ラブイル・シンリチェルム
・マルトフィシカ(フィズ)の能力
右手で空気を掴む動作をすることで、その分の空気を「かためて」、「持ち歩く」ことができる。この時、空気は「固化」したと考えられており、巻き込まれた砂塵や雪なども内側に封じられるが、掴まれた空気と外気の間には隔壁がなく、接触による判定ではほとんど区別がつかない。特筆すべき点は、こうして「固化」した空気の温度は、その時点からほとんど変動しなくなる点である。少なくとも、フィズ本人が近くにいる限りは一定の温度を保ち、能力の行使を停止することで空気を放散することもできる。場合により、時間経過で「融解」し、周囲の空気に溶け込んでしまうこともある。
吹雪が収まってから、キャラバンが町を出発するまでには時間を要した。積み荷を縛ったロープに不具合を見つけて、急遽三輌目の荷を固定し直したのだ。そうしている間に、他の面々もいろいろな理由をつけて集積場から出て行った。「旅路で飲む酒を買い忘れた」、「その辺の獣に噛まれた時のために血清を持ってくるべきだ」、などと言う陽気な腰抜けたちに、隊長は少し頭を抱えつつも許可を下した。嬉々として出て行った彼らが、もうここには帰って来ないのではないかと心配になったが、きちんと覚悟を整えて戻って来てくれたようだった。大きめのラジが二頭がかりで引く荷車の車列が、関所の建物内から帽子を振る門番に見送られて、遠い南の町へと旅立った。
「補助輪要りますか?」
「いんや、この分なら大丈夫そうだな!ラジ公の足元も丈夫そうだしよ!」
「前方丘陵地!重心変化に注意!」
大きな荷車の前や後ろ、上や下から、いくつもの叫びが上がる。車列の先頭から伸びる望遠台で、防寒具に全身を包んだ観測手が固定双眼鏡を回している。手元に広げた地図を見つつ、ランタンに火をくべる。あめ色の金属パイプを咥えて煙を漂わせつつ、再び雪景色の中へと意識を潜らせた。一面真っ白な風景の中で、異物を見つけることは簡単だ。観測手は熟練の先輩の仕事を間近で見て学ぶ徒弟の時期を経て、数年かけてやっと一人の現場を任されるものである。白い体毛に覆われた、「対自然用」の視覚防御を施した獣などは、彼らの目から決して逃れられない。
「……なんだろな、アレは」
雪景色の中に、不自然な暗色の塊を見た。双眼鏡を回し、より詳細な情報を得ようと試みる。雪上に散らばった赤い痕に、倒れて動かないラジ。そして、足元が雪に埋もれつつある荷車と、その中でぼんやりと輝くランタンのような灯り。観測手はすぐに鐘を鳴らした。
「遭難者だ!!全体停止、全体停止!」
数人の男が荷車を降り、小さな荷車のもとへと駆け寄る。ラジは既に息絶えているようだ。傷を見る限り、獣に襲われたのだろう。一人が紫色の滲出物を布に取り、臭いを確認する。間違いなく、それはかつて自分も嗅いだことのある臭い。幼少期に町の外で、白い獣にのしかかられた際に吐きかけられた吐息と、まったく同じ臭いだ。あとの二人が荷車の中を確認しに入る。
「おーい、大丈夫か!」
彼らが荷車に入ると、そこにあったのはごくわずかな食糧袋と、それほど大きくない水樽、いくつかの発光する革袋と、その一つを抱えて目を閉じた子供の姿だった。
「おいおい、子供一人か?」
「子供がいるぞ!何かに噛まれてる!」
少年の手を握る。まだ体温も脈拍もあるようだが、呼吸は非常に浅い。彼を保護したラジの様子を見ていたひとりが、荷車の中に叫ぶ。
「車に連れて帰れ!血清が使えるはずだ!」
一人がコートを脱ぎ、背負われた少年にかける。これぐらいの距離なら平気さ、と、若者は笑って見せた。目を開けない少年が抱える革袋は、熱帯との境界の空気を持ち込んだかのように暖かいが、中身はほんのりと明るいだけで、ただの空だった。男は不思議に思って、革袋を一緒に持ち帰った。
「隊長、どうします?」
停止した車列の中で、少年に応急処置を施した。彼を冒したと思われる毒に覚えのある者が、先ほど町の医者から購入した血清が有効だと気づき、また原理不明の「温もり」によって体温の低下が妨げられたために、なんとか命を落とすことは避けられた。万が一のために引き連れていた熱因子機関車を使い、荷車も確保した。
「医者に見せた方がいいだろうな。おい、お前が町まで護送して、例の医者の所まで連れてってやれ」
「シンリチェルム先生、ッスね、わかりました!」
キャラバンで最年少の組員が指名され、彼はすぐに部屋を出ていった。
「あの旅医者、熱因子疾病の専門だろ?」
「あの町では一番信頼できる医者だ」
キャラバンはしばらく低速で進むこととし、若者は一人で反対方向へと進んで行った。
フィズの意識が戻った時、彼にはぼんやりと木板の天井が見えていた。うららかな日差しが窓から注ぐ。今日は珍しく、雪の降らない日であるらしい。身体を覆っているものが、最初は雪かと思ったのだが、自分がベッドに入っていて、腕に包帯を巻かれていることを理解するのには、そう長い時間を要さなかった。視界がぼやけたまま、全身の力がぬけていて、呼吸が少し深く通り抜ける感覚がある。手足は動かせるが、身体を起こそうとするとうまくいかない。視界が映す部屋はそう大きくない。向こうの机から、白い服を着た人が立ち上がって近づいてくる。
「うん、起きられたようだね」
優しい男性の声だった。まだ焦点が安定しないが、穏やかな顔をしていることはわかった。声はうまく出ないが、いくつか息を吐き出しているだけのフィズを見て、医師は「うんうん」、と頷いた。
「ゆっくりでいいよ、大丈夫。いまは呼吸を落ち着けようか?」
小さく頷く子供を安心させるように、彼は優しく頭を撫でた。その後で、胸のポケットから小さな紙を取り出し、フィズに見せた。
「僕はラブイル。世界を旅しながら、人を助ける仕事をしてる。旅医者、っていうものだ」
彼の言っていることを、フィズはなんとなく理解できていた。ずっと前に、別の町で見たことがある。医師のいない町を巡って、病に冒された人々の苦痛を取り除いたり、病気を予防するために必要なことを人々に指示したりして回っている旅人だ。
「君のことを見つけたキャラバンの人が、君を荷車と一緒に連れてきてくれたんだ。積んであったものも、ちゃんとそのままにしてあるよ」
「……ら、じ……」
「ラジは……ごめんよ、助けられなかった」
「……」
フィズはこぼれそうになる涙を抑える。手で目をこするふりをして、あふれた一滴をにぎって隠した。ラブイルに向き直り、できる限り笑って見せる。
「あり、がとう、ラブイル、さん?」
彼は安心したような顔で、もう一度少年の頭を撫でた。ふと気づいたように、人差し指の背でフィズの目元を拭った。
「名前と、故郷と……あと、一緒にいた人のこと、聞いていいかな?」
「マルトフィシカ、ワディシア・ジュール…第…二大陸のツミュルから、きました」
ラブイルはメモにそれを書き記す。フィズは息を深く吸い込んで、言葉を続ける。
「誰も、一緒にはいなくて……ひとり、でした」
「一人で、ここまで?」
「はい……」
彼がにわかには信じられない、という顔をしたのを見て、フィズはどう言葉を続けようかと、一瞬考えてしまった。両親のことも聞かれたので、彼は正直に、かつ反射的に「いない」と答えてしまった。
「で、でも!その、長老さんがいる、から、ぼく……」
息がなかなか続かない。焦るフィズの様子を見て、ラブイルはもう一度彼の体をベッドに寝かせた。
「ごめんよ、何か詮索しているわけじゃないんだ。ただ、あんなところで一人だった、というのが心配でね」
雲が動いたらしく、窓から強い太陽の光が差し込む。彼は静かに立ち上がって、白いカーテンを引いた。微かな暖かさが、白いベッドの陰影を映し出す。
「何にせよ、君の身体にはまだ休息が必要だ。二日ほどはここにいたほうがいいと思うよ」
彼は机上の隅にあった物を持って、フィズの隣へと戻ってきた。彼の命をつないだ、いまもまだ暖かい革袋だ。
「これがどうして暖かいのかわからないけど……でも、大事なものなんだろう?」
「うん。あったかい空気、捕まえてあるから」
「なるほど、捕まえてある、のか」
にこにこと笑って革袋を抱える少年を前に、青年も微笑み返すほかなかった。