死亡届にご記入願います。
死んだことのない者には分からないかもしれないが、「気が付いたら天国」なんてまずあり得ない。そいつはよっぽどのアホか、ただ寝ぼけていただけだ。死ぬとすぐに真っ白な闇に取り残される。それから少しずつ暗闇に目が慣れるように、白い視界が開けていく。
視界が開けると病室のような部屋に寝かせられ、一人の男が現れる。白い服を着ているため、一瞬病院かと勘違いするかもしれない。しかし彼は言う。
「お亡くなりおめでとうございます」
死んだことを祝われるのは生まれて初めての経験だ。まあ死ぬこと自体が生まれて初めての経験なわけだが。
「死亡届にご記入お願いします」
白服は笑顔で死亡届を渡す。自分の死亡届を自分で書いているのは妙な気持ちだ。その後長々と天国の説明を受ける。天国では不老不死であること。職業に就かなければならないこと。法律や文化などがあり、現世とあまり変わらないこと。お盆に帰省できること。そして人々はそんな天国を「天」と呼んでいること。
「天行きの列車が駅から出ています。この列車は本当におすすめですよ。車窓が素晴らしい」
白服は笑顔で駅までの地図と切符と渡す。思えばずっと笑顔だ。
「毎日零時発車です。急いで」
時刻はもう十一時半を過ぎていた。駅までは到底間に合う距離ではない。
「さすがにもう無理ですよ」
そう言うと白服は笑顔で笑った。
「あなたは亡くなったのですよ。わざわざ地面を歩く必要なんてない」
白服に諭されて、ベッドから起き上がり窓を開けた。冷たい風が吹き抜ける。標高が高いのだろうか。下に雲が流れる。
「さあ、急いで」
白服が肩に手をのせてきた。早く行けといった素振りである。しぶしぶ窓の淵に足をのせた。
「さあ!」
ポンと肩を叩かれて、すくんだ体が締まったかと思うと、次の瞬間空へ放たれていた。当然落下感覚はない。ふわふわと舞っている。
見回してもありふれた夜空と雲だけしかない。進んでいるのか止まっているのかも微妙だ。けれどもしばらくすると駅が見えて、空に浮かぶ駅舎に近づいていく。
駅に着いたが先客は誰もいなかった。三十歳近い黒服の駅員が改札にいたので話しかけてみる。
「切符はあります。天まで行きたいのです」
駅員は切符を切ると
「一番線でお待ちください」
と微笑んだ。
時刻は十一時五十六分。間もなく列車がやってくる。冷たい夜が駅全体を包んでいた。あとからお客もこないようだ。
「間もなく一番線に天行急行が到着いたします」
駅員のアナウンスで列車が来る方角を見つめた。雲の中に一点の光を見出すと、やがてそれは大きくなっていく。
線路のない夜空の上をがたんごとんと揺れながらその急行はホームに入った。四両編成で四つ扉。昔東京で見た列車にとてもよく似ていた。
車内は外に比べ暖かかった。とはいえ何故か扇風機が回っている。乗客はまばらで、向かいのシートの端に女が一人座っているだけだ。
「発車します。ご注意ください」
鈍い音を皮切りに、列車は動き出した。駅の明かりが過ぎると、窓の外は暗闇に浸された。
「次は――」
知らない街の名前が流れてすぐに次の駅に止まった。扉は開いたが誰も乗らないようだ。冷たい夜が暗闇を連れて入ろうとする。扇風機はそれらを威嚇しているかに思えた。
その後もいくつか駅に止まったが客は一人も増えなかった。この赤字路線が満員列車と化すのはお盆で、それを知るのはもう少し後のことになる。
それにしても白服は車窓が素晴らしいなどと言っていたが、全然そんなことはない。むしろ暗闇ばかりで退屈だ。
退屈なので向かいのシートの女を観察することにした。二十代後半から三十代前半だろう。黒いスーツに身を包んでいる。よく見るとこの女、泣いている。
現世に残してきた夫や彼氏を想っているのだろうか。あるいは何か達成できなかった目標でもあるのだろうか。目を赤く腫らしてふつふつと泣いている。
「あ――」
あまりじっくり見ていたので目があってしまった。思わず声が漏れる。女は話した気な瞳の色を見せつける。
「失礼かと存じますが、大丈夫ですか? 何か御有りなのですか?」
そう聞かざるを得なかった。すると女は
「車窓があまりにも美しすぎて……」
と目をこする。
美しい車窓? 女から目をそらし振り返るが、暗闇ばかりの退屈な車窓だ。前も後ろも右も左も。美しいものなんて見えないじゃないか。
「何か見えないものが見えるのですか?」
「え? 私には星々と煌びやかに光る町並みが見えています。あなたにはみえないのですか?」
星々と煌びやかに光る町並み? 言われてみればそうかもしれないが、そんなもの毎日見ている退屈な夜空ではないか。
「確かに見えますとも。しかし見慣れてしまって何も感じません」
この女は感情的で羨ましいものだ。こんな見慣れたものでも泣けるのだから。
「見慣れているのでしたら仕方ありませんね。この高さからこの町を初めて眺めたものですから。こんな風になっているのかと感心してしまいました」
「初めて? 本当に初めてなのですか?」
「はい」
「なら涙を流すのも頷けます」
初めて見たとき同じように泣いたのを思い出した。夜空に滲みだした赤や黄色や橙が空の中腹あたりで溶けるように混ざり合い何もない場所を染め上げていた。加えて空の上側から青白い光を放つ星々が染め上げた色たちを貫いている。神秘的で幻想的な色だった。
「忘れておりました……。この美しさに改めて気づけました。ありがとう」
そう言うと女は軽く会釈を返した。
「この景色が見慣れてしまうくらい素敵な場所にいらっしゃったのですね」
女は続けた。素敵かどうかはわからない。
「そうですね。素敵な場所だと思いたいです」
「――まもなく終点天。終点天」
ずいぶん時間が流れた。あれから言葉を交わすこともなくお互い寝てしまっていたようだ。天――話で聞くより寂れていた。風俗のネオンが車内からうかがえた。どことなく不安になって
「前に来られたことありますか?」
と聞いてみる。
「ありませんよ。あなたは?」
「ありません。しかし思っていたのと違いますね。とてもおもしろそうだ」
おもしろい? 風俗のネオンをみて面白いなどとよく言えたものだ。
「お好きなのですか?」
「いえいえ、好き嫌いもなにもこういう建物を見たのが初めてなものですから」
初めて? さすがに冗談ではないか。風俗のない町などあるはずもない。
「まさかそんなはずはないでしょう」
「いいえ。そうなのです」
「どんな街にお住みだったのですか?」
「どんな街? 空に浮かぶ静かな街ですかね」
「空に浮かぶ?」
「ええ、浮いていますよ。あなたの街は浮いていないのですか?」
首を横に振ると、驚いた顔をする。
「だから夜空の車窓も見慣れていたのですね」
そう言うと
「だから夜空の車窓も見慣れていなかったのですね」
と納得の表情。
鈍い音を皮切りに今度は止まる列車。扉が開き列車を降りる。改札を抜け、天の玄関口に出た。
寂れた商店街は溝と油の臭いで満ちていた。店はほとんど閉まり、アーケードの先に風俗のネオンが見える。
「風俗行きますか?」
冗談交じりにそう諭すも
「いいですよ」
と返ってきて少し焦った。それにしても安っぽい場所だ。空気だ。
ネオン近づくと客引きがいやらしい顔で近づいてきた。慣れていると言えどもきつい。
「ようこそ天へ。お安くしときますよ」
ネオンの中に消えていく影とネオンの外へ逃げて行った影があったのは言うまでもない。
死んだことのない者には分からないかもしれないが、天国がいい場所かなんて結局は自分次第。これを読んだ死んだことのない者たちは参考にすると良い。




