ナセル平原にて
・現状
この星には、現在7つの大陸の存在が確認されている。それぞれには名前が付いておらず、かつて「黙示の禍」と呼ばれる大災害が起きる前、最も繁栄していた民族によって番号が振られている。
地上はザヘリスの崩壊によって引き起こされた世界規模の大災害「黙示の禍」によって、熱エネルギーそのものである不可視の存在「熱因子」の分布に極端な偏りが生じている。つまり、一年を通して灼熱の気候に見舞われる「熱帯」と、逆に極寒の環境である「冷帯」が、斑点状に存在している状態である。
マルトフィシカ、という名前は、第二大陸に位置する故郷、ツミュル村の長老に授けられた名である。彼には本当の両親がなく、幼い頃に何者かが村へと連れてきた子供だった、と聞かされていた。いささか名前にかける願いが大きく、名前にしては長い使命を書き記されたために、人は親しみを込めて「フィズ」と呼んでいた。彼自身も、自らをそう呼ぶことに慣れていた。
第四大陸中部にある、ナセル平原と呼ばれる冷帯――すなわち「熱因子」が極端に少なく、凍てつく雪原と化した地域――において、彼は冷気を収穫している。フィズの右手には不思議な力が宿っていて、広げた手指で掴んだ空気を固めて、その温度を保存することができた。もちろん、無限にこれを保つことはできないが、少なくとも彼が近くに居る限りは、これが変温して溶解することはなかった。彼は故郷ツミュルの灼熱を和らげるべく、世界を巡って冷気を革袋に集めている。この事業が始まってから既におよそ1年が経っているが、いまだ気温は下がっておらず、現状を維持する程度がやっと、という状況が続いていた。
フィズは深く積もった雪の上を歩き、この足元にある白銀の下に、もともと何があったのかを考えた。大体は背の低い草が生い茂っていた場所だったり、ここには湖が存在していたと聞かされたりするものだが、この「平原」については、珍しく何も聞くことができなかった。そもそも、いつもならば「仕事場」に着く以前に、必ずどこかの村へ辿り着けるはずなのだが、この地域ではとうとう人里に出会うことができなかった。どうやら、予定していたルートを少し外れてしまったようだ。
依然白一色のなだらかな丘陵を降り、荷車のもとへ帰る。荷車を曳くラジ――独特の言葉を持つ家畜の一種――には毛皮の布を掛けておいたが、あまり長く放置しておいてはかわいそうだ。フィズは足元で少し固まっている斜面に靴裏を滑らせつつ、遠くに見える荷車に向けて歩みを速める。ラジは頭に積もらせた雪から突き出た焦げ茶色の角が標になって、防寒具が真っ白になっていてもよく見える。
「ただいま、寒かったよね!」
手袋越しに額を撫で、相棒が目を細める様に微笑む。軽く全身の雪を払い、今度はラジの言葉で語り掛ける。
「Rro phana,tegici!」
ラジは「Qor」と返して、ゆっくりと四本の足を伸ばして身体を起こした。軽く胴体を揺すると、腹の下から雪の欠片がぱらぱらと落ちた。フィズが荷車に乗り込み、小さな鈴を鳴らしたのを確認して、細い脚を前に踏み出した。
雪原の風景は、どこまでも変わらない。先ほどよりも風が弱く、吹雪に打たれることはなくとも、視界は全く回復しない。簡素な屋根と壁があるおかげで、ある程度の雪は防ぐことができている。彼らが方位磁針と地図を頼りに、なんとかこの冷帯の外縁部へ向かっていたが、目印になるような山も見えず、いま自分を信じて進んでいる方向は、単純に来た道を戻ろうとしているだけだ。ラジはまだ元気な様子で悠々と歩いているので、フィズはひとまず身体を休めることとした。ここに来る前に熱帯で捕まえた、まだほんのりと温かい革袋を抱えて、毛布に自分の体を包んだ。
――彼の意識を呼び戻したのは、騒がしく鳴くラジの声だ。意味のない高い叫びを、何度も口ずさんでいる。フィズは一瞬にして目を覚まし、毛布を蹴飛ばすようにして荷車の外を見回す。ラジが叫ぶ声の意味は「警告」。周囲に異常が認められた際に、必ずそうするように訓練されているのだ。足を止め、叫び続ける相棒の声に応え、周囲を注意深く警戒する。
前方を見る。視界は少しばかり広くなった。雪はゆっくりと降り積もっている。右側を見る。全く同じだ。何も見えない。左側の視野の果てに、わずかながら光が見える。ぽつぽつと灯った人工の光に見えるが、もしかすると、自分たちが当初目指していた村かもしれない。ラジが警告しているのはその事ではないだろう。後方に目を移す。
「――!」
雪の中に二つほど、大きくも小さくもない程度の影が見える。獣のような姿に見える。単独で行動していたフィズたちを見つけ、狩りの標的に選んだのだろうか。手の感覚からして、このあたりの空気は熱因子が薄い。つまり、熱因子をエネルギーにしている「熱性生物」ではなく、人間やラジと同じく、酸素を吸ってエネルギーを作る「気性生物」の一種だろう。
早く左舷の村を目指そう、と考えたフィズの背後で、大きな金切り声が上がった。反射的に振り向いた彼の目に、頭を振り上げて悶え苦しむラジが映る。相棒の胴体側面から、小さな血の雫が飛び散った。思わず足から力が抜け、荷車の床に尻もちをつく少年の前で、ラジは力なく倒れた。その身体を踏み越えて、白い獣がこちらを睨みつける。
少年の頭が咄嗟に下した判断により、荷車に載せていた護身用の拳銃を手に取った。いままで発砲した経験など数えるほどしかないが、震える両手でしっかりと銃を固定する。獣が飛び掛かってくるより前に、銃口は大きな音を立てて火を噴いた。狙いは大きく外れたが、獣は銃声に驚いて怯んだ様子を見せる。フィズもなんとか態勢を立て直そうとするが、膝が全く言うことを聞いてくれない。まだ四足で歩くことしか知らない赤子のような座り方のままで、もう一発撃ちこむために覚悟を決めた。
聴覚に、唾液を含んだ唸りが響いた。背後から首筋に当たった生暖かい息に、彼は恐れをなして振り返る。薄く紫色の牙が鈍く光ったのを見て、反射的に腕で顔を覆う。ざくり、と鋭い冷たさが左腕をかすめ、態勢を崩した獣は少年に覆いかぶさるように倒れ込んだ。痛みなど感じている暇はなく、ただ叫び声を上げながら引き金を引いた。彼を押し倒した獣の腹部から鮮血がほとばしる。甲高い声を上げて逃げ出す白い悪魔に反応してか、ラジを殺したほうも荷車から飛び降りた。
襲撃者が後方にいたもう一匹に駆け寄っていくさまを見て油断した少年に、前方にいた最後の一匹が強襲をかける。最後のあがきとばかりに、ふたたびラジの身体に足をかけ、フィズに飛びつこうと足を伸ばす――
恐怖に目を閉じた彼の様子を察知したのか、瀕死のラジは再び頭を振り上げた。獣の脇腹に角が深く刺さり、獣は失速して引き戻された。雪に叩きつけられ、体を赤く染めながら、襲撃者は白い世界へと走り去っていった。
フィズは荷車を降り、左腕を布で押さえながら、ぴくりとも動かない相棒に駆け寄った。胴の皮が削り取られて、かなり大きく肉を噛みちぎられたようだ。紫色の分泌液のようなものが、血に混じって流れ出している。ラジは、目を閉じたままだ。毛皮が風に揺れる。名誉の血に塗れた角を抱きしめて、フィズは涙を流した。こうしていてもラジの命は帰って来ないし、ここにいればまた獣たちが襲ってくるかもしれないとわかっていても、いまはその場を動けなかった。雪原に吹く風に、号泣の声が掻き消されていった。
やがて、彼自身の意識も朦朧としてきた。荷車の中へと戻り、暖かい革袋の空気を抱きしめながら、フィズは数分と経たずに気を失ってしまった。




