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パディス港

 平地に降りてきたころ、少年の手首が痛み始めた。緊張が解けると同時に、先ほど咄嗟の判断で実行した無茶の代償が現れていた。誰から教えられたものなのか、構え方の基本ができていたおかげで、無茶な撃ち方でも重傷を負うことはなかった。一応、右手に負担のかかることはさせないように、と、ラブイルは涙目の少年を優しく諭した。同時に、彼の勇気を褒めた。しばらくの沈黙ののち、フィズが小さな口で雑穀パンにかじりつく様子を見て、ラブイルは少しだけ安堵した。


 平野の農村を遠く望みながら、熱帯の吸気を布で中和する。今日の南風は特に強く、目元に沁みるほど熱い。機関車自体に影響はない様子だが、長くまともに吸い込んでいれば人体には有害となる。

 パディスは熱帯の外れに位置する港町で、古くは漁業と交易で栄えたらしい。いまでも、各地を巡っているうちに見かける魚の塩漬けや干物のラベルには、「パディスより恵みを」と印字されているものをよく見かける。港町ともなると、少々高級ではあるが、未加工の魚も手に入れることができると聞く。

「魚って、あの塩辛い魚?」

「そうだね。でも、魚そのものは塩辛くないらしいよ」

「……海の水が塩辛いから、魚も塩辛くなるんだよって聞いたよ……?」

「それは……誰から?」

「いくつか前にいた町の、シディリのおじさん……」

 シディリといえば、情報の仕入れ場所としては実に効率的な手段だ。ただ、このように時折迷信めいた言説や、噂話などが流布されていることもある。酒飲みも多く、大抵のことは半分程度の信用で聞き流すべきところだ。フィズの幼さを考えれば、その取捨選択がうまくいかないことは理解できる。

「じゃあ、向こうに着いたらひとつ食べてみようか」

「いいの?」

 目を輝かせて、身を乗り出す少年。こんなにも純粋な喜びが見られるならば、魚料理のひとつくらいは安いものだ。




 夕陽が沈み始める少し前、空が徐々に暗く澄んでくる時間になって、パディスの港が見えてきた。熱帯の辺境地域に位置するこの港は、世界的に見ても非常に恵まれた位置にあると考えられている。熱帯の強い暑さで熱因子疾病に身体を蝕まれるほどではないが、かといって両環境の狭間地域に典型的な、野生生物による襲撃を受ける可能性も比較的低い。近年では2~3年に一度ほどの頻度で起こる野生生物の襲来に備え、立派な城壁が築かれたばかりだ。白く塗られたレンガの壁を越えて、まだ少し活気のある街へと入っていった。

 メインストリートの人々は、すでに空が暗くなったにも関わらず、パンや野菜の入った籠を持って立ち話に興じている。彼らの頭上には、蝋燭の入ったランタン。優しく揺れる灯りは、行く先の道沿いにぽつぽつと立っているようだ。星々を取り込んだかのような街並みを、二人を乗せた車は町の中心へ向かっていく。

 お客が出て行ったのを追うように、店の主人と思しき男性が店先に出るのを見た。その手には銀色の器と、その上で燃える小さな火。店の前に立つ、まだ火のない蝋燭灯の支柱にかかった梯子を、慣れた様子で昇っていく。建物の陰に隠れてしまったが、きっと彼がこの灯火を点けているのだろう。


 運航表によれば、第二大陸へ渡航する次の船は、大体2日後にここに寄港する。幸い、今晩の宿に困ることはなく、ふと立ち寄った1軒目で部屋を取ることができた。敷地はそれほど広くはないが、塗装の褪せた木の太い柱が時の流れを思わせる、情緒ある雰囲気の宿だった。門の前には蝋燭灯。フィズはその隣にかかった梯子を見ながら、この宿の人も、蝋燭灯に火を灯すのだろうか、と考えた。受付に一人で座っていた主人は話好きで、子供を連れているということもあり、非常に親切に接してくれた。彼はこの宿の6代目で、実質的にこの宿を一人で切り盛りしているという。

「いやぁ、この時間になるとね、もうようやく宿にありついた~!ってお客様がね、安心した顔でいらっしゃるんですよ。あ、お風呂共用なんでここにね。部屋は暖かくして寝るだけのお粗末さんだけど、どうぞゆっくりしてってください」

「ありがとうございます、エミネまでいただいて……」

「いいんですよぉ、これ美味しいからね!フィズくんそれ飲んだことあるかい?」

 フィズは透き通った清涼水の入った瓶を持って、主人に大きく頷いて見せた。

「だいぶ前に飲みました、とっても美味しくて好きです!」

「そうかいそうかい!」

 彼は皺の多い顔をくしゃくしゃにして笑う。きっと相当にお年を召しているだろうに、所作には年齢をまったく感じさせない。そんな彼とフィズの姿を見て、ラブイルは子供のころによくお世話になっていた、近所のお婆さんのことを思い出した。彼がまだ将来を見ておらず、その日その日を満たされるままに生きていた時代に、大きな一石を投じた人。ラブイルの日常から、初めて「死」という形で退場を果たした人物。彼自身の進路を、人を救う道に定めた大きな要因であると言ってもよい。

「そんじゃ、お支払いの時は鍵持ってまた声かけてください!おやすみ~」

「おやすみなさーい」

 道中ではパディスに着いたら魚を食べよう、と話していたが、今日はフィズも疲れてしまっていたため、ひとまず一夜を明かしてから店を探すこととした。


 ――翌日。

 目が覚めた頃には、すでに陽が昇っていた。窓の外からは市中の音が聞こえ始めている。貨物を積んだ大きな船が、港にちょうど到着している様子だった。夜のうちにはよく見えなかったが、この部屋からは海がよく見える。晴天と合わせて青一面の穏やかな目覚めに、フィズもラブイルもしばらく窓際で座っていることにした。

 遠い波。鐘楼。人々。小鳥。海風。

 金属を打つ職人。お客を呼ぶ市場。

 部屋の戸にかかった居残り板を裏返し、受付口に出ていく二人。宿の主人は昨日と同じ調子で片手を挙げて、「おはよう」と笑った。

「今日はお出かけで?」

「はい、市場の方に行ってみようかと」

「お魚食べに行くんです」

「お魚かい?いいねぇ、パディスのお魚はいいですよ、すぐそこが漁場ですからね!」

 主人は思い出したように受付台の後ろを探る。引き出しから取り出したのは、一枚のチラシだった。少し気難しそうな男性と、朗らかな女性に、その背景にかかった店の看板の写真彼らの近くには、やはり蝋燭灯がある。

「ちょっと古いチラシなんですけどね。まだまだ現役でやってますから、ここおススメですよ。市場のあたりじゃちょっと知名度は落ちますが、腕のいい『蝋燭付き』の名店ですから」

「ろうそくつき?」

「この辺じゃね、歴史があって良いお店のことをそう言うんだよ。ほら、うちの前にもあるだろう?蝋燭灯」

 彼は戸の外を指した。黒く塗られた金属の蝋燭灯は、一夜の番を終えて眠りについているようだった。



 街を歩いていると、やはりここが大都会であることに気づかされる。大通りの真ん中を車が行き交い、皆色とりどりの服を着ている。自分自身を日常の中で表現するほどの経済的な余裕が確保された市民の抱える籠には、雑穀ではない麦のパンが入っている。話を聞く限りでは、フィズは旅をする身であるためか、こんな風景には慣れている様子だった。

「ツミュルはこんな風に大きな街じゃないけれど、星がとっても綺麗なんだ。暑さが少しでもやさしくなったら、いろんな人に見てもらいたいなって」

 屈託のない笑顔でそう告げるフィズの故郷のことは、常々考えてしまう。彼が一人で旅をしているのはなぜか、これまでどのように一人で旅を続けてきたのか、家族――あるいは育ての家はどうしているのか。大人の目線から見える懸念のことを、彼自身は理解して考えたことはあるのだろうか。フィズの笑顔や言葉には、とにかく裏がない。何かを奥深くに隠しているのかもしれないが、自然体で人と接するその表情は、紛れもなく本物だ。


 盛況の市場を通り抜け、外れにある住宅地の入り口へ向かう。フィズの目は市場の男性が持ち上げていた、大人の背丈ほどもある大きな魚に釘付けになっていた。あれが塩辛いのか、とにかく気になっている。そもそも彼にとって、未加工の魚というものはほとんど馴染みのないものだった。

「大きい魚だね……」

「そうだね。食べられる部分もたくさんありそうだね」

「あれが切り分けられて、僕たちに届くんだね」

 興味津々。二股に分かれた尾ひれの先は鋭く、銀色のうろこは明かりを受けて輝いている。フィズの目からは、それが金属のようにも見えていた。通り道の匂いは実に「市場らしい」ものであり、ラブイルには少々きついものがあった。フィズの興味をできるだけ尊重しつつ、できるだけ早足でその場を去る。


 住宅地の入り口に、チラシの店はひっそりと建っていた。大通りから一本裏に逸れた、車は通れない程度の道だが、店の前には立派な蝋燭灯が立っている。写真にあるものと同じだ。店の前にはオールとカヌーが立てかけられていて、よく見れば出窓の下にある花壇も、木でできたカヌーの形だった。

 鈴の音がする扉を押し開けると、朗らかな年配の女性が出迎えた。

「いらっしゃい、お二人様かね?」

 彼女に連れられて入った部屋は、まだ昼時前ということもあり、がらんとしていた。窓際に座っていた、厳しい顔の老翁がこちらに振り向く。事情を察したようにゆっくりと立ち上がると、腰に巻いていた褐色のエプロンが目についた。

「ラテヤさんのご紹介だってさ。またずいぶん古いのを律儀にとっといてくださったんだねぇ」

「ようこそ。ごゆっくり」

 彼は表情を変えないまま、厨房の方へと歩いて行った。

「うちのが愛想なくてごめんね、こわい人じゃないんだよ……ただ人馴れしないもんでね」

 彼女は微笑みながら、小声で弁明した。


 メニューは単純だ。今朝市場に届いた魚を、焼くか、煮るか、はたまた軽く炙ってタレにつけるか。主なものはただそれだけ。今日の魚は「フェネポラ」。時折缶詰の蓋で名前を見ている魚だ。パディスより少し冷帯寄りの海域で育つ魚で、普段は大きな個体数匹を中心とした群れで生息している。淡い甘さのある腹部の脂身が特徴……と、メニューには書かれている。さきほど通った市場で見かけた大きな魚は、群れを率いていた大物のひとつだろう、と彼女は言った。

 市場で見かけたような大きさのものは、とても個人店に購入できるような値段にはならず、大抵有力者のもとへそのまま渡ってしまうという。数年に一度の豊漁の折には、かろうじて1、2尾程度入ってくるものらしい。

 少し考えたあとで、今回は「炙り」を注文することにした。


 厨房の奥へ入っていった男性は、料理をしているところを見られるのが嫌なのか、入り口のカーテンを閉め切っている。時計はまだお昼時には少し早い。調理の細かな音が聞こえてくる中で、女性は紅茶を持ってきてくれた。カップは3つ。彼女は椅子をひとつ引き寄せて、愛らしい白磁のカップに湯気を立たせた。

「ラテヤさんは元気だった?」

「はい、とても親切にしてくださって」

「ついでに、ってエミネをくれました」

「相変わらずだねぇ、生粋のパディス人だ」

 紅茶をひと啜り。ラブイルも続くように喉へ注ぎいれる。どこか清涼感のある、目が覚めるような感覚。薬草とまではいかないが、ミントの類だ。

「パディスはいつも頂いてばかりの街だからね。みんな誰かに恩返しをしたがる。ちょっとしたことでもプレゼントが飛び交ってるんだよ」

 窓の外を小鳥が横切る。調理の音がカチャカチャと聞こえてくる。

「だから、こいつはうちのプレゼント。今日ここにたどりついて、美味しいお魚の味を知ってくれることになったんだしね」

 カップを手で包む。程よい温かさが体に染みる。


 少し経った頃、料理が運ばれてきた。薄いピンク色の身に、銀色に近い皮。初めて長期保存処理されていない魚の料理に出会ったフィズは、そのきらきらとした、不思議な空気感を感じ取って、目を輝かせている。缶詰に入ったものよりも少ないパーツなのに、どこか実在感のある皿の上を見つめる彼を、二人の大人たちは微笑ましく見ていた。

 魚の脂身あたりを少し切り取って、口に入れてみる。塩辛くない。タレはまだつけていないので、これは本来のフェネポラの味だ。形容しがたい風味とともに、ごくわずかに甘さを感じた。

「……あまい」

 その味がどんな風に甘いのか、フィズにはわからなかった。ただ甘いだけではない。何もわからないまま、ただ美味しい。タレをつけて口に入れる。塩っぽい味と混じり合った甘味は、淡くも打ち消されることなく、口いっぱいに広がる。

「おいしい……!」

「そうだろう~?」

 紅茶を飲みきった彼女は、誇らしげな顔をした。厨房の入り口からこちらを見ていた料理人も、小さく息をついて笑う。彼はやっと仕事を終えたかのように、そのままカーテンの奥へと戻っていった。


 夫婦の温情が含まれていたのかはわからないが、会計は思ったほどの痛手にはならなかった。フィズのきらきらした笑顔を見て、ラブイルはここに立ち寄った甲斐があったと安堵した。夫婦は2人の背中を見送り、店内に戻る。

「素直でかわいい子だったねぇ。お兄さんも優しそうだったし」

「そうだな」

「あんた、久しぶりにあんな風に笑ったんじゃないかい?」

「……知るかよ」

「なぁに照れちゃって」

 笑いながら夫の背中を小突く。彼は表情を見せまいと、ますます彼女から顔をそむける。

「……この辺も子供が少ないからね。たまにああやって来てくれると嬉しいもんだよね」

 そうこうしているうちに、次のお客がやってきた。元気な声で出迎えるのは、30年来のお得意様だ。


 古来より海上交易の要衝であったパディスでは、魚の塩漬けなどに並んで保存食として船乗りたちに好まれる、ソミの果実が盛んに取引されていた。ソミを真水に半日ほど漬け、その後焚火の近くで表面に皺が出るまで乾かしたのち、熱しながら圧搾する。そうすることで果肉のうち、特に水っぽく傷みの原因となる部分が取り除かれ、十数日は可食状態を維持できる保存食となる。同時に、ソミを漬けていた水は溶けだした養分を含み、清涼飲料(呼び方は様々だが、一般的には「エミネ」と呼ぶ)や畑の作物に与える肥料として消費される。パディスで取引されずに残るものは圧搾時に取り出した果肉液となるが、この液体に街付近で自生している多年草ヘディナの植物油を混ぜて冷やすことで、良質な蝋として利用することができる。このような方法で作られたパディス蝋は、蝋燭として燃焼させた際にとてもゆっくりと穏やかに燃え、安定して灯りを得られるため、各地の信仰施設や病院、あるいは長距離を移動する寒冷地のキャラバン隊が用いるランタンなどで広く使用されている。

 パディス蝋燭は街の主要な生産物であり、市中の道には蝋燭灯が設置され、各所の工場や商店などの主が日没とともにこれを灯す役割を分担している。このような家は代々パディスに住み、仕事を続けてきた由緒正しい家であることが多いため、信頼できる優良なブランドの商家、職人を指して「蝋燭付き」と称する文化がある。


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