐさま姿勢を正す。豪華ではないが、家柄の良さを思わせる綺麗な服装の女性が、湯気の揺れるカップを持って立っていた。彼らは少しだけ慌てた様子でひと席を空け、どうぞどうぞ、と彼女を導いた。どうしてこの席だったのかはわからない。周囲を改めて見回せば、店内は空席だらけだ。
「きっと、長旅をしていらしたのね」
開口一番、彼女は4人の顔を見回しながら言った。ええ、疲れ切ってしまいましたよ。たしか、そんな他愛もない言葉だけを返した。彼女は旅人の話を聞くのが好きだと言った。
ファンガルトルの涼しい風、
ヘクティウネの波音、
メルプの夕焼け。
ノエドの地下で味わった名も知らぬ果実、
スウォヴを覆う甘い花の匂い、
そしてたどり着いた末、パディスの失意。
彼女は微笑みながら、彼らが口々にこぼす思い出話を聞いていた。思い返して語ってみれば、えも言われぬ達成感があった。打ち立てた目標は何一つ、満たすことはできていないというのに。そう思った途端、ぽろぽろと涙が出始めた。彼らが旅立った末に見えたものは、ただ「それが不可能である」ということだけだった。
「でも、こんなに遠くまで来られたんだ」
自然と出てきた結論だった。ほかの3人も、その言葉に同意した。きっと村の誰よりも遠くに来たのだ。故郷の人々は、意味のあることにしか時間を費やさない。本来必要のない旅のために、これほど遠くまでやってきたこと自体が、彼らにとっては大きな達成だったことに、やっと気づくことができた。
店主がカウンターを閉めた頃、彼女はそっと席を立った。どうやらここに泊まる気はないらしい。ありがとう、と短く礼を述べ、何かを思いついたように暖炉の方へ向かって行った。暖炉を見ている滞在客の近くで少しだけ言葉を交わしたあと、彼女は小さな袋を4つ取り出して、暖炉の前で手を動かした。4人には何も見えなかったが、それはまるで何かをすくい上げて、袋の中にしまっているかのようだった。しばらくして、彼女は袋を持って戻ってきた。それぞれにひとつずつ、おそらく空の袋を手渡して、にこりと笑った。
「ここ、暖炉から遠いでしょう?それなら少しの灯りにもなるし、暖かいから」
渡された袋は、ほんのりと光を放っている。中身は何もない。ただ、暖炉がすぐそばにあるかのように暖かかった。
「きっとたどり着けるよ。でも、それは今じゃないだけだから」
彼女は、シディリを去った。
「それから、あの人が誰だったのかも、どこへ行ったのかもわからなくなってしまった」
しみじみと思い返すサムの様子をじっと見ていたフィズは、彼の手元に渡った暖かい革袋に視線を移した。彼の手が震えているのが老いによるものなのか、その温かさをしかと噛みしめるように握っているからなのか、彼にはわからなかった。
「不思議な気分だよ。誓って忘れたこともない記憶だけれども、こんなにはっきりと思い出せたのは久しぶりのことだった」
老人は目を閉じ、少し上を向いて呟いた。
「もうすぐ、かも知れないね」
昼の眩しい太陽が、彼の目元に注いでいた。
船が第二大陸へ着くころ、二人だけが客室を去った。サムは初めて会った時と同じように、帽子をとって送り出した。彼の机には三つの便箋。向こうに着くまでに書き上げて、港に着いたらすぐに投函する。きっともうすぐ、「その時」が来るのだろうから。
廊下をまばらに行く旅客たちの背中を見送るサムの視野に、若い女性がひとり入ってきた。背を向けて歩いていく彼女の腰には、小さな革袋がさがっていた。