あかん、まだ好きやから
あの女から電話がかかってきたのは、終業時刻を少し過ぎた時間だった。
「お先に」
私の向かいに座る新人の女の子が遠慮気味に私に声をかけて席を立つ。
うなずいて受話器を取った私は、取引先と思ってよそ行きの声で返事した。
「はい、和光商事第1営業部、柴田です」
『……あの……。私、布川ですけど』
「はい? どちらのふ……」
そこまで言って気づいた。龍生さんの前の彼女やん、って。
「ああ……。こんにちは。で、どういうご用件でしょう?」
私は小声で答えた。営業時間を過ぎているとはいえ、部署の人の大半は残ってはるし、外回りの営業担当もまだ全員帰ってきてない。
『すみません。まだお仕事中でしたかしら。実は、今日これからお会いできへんかなあって……』
今日は7時半から龍生さんと会う約束がある。ここはあっさり断ろ。
「ごめんなさい、今日は……」
『そんな長い時間やないんですけど。手短にお話済ませますから』
仕方がない。はっきり言お。
「今日は龍生さんと会う約束があるんです」
『そうですか。今が一番ええ時やわねえ』
イヤミな言い方に身体が熱くなる。
「ですから、ほんまにごめんなさい」
『ねえ……。龍生さんに関係ある話やから、少しだけ会うてくれへん?』
粘りつくような声が受話器を通して、私の耳に張り付く。
結局、布川さとみと会うことにした私は、取引先からまだ帰ってきてない仕事の相方に伝言メールして、パソコンを閉じた。
「お先に失礼します」
私は下を向いたまま言う。なんとなく室内の全員がこちらを見ているような気がして。実際には、誰も私のほうなど見ていないのだろうけど。時間外なのに残っている人は、パソコン画面を注視したまま、「へえ、お疲れ」「お疲れ様」と口々に答えてくれた。
大急ぎで、制服のブラウスとスカートから私服のTシャツとワイドパンツに着替えて、会社から飛び出す。最寄りのJRの駅まで徒歩で5分。走っても4分。私は早足で歩きながら、(なんの用事やろ……)と、さきほどの電話を思い出す。
『龍生さんに関係ある話やから』さとみが思わせぶりに言ったとき、なんや知らん優越感に浸ってる感じが伝わってきた気がした、女のカンやけど。
待ち合わせ場所は、JR大阪駅改札出てすぐのスタバ。
金曜日めちゃ混むし落ち着かんやん、なんでそんなとこに……と思うが、元々長居しないのだし、と思い直し、電車を降りた私は小走りに向かう。
私が店に着いたとき、店内はほぼ満席だった。さとみは一番手前の2人がけでぼんやり座っている。
店の入り口で、さとみに軽くお辞儀した私に、彼女は「あっ」という顔で立ち上がって、丁寧にお辞儀してきた。
「早いですね」
さとみが微笑みながら言う。
「JRで10分とかかりませんから」
「ええとこにお勤めですもんねえ」
「場所だけは」
「……座りません? あ、ごめんなさい。祐華さんもなんか飲むよね、先、買ってきて」
私は列に並ぶと、さとみのほうを振り返って見た。彼女は優雅な仕草でジュースのようなものをひとくち飲んで、そのあとハンドバッグからスマホを出して、何やら熱心にいじりはじめている。
「お待たせ」
フラペチーノのグランデと水を載せたお盆を手に席に戻ると、さとみが椅子の上から自分の鞄をどけて「どうぞ」と言う。
「ありがとう」私はそう言って席に座る。そんな私たちの姿は傍目には、仲良しの友達に見えるだろう。実際には先々月知り合ったばかりで、ほとんど口もきいたことない、元カノ今カノのふたりなのだけど。
「あー美味しい。急に暑くなって冷たい飲み物が美味しいわ。スタバでコーヒー頼まないのもアレなんだけど、コーヒーとか紅茶はカフェインあるから仕方なくて……」
「?」
私は冷たいコーヒーを飲みながら眉を上げて、さとみの次の言葉を待った。
「単刀直入に言うわね。私、妊娠してんの、龍生さんの子ども」
「!」
「龍生さんと別れて2カ月。正直に言うと、もういっぺんやり直されへんかなぁて、ずうっと毎日思ててん」
この女は何を言ってるんだろう……。
子ども? 誰の?
「別れたい、って最初に言うたんは私やけど、まさか別れる前からアナタとダブってたやなんて、私も騙されてたわけでしょ? それにね……」
さとみは急に声をひそめて、私のほうに顔を寄せる。汗と外国製柔軟剤のきつい香りが混ざってなんとも不快な匂いが押し寄せてきた。
「最後に龍生さんと会うた日、『最後の思い出に抱いて』言うたら、ホイホイ家まで着いてきたわ、あの人」
「…………」
「その時できた子やんか。最低でしょ、なんも着けんと」
さとみは私を上目遣いで見ると、ウフフと笑った。
脳が空白ってこういうことを言うのか。
私は何も考えられず、返事もできず、呆然としているしかなかった。
「悪いけど龍生さんと別れて。今日おそらく彼から別れ話が出るだろうけど、アナタが動揺しないように、先に私が話した方がいいかなと思って」
さとみは早口に言った。目がつり上がって、必死の形相とはこのことか。
「嘘」
「嘘じゃないわ、ほんまにほんまよ。龍生さんも産んでいいって」
「違う、妊娠が嘘って言ってるんじゃないの。私が動揺しないように、じゃなくて、私が動揺する瞬間をあなたは見たかったのよね」
「何言うてんの……」
「私のことを好きになった龍生さんに捨てられそうになったのが悔しかったんでしょ。だから先に別れを口にして。けど最後に妊娠しやすい日に罠にかけたのよね、彼を」
私はそう言って立ち上がると、それ以上さとみには何も言わず、見もせずに店を出た。
早く待ち合わせの場所に行かなくては。
茶屋町に新しく出来たハンバーガーのお店。きっと彼はいつものように私を見つけると、眉と目を八の字に下げて破顔一笑「やあ」って。
私は、はあはあぜいぜいしながら答えるだろう。「お待たせ、いつも私のほうが遅くてごめん」って。
「別にええけど。待つのも嬉しいです」彼の目尻は一段と下がるだろう。少し斜めに生えて八重歯みたいな右上の糸切り歯を見せて。
信号待ちの間、もうすっかり真っ暗になった空、でも西のほうはまだ蒼い空を見上げると、涙があふれる。
横断歩道の先に、暗い顔した龍生さんの姿が見えた。
あかん、まだ好きやから。
そんな顔せんといて。
混雑して歩きにくい横断歩道。彼の顔が涙でぼやけて見えへん。ざわめきの中、私には「やあ」って、いつもの明るい挨拶が聞こえた気がした。
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