港へ向かう道
フィズは町を囲う壁の外に立てた木材の前で、黙って目を閉じていた。失った相棒を悼み、町の人に許可を得て埋葬させてもらったのだ。少年の命を守り、自らは毒牙にかかって命を落とした偉大な忠義者に、ラブイルも冥土の幸福を祈った。フィズによれば、ラジは木の実を好んで食べたというので、どの木の実かを確かめながら市場で二つ購入した。墓前には一つ、フィズにも一つ。そうして分け合っていた時の記憶が、彼の目元にこみ上げていた。
第四大陸中部に位置するナセル平原から、フィズの故郷がある第二大陸まで行くにはどうすればよいか。もちろん大陸間は船で移動するほかないが、最も近い港まではある程度の移動時間を要する。滞在していた町はそれほど燃料が潤沢にある場所ではないので、あまり遠回りをしてはいられない。人間が住める場所は少なく、少なくとも盗賊団に遭うような危険は回避することができるが、野生生物は話が別だ。気性生物であっても、先日彼を襲ったような獰猛な種が襲い掛かってくるかもしれない。
結局、最も近い港町であるパディスを目的地に選んだ。熱因子機関の熱気を微か、頬に感じながら、ラブイルは使い古された荷車の鎖を手際よく繋げた。また、フィズの荷車は岩地の走行に適していなかったので、車輪だけは交換することとなった。
「雪道と平らな道だけで行けるところ、って考えてたんだ」
動き出した機関車に揺られて、フィズはぽつりとつぶやいた。徐々に速度を増す窓外の景色を見つめて、少年の目は陽の光を弱く反射している。
「平らな土なら、ラジの力で進めるからって。長老さんが言ってた」
「雪道の時は板に替えていたんだね」
荷車の側面に取り付けられた板が、雪上を走るために必要な装備であったと気づいたのは、実際に車輪を交換する作業に移ってからのことだった。こんな板きれをスキーの代わりにして、いままで雪原を滑って進めていたこと自体が驚くべきことだった。ラブイルは機関による牽引しか経験したことがないが、ラジに引かれた荷車は、もしかすると想像以上に安定しているのかもしれない。無論、ラジを失ってしまった以上、しっかりとしたスキー板を購入しておいたが、元の古い板を手放すことはできなかった。はっきり拒否したわけではないが、フィズの表情から見て取れた愛着の情に寄り添う形で、いまも板が車体側面で風を切っている。
「この大陸に来てから平原に来るまで、かなり時間がかかったと思うけど……」
「うん、どれくらい前に港についたかも覚えてない」
速度が平均的なラジのそれを超えた。元気よく回る車輪の立てる音と、小刻みに体を揺らす車体の振動に、彼は少し不安げな顔をしている。
「はやいね」
「うん、まだ速くできるけど、怖くないかい?」
「……ちょっとこわいけど、これぐらいならだいじょうぶ」
「なら、このままで進もうか」
道端にぽつりと生えた木が、視界の端から視界の端へと一瞬で行ってしまった。フィズはすっかり後ろへ消えてしまった木の方へ、小さく手を伸ばした。もう既に、手のひらと同じくらいの大きさに見えている。
「すごいね、木の実取れないね」
彼は少しだけ怖がっているようだが、むしろ興味深くいまの体験を味わっているように見える。前方に切り立つ山を望み、誰もいない冷えた道を駆けて行った。
このまま先へ進み、途中で道を逸れたりしなければ、前方に見える山の近くまで辿り着ける。その先は岩地になっていて、ただ進むだけでは岩壁に当たってしまう。少し南にルートを曲げれば峠があり、ここには小さいながらも村があるはずだ。人が住んでいるとはいえ、燃料や物資の補給はない。記憶が正しければ、ここは少なくとも安全に暮らせるだけの土地であり、わずかな農地を生産手段とする少数の人々が、辛うじて助け合って維持しているだけなのだ。
寒さに適応した植物が、まばらに辺りの地面から顔を出している。この辺りは冷帯と熱帯の間に位置していることもあり、比較的暮らしやすい気候になっている。長らく冷帯にいたふたりにとっては暖かく、風に体温を奪われることもない安住の土地だが、それは人間にのみ与えられる恩恵ではない。災禍を切り抜け、この時代まで種を存続させた気性生物たちは、この空気を絶えず奪い合っている。中には賢明にも熱帯や冷帯へ離脱し、この場所で力をぶつけ合うことを放棄した種もいる。結果的に、この場所は人間が定住するにはむしろ危険な場所となってしまった。
荷車には、もしもの時に備えて銃弾を積載してある。もともとラブイルの荷物の中には、自衛用のライフル銃が入っていて、フィズの中口径拳銃とも銃弾を共有できた。威力には多少劣るが、至近距離での緊急自衛や牽制程度には役立つだろう。彼は銃に詳しいわけではないが、子供の手には不相応な拳銃の大きさは、彼の心理に何らかの懸念を投げ落とした。すべては、フィズの村に到着すればわかることだ。
「何かいるよ」
山に入り、岩場が辺りを覆う頃。フィズが指を向けた方角には、大きく地面にめり込んだ岩があった。進行方向をちらりと確認し、ラブイルもそこに目を凝らす。いまは何も見えないが、おそらく何かが見えたのだろう、と推測をつける。
「どんなものが見えた?」
「つの。一本だけ」
少年は不安な顔をしている。
「前にも見たこと、ある?」
「うん」
「怖かった動物だね?」
「……うん」
「わかった。できるだけ急いで抜けよう。少しだけスピードを上げるから、しっかり掴まってね」
「わかった」
上り坂を行く。断崖絶壁から少し離れて、機関車を走らせる。
フィズが縮こまっているのを確認して、ラブイルは耳を澄ませている。揺れ動く機関車の雑音の中に、小さく聞こえるかもしれない声を探した。ここは熱帯と冷帯の狭間、やや熱帯よりの地域に差し掛かろうとしている。おおよその熱性生物は、こんな「辺境」までは現れない。
ただ、可能性が排除しきれない。第四大陸の高地付近には、熱性生物としては非常に不安定な進化を遂げた、「交雑種」が生息する。名は「タスバグル」。部分的な熱因子への適合に生存の道を見つけ出し、熱を身体の強化にのみ利用することを選んだ。第二大陸では既に希少種となっていたが、ここではまだ健在であったらしい。
彼らは常に群れで行動し、孤立することを死と同一視している。それは敵も味方も同じ。群れから離れて一晩経てば、自ら命を絶ってしまうことすらありうる。孤立した餌を見つければ、恐るべき連携力で囲い込み、文字通りに「解体」してしまう。
遠吠えが聞こえるはずだ。その断末魔のような声が聞こえた瞬間には、こちらも銃を構えなくてはいけなくなる。タスバグルの叫びは、獲物を見つけたことを報せるために上がるのではない。それは一斉攻撃の合図であり、陣形を構成する最後の一匹が、所定の配置についたことを報せているのだ。
石の欠片が跳ねた。まだ声はない。目線を行く先の方へと開く。上り坂が終わる。やや平坦な地形に出て、集落を遠く視認した。ライフルと銃弾の箱を取り、いまは弾丸が5発入っていることを確認した。ここから先は、一瞬目を離しただけでも危険が伴う。
「フィズ、念のため、銃は手元に近づけておいて。できるだけ追い払うだけにするけれど、もしもここまで入ってきたら、ためらわずに撃つんだ。音で脅かすだけでもいい」
「……うん」
「ごめんね、できるだけ早くここを抜けよう」
静かになった。鳥の声がする。
まだ遠吠えはない。
石が跳ねる。 遠吠えはない。
呼吸が浅くなる。 遠吠えは聞こえない。
呼吸が意識から外れた。 遠吠えの声は――
声は、一瞬にして意識の間隙を埋めた。
金属を突風が擦る音と共に、フィズは強く耳を塞ぐ。ラブイルの神経は鋭敏に中空を走査し、右側後方から近づく影を捉えた。それは赤く膨張するように熱を放つ、金属の一角。頭部の硬化した皮膚から、いかにも肉食獣らしい小さな眼がこちらを見つめている。
引き金を引く。弾丸は襲撃者の足元に着弾し、一瞬うろたえる様子が見えた。それだけでは終わらない。次の突撃は彼の斜め前方。狙いなどつける必要はない。相手を殺すつもりはないのだ。
レバーを引く。次の弾丸が火を纏って飛ぶ。今度は少し遠いところで、岩を僅かばかり削った。それでは怯まず、もう一撃を要してしまった。既に周りにはいくつもの赤い輝きが見えている。陽炎に揺らめく貌が、次々と平坦な道へと突っ込んでくる。
一発。敵が怯む。もう一撃。敵は増えている。もう一撃を撃つことが躊躇われる。
次で弾倉は空だ。敵はそれを知っているかのように、さらに苛烈に、怒涛に、ここを目指す。この荷車に載せられた、二つの心臓を狙っている。神出鬼没の奇襲の連鎖は、ラブイルが弾丸を込めなおすことを完全に抑止してしまっていた。
全神経での警戒をもって、前後左右で起こる一切の挙動に恐ろしさを感じなくてはならないのは、おそらくあと十数秒の間。敵がどこまで人間を理解しているかは推定するしかないが、前方からやってくる急襲者はことごとく機関車の速度に追いつけない。その鋭利な角が、この荷車を焼き切る姿が想像される。岩場に響き渡る捕食者の吐息と、機関車の立てる轟轟たる駆動音と、そして前方から絶え間なく顔に叩きつける強風の、鼓膜を雑音で包むような環境が、庇護者の集中をむしろ強めていたのかもしれない。
「死線」を越えたと見た。彼らは背後から追走するばかりで、この先は下り坂だ。運転席から背後を見れば、そこに彼らを追う最後の脅威が見えた。ひときわ俊敏で、角の大きな個体――おそらくは狩りの長を務めている――が、岩場を踏み砕かんとするほどの強靭な脚力で体を浮かせ、目にも止まらぬ速さで大地を蹴り飛ばす。こちらもまた暴風たらんと言わんばかりに、身体を中空で薄く、細く、長く、胴体から角の先端に至るまでに見事な一本槍と化して、子分どもが取り逃がした格好の餌を、決して山から下ろすまいと駆け込んでくる。
速度を保ったまま重力に引かれていけば、斜面を下りきる前に車体が持たないだろう。これ以上加速はできない。ラブイルは込められた最後の銃弾を使うことに決めた。今度は外さないよう、多少の罪悪感を理性で納得させ、明確に敵の脳天を狙う。揺れ動く車の中から、たった二呼吸の間に発せられた攻撃は、狙った場所を小さく逸れた。
獣は一瞬よろめいた。血痕がわずかに取り残される。それでも、槍は足を止めない。荷車の目前まで、たったの数秒で食らいつく。
銃声が聞こえた。
1度、2度、ひと呼吸おいて、3度。狙いは中空だ。
さすがの勇猛果敢も、足を止めた。丁寧に傷を舐めながら、こちらにはもう関心がないという風で、群れの方へと帰っていった。
「……当たっちゃって、ないかな」
フィズは、腕に小さく走った痛みにも気づかずに、震えた声でつぶやいた。
タスバグル [Tasb'agr]
生息域:主に第二大陸、第四大陸。高所を好む。
体躯:中型(1m~3m前後、雌の方が体は大きい)
解説:
体内で熱因子を利用しつつも、気性生物と同様に酸素呼吸も並行して行っている「交雑種」のひとつ。集団意識が極めて強く、個体で生存することを前提としていない。比較的最近までは気性生物として生息していた痕跡があり、その頃から骨格の延長としての一角を有していたとされるが、現在の身体に備わる角は金属質であり、岩石中に含まれる微量の鉄を体内で加工し、ここに集中させているものと考えられている。気性生物であったころから熱帯と冷帯の境界付近にある山で暮らしていたが、当時はむしろ少数の群れ――特に血縁関係にある個体同士のコミュニティ――か、あるいは完全に孤独な状態で生活していたものと考えられている。
第二大陸における急激な個体数の減少と、第四大陸におけるより先鋭化した集団主義への転換など、目的進化論を掲げる科学者たちの間では「交雑種」への進化に関して複数の見解が分かれており、現在は人間にとって未知の種が天敵となった、とする説が有力である。
獰猛な肉食獣であり、山地を通る街道に出現して「狩場」を構築し、特に足の遅いキャラバンを襲撃することで知られている。人間を本来的に恐れないが、銃声などの大きな破裂音を受けると一時的に聴覚が奪われ、瞬間的な無音状態によって混乱すると同時に動きが鈍化、ないし停止するという習性がある。これは、従来少数生活を営んでいたタスバグルの目が、現在も非常に狭い範囲にしか有効な視界を持たず、周囲の仲間の存在を確認するために聴覚を発達させたことに由来すると考えられている。なお、狩りに出ているのは基本的に雄の個体であるが、狩りを指揮する「長」は角の発達具合によって無差別に選択されるため、稀に雌の個体がその役割を務めている場合もある。