弐 赤い猫と黒紫の狐
時代背景の都合上、わからない単語が多いと思われるので、わからない単語は最後の方の注釈を参照してください。
「見てください霊華さん! あれが今巷で話題の牛鍋屋、鋤焼き亭です! 早速入ってみましょう!」
「わわっ、だから無理やり引っ張るなって! あと牛鍋屋なのかすき焼き屋なのかはっきりしろよ!」
まるで子供みたいにはしゃぎながら狐雪は霊璽郎を引っ張って街中を走り回っていた。
立場が逆だろ、と思いながらもそれでもちゃんと案内してくれるのだから別にいいか、と思う霊璽郎であった。
そうしてやってきたのが鋤焼き亭という一軒の牛鍋屋であった。
「いらっしゃいませ! あら狐雪ちゃん、今日は友達を連れてきたのかい?」
紅い髪と紅く輝く瞳が特徴的で、白い布を頭に巻き上に白いエプロンを着た紅い着物姿の、この店の店主と思われる美しい女性が出迎えてくれた。
側頭部に狐雪と同じように一対のアホ毛があるところから、この人もおそらく妖人なのだろう。
「ああ、この方は今日から私が居候している神社の巫女になってくれた博玉 霊華さんです。 霊華さん、この方は鋤焼き亭の女将をしている焔猫 華燐さんです。こう見えても結構強くて戊辰戦争の頃は......」
「あわわ、狐雪ちゃん! そげなこと言わんでもええから!」
どうやら華燐にとっては知られたくない過去を、口を滑らせて話そうとした狐雪を、華燐は顔を赤くして必死に止めた。
若い頃、というか幕末の頃に厨二病みたいな黒歴史でもあったのだろう。
霊璽郎にも中高生時代に似たような過去があり、黒歴史を掘り起こされた時の恥ずかしさはとてもよくわかる。
だから、あえてそれを深く詮索しまいと霊璽郎は心に誓った。
正直な話、狐雪の失言により、華燐の過去がどんなものなのかは気になってしまってはいたが。
「あ、僕ったらつい口が滑ってしまって...。本当にすみません。『紅蓮の怪猫』さん。」
「だからその二つ名で呼ばんといて〜!! その名前で呼ぶんだったら私だって狐雪ちゃんのこと、『大食い狐姫』って呼ぶからね!!」
狐雪が笑いながら二つ名で呼ぶと、華燐は再び顔を赤くしながら両腕を縦に振りながら恥ずかしがっていた。
「別にいいですよ。実のところ、僕はその二つ名気に入ってますから。華燐さんだって恥ずかしがることないのに、かっこいい二つ名なんですから(笑)。」
「狐雪、からかうのは辞めてあげなよ。誰にだって掘り起こされたくない過去の黒歴史くらいあるんだからさ。」
「ココッ。ではここまでにしておきましょうか。紅r......じゃなかった華燐さん、空いてる席はどこでしょうか。」
「あの、私がご案内しましょうか。」
狐雪が空いている席を華燐に尋ねると、そこに華燐と同じような服装をしたを思わせるような小柄で可愛らしい少女が現れた。
服装的に、この店で働いているのだろうか、それにしても若いというか幼すぎる。
現代、霊璽郎が生きていた時代であれば間違いなく労働基準法に引っかかっているだろう。
霊璽郎は何故このような小さい娘が店で働いているのか疑問に思い、華燐にこう尋ねた。
「華燐さん。この娘は一体?」
「あ、ああその娘は昔会津戦争(※二十九)で親を亡くして孤児になっていた所を私が拾った篝火 あかりっていう娘で今は私が今まで育ててくれた恩返しのために、この店のお手伝いをしてくれているの。」
まだ小さいのに、育ててくれた恩返しに里親の店の手伝いをするなんて偉いなぁ、と思う霊璽郎であった。
「では、こちらへどうぞ。」
狐雪と霊璽郎はあかりの後をついていき、奥の方にある座敷に座った。
しばらくして牛鍋が用意され、鍋から美味しそうな匂いが漂ってきた。
食べ方や味は霊璽郎が今まで生きていた時代の鋤焼きとほぼ変わらないものであったが、違いとしては味噌が用いられていることと肉が鋤焼きよりも分厚いことである。
そして、先ほどからもう十人前分も鍋が空になっては、また次が運ばれてくるというのが繰り返されている。
原因は、目の前で美味しそうに肉をおかずに茶碗に盛られた飯を食っている妖の少女である。
霊璽郎が食べたのはせいぜい一人前程度であり、あとは全て狐雪が食べた分である。
そういえば、華燐が狐雪の二つ名が『大食い狐姫』って言っていたような。
見れば、そういう二つ名がぴったり似合う食いっぷりであった。
当の本人は茶碗に山盛りにされた白飯を掻き込みながら、鍋の肉を次から次へと自分の口の中へと放り込んでいた。
もちろん野菜や白滝、豆腐なども残さず食べていた。
「狐雪、そんなに食べて大丈夫なのか。なんか......よくそんなに食べれるな。太るだろ、そんなに食べたら。あと金とか大丈夫なのかよ。」
「あ、大丈夫ですよ。いつもこれくらい食べていますから。それに太ったことだって一度もありませんよ、失礼ですね。あと、このお店では月に一度牛鍋十人前食べられたら賞金五十銭がもらえる大食いチャレンジがあって、私はそれでコツコツとお小遣いの一部を稼いでいるので、お金に関しては大丈夫です。ちなみに食べきれなければ十人前の代金五十銭を払うことになりますが。」
銭。霊璽郎の時代では馴染みのない金の単位である。
確かこの時代壱円が現代の弐万円くらいで、百銭で壱円であるから、狐雪は一ヶ月あたり単純計算で壱万円くらい大食いチャレンジで稼いでいることになる。
ちなみに、五十銭で牛鍋十人前なら牛鍋一人前は五銭、現代では千円くらいってところか。
ついさっきまで学生だった霊璽郎の身では、たまに食べられるご馳走って感じの値段であった。
単に大食いだけで一ヶ月壱万円稼げるというのは楽そうでいいなとは思ったが、自分では到底無理だな、と思う霊璽郎であった。
しかし、どうにも腑に落ちないところがあるのも事実であった。
一体こんな華奢な体型のどこに、これほどの量の飯と牛鍋が入る場所があるのか理解できなかった。
もしかしてこいつの体にはブラックホールでも入っているのだろうか。
霊璽郎がそんなことを考えていると、急に後頭部に衝撃が走った。
「痛っ! 誰だ一体!?」
そう叫びながら、何が飛んできたのか見ると、背後に割れた酒の杯が落ちていた。
「霊華さん、大丈夫ですか!?」
狐雪が心配して、霊璽郎に声をかける。
「あ、ああ。とりあえず大丈夫だ。たんこぶができただけさ。それよりも......。」
後頭部にできたたんこぶをさすりながら酒の杯が飛んできた方を忌々しげに見る。
そこでは、仕込み刀と思われる長い竹杖を小脇に抱えた柄の悪そうな三人の男たちが、徳利(※三十)に入った酒を呷り、顔を赤らめながら大声で論争を繰り広げていた。
「いかんいかん、これからはもっと過激に、いざとなれば一斉蜂起も辞さぬ覚悟で運動を進めなければ自由民権の世は永遠に来ないのだぞ!」
「何を言っている! そんな馬鹿なことをしたら、板垣先生(※三十一)を死中に追いやるのと同じことだ!」
「そうだそうだ! 内務卿(※三十二)の大久保は、江藤卿(※三十三)を晒し首にして嘲笑っていただけでなく、あの大西郷にさえ容赦せんかった冷酷非道な男だぞ!」
「板垣先生が死ぬってことは、即ち自由が死ぬってことなんやぞ!」
「何だと! お前たちは何もわかっていないんだ! 奸賊(※三十四)である長州の木戸や薩摩の大久保はなぁ、新たな理想の国家のためだと俺たち他藩の士族を騙して、自分らの利益のためだけに戊辰の戦で俺たちを無理やり戦わせたペテン師共だぞ! その証拠に新時代になってどうだ、得をしたのは薩長の連中だけで、俺たち他藩の士族はどんどん落ちぶれていくばかりだ! 仏蘭西の民衆が武力で自由と民権を手に入れた(※三十五)ように、俺たちも武力で訴えなければ、お上で甘い汁を吸っている薩長の芋侍共から自由民権を奪い取ることはできないのだぞ! 俺は全国の自由民権派の同志たちを呼応させ、一斉蜂起を起こしてやるんだ! 異論は一切認めん!」
「だからお前は馬鹿だと言っているんだ! それでは今まで失敗してきた士族の蜂起と何も変わらぬではないか! それにそんなことを板垣先生が許すはずないだろ!」
場所をわきまえず、酔っ払った状態で唾を飛ばしながら大声で怒鳴っている様子を見ていると本能的に嫌悪感を覚えてくる。
しかも相当酔っているらしく、なんだか酒臭い。飲むなら時間もわきまえて欲しい。
「あいつら、こんなもの人の頭に投げつけておいて謝りもしないなんてどういうことだよ。」
「あの方たちはどうやら自由民権運動の壮士みたいですね。今の政府は藩閥(※三十六)や公家の方々だけが要職を独占して権力を振るっている専制政府(※三十七)ですので、それを改め国民のために憲法を定めて議会を開こうという運動が最近結構流行っているんです。まぁああいう不良みたいな輩もいますが、本気で民主政治を実現させようとしている方もいるので、単に民権運動の壮士と言っても一枚岩ではないってことです。」
「もう良い、お前らのような腰抜けとは気が合わん! 帰らせてもらう!」
「おう、帰れ帰れ! てめぇの阿保面なんざもう金輪際見たくねぇ!」
割と大柄な体をした男が帰ろうとしたところを見て、
「おい待て、帰る前に先に俺にあやまr......。」
霊璽郎は真っ先にその男に謝るように言うが、
「きゃっ!」
その時、酒の瓶を盆の上に乗せて運んでいたあかりが男にぶつかってしまい、瓶の中身を男の着物にこぼしてしまった。
「す、すみません! 真に申し訳ありません! 今お客様の服を拭きますので!」
あかりは必死にその男に頭を下げて謝り、頭の手ぬぐいを解いてそれで男の着物を拭いた。
しかし、
「あ? なんだこのガキ? 自由民権の壮士様にぶつかっておいて挨拶もなしかゴルァ?」
男は、あかりを見下ろしながら威圧した。
「で、ですから何度も謝って服も拭いたじゃないですか。」
「御免で済んだら警察はいらねぇんだよ! 出すもん出せっつってんだよゴルァ!!」
「ひゃうっ!」
男は謝罪を受け入れるどころか、あかりを恫喝し、その腹を思い切り蹴り飛ばした。
蹴り飛ばされた少女は、苦悶の表情を浮かべながら腹を押さえ、土間の上でうずくまっていた。
「今てめぇにぶつかったせいで、左腕の骨が折れちまったよ。医者にかかる金は全額てめぇが払いやがれこのクソガキィ!!」
男はさらに蹴りを入れようと、あかりに向かって足を上げた。
その様子を見ていた狐雪と霊璽郎は堪忍袋の尾がぷっつりと切れてしまっていた。
気づけば二人は衝動的に、あかりと男の間に割って入っていた。
「おい待て! お前ら俺の後頭部に酒の杯を投げつけたことには謝りもしないで、怒鳴り散らしながら議論していたくせに、ぶつかったことを必死に謝っている子供相手にはそれかよ! いくらなんでも都合が良すぎるとは思わないのか!」
「しかも、その必死に謝っている娘に思い切り蹴りを喰らわせるなんていくらなんでも酷すぎます! ここは大人として、許してあげるのが筋というものでしょう! 自由民権大いに結構、ですが貴方達の場合、政府を正す前にまずは己を正すべきです!」
騒ぎを聞きつけたのか、この店の女将である華燐もこの場に駆けつけ、男の前に立ちはだかった。
「お客様! これ以上は他のお客様のご迷惑になりますので、これ以上の狼藉は辞めてください!」
「あんだてめぇら? 女のくせに自由民権の壮士様に逆らおうってのか? けっ、そいつはいいや!」
「うるせぇ! お前らはただの酔っ払いの破落戸だろ!」
「あんだとゴルァ!? 調子のんじゃねぇぞこのクソアマァ!!」
霊璽郎に酔っ払いの破落戸と言われたことが余程癪に障ったのか、男は霊璽郎の顔面目掛けて拳を放った。
しかし、
「霊華さん、危ない!」
既のところで狐雪が霊璽郎を庇った。
「コオォンッ!」
狐雪は男に顔面を殴り飛ばされよろめいた。
「狐雪!」
霊璽郎は思わず狐雪の名前を叫んだ。
その様子を見ていた男の仲間二人がこう言っていた。
「おいおい殴ることはねぇだろ。てかこいつら結構、別嬪じゃね?」
「そうだな、ガキの代わりにこいつらに払わせようぜ。」
それを聞いた割と大柄な男は、彼らに同調し、
「そりゃあ名案だ。聞いてたか。てめぇらがガキの代わりに払ってくれよ。金はいらねぇ、その躰で俺たちに奉仕しな!」
などと巫山戯たことを抜かしていた。
冗談じゃない。
こんな輩に霊華さんたちをひどい目に合わせる訳にはいかない。
やはり、ここで刀を抜くべきであったか。
確かに雪血華を抜くか妖の力を使えば、こんな輩に負けることなんて考えられない。
だが、店内でそんなことをすれば、騒ぎが大きくなり店に迷惑がかかってしまう。
現に華燐さんも、それがわかっていて妖の力を使わないのだろう。
では、どうすれば......。
殴り飛ばされよろめきながら、狐雪はそのようなことを考えていた。
と、その時、背後から何者かに受け止められるような感覚を感じた。
そして、背後からこんな言葉が聞こえてきた。
「やれやれ、せっかく牛鍋を食べに来たっていうのにこの騒ぎはなんだい。これじゃあ美味い牛鍋が不味くなってしまうよ。お前さん、大丈夫かい? ここは私に任せて、お前さんは下がっていたまえ。」
狐雪が背後を振り向くと、小紫(※三十八)の高帽子をかぶり、右目に海賊のような眼帯を付けている自分と似たような顔立ちの美女____いや、服装的には男性だろうか____が自分を受け止めていることに気づいた。
その人物は、先が白く染まった紫黒の長い髪を後ろで三房結い、普通の背広姿とは似ても似つかない異形とも和洋折衷とも言える奇妙な服装をしていた。
上襦袢(※三十九)とチョッキの代わりの袖がない(と思われる)黒い着物の上に、着物の袖に蝶や雲などの柄が入った小紫の背広を着ており、背広と同じ色をした長袴(※四十)の上から履いている、膝下までの長さのブーツは下駄底であった。
また上襦袢の襟には、狐雪が髪に結んでいる金色の鈴がついた赤いリボンとはまるで対照的な、銀色の鈴がついた青い紐帯を結んでおり、右手の中指には陰陽魚(※四十一)をあしらった宝石がついた指輪をはめていた。
そしてその人物の最も特徴的な部分は、その人物が狐雪と同じ妖人であることを示す側頭部の一対のアホ毛とハイライトのない虚で紅い左目の瞳であり、その瞳からはなんとも言えないような狂気が感じ取られた。
「は、はい......。」
狐雪は、その妖人の目を見て少しばかりの恐怖と何かを思い出しそうな懐かしい感覚を感じながら、言われた通りに妖人の後ろに下がった。
「あ、あの......。狐雪を助けてくれてありがとうございました。」
霊璽郎はその妖人に対し、頭を下げて礼を言った。
「いやいや、礼に及ぶことはない。お前さんもこの妖のお嬢さんの側にいたまえ。」
霊璽郎も言われた通りに、狐雪の側へと引き下がった。
そして妖人は、丸い持ち手部分に陰陽魚がデザインされた西洋杖の先を三人の男たちの方へ向けると、
「さて、そこの不良っぽい三人、ぶつかったくらいでギャーギャーピーピー五月蝿いんだよ。発情期かい、お前さん方。これ以上いらぬ騒ぎを起こすんだったらこの店から出て行ってくれないかな。正直目障りだし、飯が不味くなるんだよね。見た所お前さん方自由民権の壮士みたいだけど、もしかしてあれかい? お前さん方の言う自由ってのは、単に酒に酔って暴れて喧嘩をする自由のことかい? だったら私は商いをしている者として、お前さん方に喧嘩の一つでも売ってやることにしようかな。」
と言い放った。
「あんだとてめぇ! やんのかゴルァ!」
「西洋かぶれの成り上がり商人風情が俺たちに喧嘩売るとか、殺されてぇのか?」
「面白ぇ、その喧嘩買ってやろうじゃねぇか。こいつ俺たちに殺されてぇみてぇだからよ。」
男たちはこんな奴に勝つのは余裕といった感じで、その妖人から売られた喧嘩を買った。
「まさか、私はただお前さん方が目障りだから出て行ってもらいたいだけさ。一応老婆心ながら言っておくけど、喧嘩は売るのも買うのも相手を選んでからにした方がいいよ。なりふり構わず売られた喧嘩を買っていると、その喧嘩の代償が高くつくなんてこともあるからね......。」
対する妖人の方も余裕といった感じを漂わせ、男たちに忠告した。
「じゃあ、なんでわざわざ喧嘩なんて売ったんだよ!」
「てめぇがこのクソガキの代わりに金払えば、こんな店から出てってやるのによぉ!」
「そうすりゃ怪我なんてしねぇで済むのによぉ!」
と男たちは反論する。
「何故って? そんなの私がお前さん方に金なんて一銭も払いたくないからに決まってるじゃないか。お前さん方は先程までその娘に暴力を振るって強請り集りをしてたみたいだが、私はお前さん方に出て行ってもらうために、その娘の代わりに金を払うなんていう損しかしないことはしたくないから、敢えてお前さん方に喧嘩を売ってやったのさ。それに私は、お前さん方に負けるほど弱くはないしね。」
妖人は男たちの反論に答えるような形で彼らを煽って見せた。
「ほぅ、ずいぶん余裕ぶっこいてるみたいじゃねぇか、ここ数年で有名になってきた青年実業家の狐々乃尾 一藍さんよぉ。まさか、その後ろにいる金で雇った用心棒に喧嘩をやらせようって訳か?」
「言っておくがそういうのはナシだぜ、狐々乃尾の旦那。てめぇで喧嘩を売ったからにはてめぇの力でやりやがれ!」
店の入り口の方を見ると、濃い江戸紫(※四十二)の忍び装束と洋装が混じったような服装に天狗のような覆面で顔を覆った、狐々乃尾 一藍と呼ばれた妖人の従者と思われる人物が控えていた。
まさか、その人物に喧嘩をさせるつもりであったのだろうか。
しかし、一藍はそういうつもりは全くないらしく、
「コンッ、私を舐めないでくれたまえ。こう見えても旧幕の頃はお前さん方と同じく侍だったんだよ。戊辰の戦だって箱館まで戦い抜いている。今はこの明治の世を忍ぶために、こうして商人に鞍替えしたという訳さ。ただ、こうして莫大な資産を得るまでにはかなり苦労したけどね。お前さん方は、自分たちはどうせ他藩の士族だからと甘え、政府に再仕官しようとも商いで一旗あげようともせずにただ自由民権にすがり、専制政府だの薩長の芋侍だのと明治政府を叩くことで自分たちを正当化しているだけじゃないか。おまけに弱い者虐めなんていう何の利益にもならないことで憂さ晴らしとか、全く愚かで脆弱な下等生物の人間がやりそうなことだよ。どうせ自由民権派で一斉蜂起なんてのも口からの出任せなんだろ、コッコッコッ(笑)。」
と更に男たちを煽って見せた。
どうやら図星を突かれたらしく、男たちは
「あんだとゴルァ! 馬鹿にしやがって! もう勘弁ならねぇ!」
「その舐めた口を二度と聞けねぇようにしてやらぁ!」
「自分が儲かってるからって調子乗んじゃねぇぞ!」
と激昂しながら、持っていた竹杖から仕込み刀を抜こうとした。
店の中でなんてことを!
「待ちな! ここだと店に迷惑がかかる。相手してやるから、やるんだったら表へ出ろ。」
その様子を見た一鬼は、そう言い放って男たちを制止した。
「ふん、その話には乗ってやるよ。俺たちも丁度ここが喧嘩するのには狭いと思っていたところだからな。」
男は一藍の説得に応じ、一藍と男たちが外へ出ると、店内の客たちも一斉に外へと出た。
牛鍋屋『鋤焼き亭』の前にて、一藍と不良たちは対峙した。
周りは見物客や野次馬たちが取り囲んでおり、
「おいおい、喧嘩だってよ。」
「あの洋装の人大丈夫かしら。相手は三人だし、しかも強そうだし。」
「見た感じだとあの三人の方が勝ちそうだが、どんな勝負になることやら。」
などと話し声が聞こえてくる。
「先攻はお前さん方に譲ってやるよ。かかってきな!」
一藍がそう言い放つと、
「「「うおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉ!!!」」」
破落戸たちは一斉に竹杖から仕込み刀を抜き、一藍に襲いかかった。
しかし一藍は持っていた西洋杖から白銀に閃く刃を引き抜くと、男たちが繰り出してくる斬撃を華麗に躱しながら、西洋杖に仕込まれていた刀で相手を斬り払い、一切呼吸を乱すことなく刀を西洋杖に収めた。
すると、男たちが持っていた仕込み刀は中程でポッキリと折れてしまい、着物に至っては一瞬で細切れとなり、細切れとなった布はなんと青い炎に包まれ、空中で燃えてしまった。
「お、俺の刀がああああああああ!」
「お、俺の着物がああああああああ!」
「うわああああああああ! こっち見んなああああああああ!」
その結果、褌一丁となった破落戸たちがその場で倒れこみ、悲鳴をあげた。
その様子をハイライトのない虚な紅い瞳で見下ろしながら、一藍はこう言い放った。
「安心しな、命だけは助けてやる。お前さん方大口叩いてたくせに弱すぎるよ、全くこれだから人間は。どうする? まだやるってなら、タダで幽霊にしてあげるけど? 降参だったら、さっさと勘定払って帰って糞して寝ろ。」
「「「ひいいいいいいいいいいいいぃぃぃぃぃぃ!!!」」」
その狂気を孕んだ瞳で睨まれた男たちは、なんとも言えないような恐怖に震え上がっていた。
しかし、
「降参する必要はないぜ!」
群衆の向こう側からそんな声が聞こえてきた。
すると、群衆を押しのけて破落戸たちよりも体格が大きく恰幅のいい男が現れた。
肩には堂々と本物の刀を担いでおり、廃刀令違反もいいところであった。
不良たちはその男を見て、
「あ、兄貴ィ!」
「こいつです! こいつが俺たちをこんな目に合わせたんです!」
「殺っちまってくだせぇ、兄貴ィ!」
と歓声をあげ、男を囃し立てた。
「てめぇか、俺の可愛い舎弟たちをひでぇ目に合わせたのは。」
男は肩に担いだ刀を抜き、その切っ先を一鬼に向けた。
「お前さんがこいつらの兄貴分って訳か。それならこちらも遠慮なくやらせて頂くよ。」
一藍もすかさず抜刀しようと西洋杖の持ち手に手をかけた。
しかし、
「待ってください。その喧嘩、僕が買います。」
突然群衆の中から、腰に刀を差した妖の少女が躍り出て、一鬼と男の間に割って入った。
「お前さん、大丈夫かい? 相手は六尺五寸(※四十三)もある大男だぞ?」
「大丈夫です。ここは私に任せてください。」
「えぇ......。ん? まあ大丈夫か。だったらここはお前さんに譲るよ。」
どうやら狐雪の表情から気概を感じ取ったらしく、一藍は大人しく引き下がった。
「なんだ小娘、俺の喧嘩を買おうってのか。」
「はい、僕は店の中だということを気にしてあの人たちの横暴を止めることができなかった。だから、せめて僕を助けてくれたこの方の役に立ちたい。このまま指をくわえて黙って見ているのは嫌だ。だから僕は、貴方に勝つ!」
「巫山戯んじゃねえ!」
男は狐雪の脳天めがけて刀を振り下ろす。
狐雪はそれをサッと躱すと、自らの愛刀・雪血華を抜刀し、男に居合斬りを喰らわせた。
「ぐはぁっ!」
男は途端に身動きが取れなくなり、刀を腕から落としてその場に倒れこんだ。
雪血華という刀の特性上、男は死んでおらず、硬直した状態で息を荒くしていた。
その様子を見下ろしながら、狐雪は呼吸を乱すことなく刀を鞘に収めた。
「ま、まさか兄貴までやられるなんて......。」
「しかもあんな小娘に......。」
「ち、畜生! 覚えていやがれ!」
破落戸たちはお決まりの捨て台詞を言い残し、動けなくなった兄貴分を三人で担いでスタコラサッサと逃げて行った。
男たちがいた場所には、彼らの物と思われる財布が落ちていた。
すると、周りの群衆たちが歓声を上げた。
「すげぇぜ姉ちゃんたち、まさかあんな荒くれ者たちを殺さねぇでやっつけちまうなんて!」
「あんたたち、見かけによらず強いのねぇ。」
「いやぁ、まさかこんな結果になるとはなぁ。喧嘩って何が起こるかわからねぇもんだな。」
という声が周りから聞こえてきた。
「あの、これお礼です。助けてくれてありがとうございました。」
群衆の中から出てきたあかりが、狐雪と一藍に簪を一つずつ差し出した。
「コンッ、礼には及ばん。私は大したことはしていないのだからな。」
「コンッ。どっ……どうもありがとうございます。」
二人は照れ臭そうにしながら、その簪を受け取った。
「それよりあかりちゃん、蹴られた所は大丈夫ですか。」
「はい、大分痛みも引いてきましたし、もう大丈夫みたいです。」
「そうですか、良かったですね!」
「はい!」
あかりは元気そうに返事をすると、店の中へと戻って行った。
あかりが店に戻ったのを見計らって、一藍は群衆の中にいた霊璽郎の元へと駆け寄った。
「突然だが、これはお前さんにあげよう。」
そして、一藍は霊璽郎に先程もらった簪を差し出した。
「え? いいんですか。せっかくもらったものですのに。」
「いいんだ、私には必要のないものだから。それに、お前さんの方が似合いそうだ。」
「そ、そうですか。ありがとうございます。」
霊璽郎は戸惑いながら、一藍から簪を受け取った。
すると、先程店の入り口で控えていた覆面をした忍者のような人物がいきなり姿を現した。
「うわっ! 今この人いきなりっ!」
今まで気配がなかったところにいきなり現れたため、霊璽郎は腰を抜かしてしまった。
「ん? なんでござるかそこの人間は? 拙者を見るなり腰を抜かしおって。」
「だ、だって気配がないところにいきなり……。」
「あ、ああ。こいつは私の従者で四ッ針 黒羽というんだ。烏天狗の妖人で、普段は私の護衛を務めている。」
一藍は覆面の男、黒羽を霊璽郎に紹介した。
「そ、そうなんですか...。初めまして。」
「......。」
しかし黒羽は霊璽郎を無言で一瞥しただけで、すぐに一藍の方へ向き直った。
なんだコイツ、感じ悪い奴だな、と思う霊璽郎であった。
「それより一藍殿、あまり外で騒ぎに頭を突っ込むのは控えて頂きたいでござる。何のために拙者を連れ立っているのかわかっておられるのでござるか。もしこんなところで警察にしょっ引かれれば......。」
「わかっている、だから私だって命までは奪わなかったんだ。もし警察の目を気にする必要がなければ、今頃あいつらは地獄行きの陸蒸気(※四十四)に乗っていることだろうさ(笑)。それに文明開化の世といえど、幕末の頃と変わらず東京ではこの程度の喧嘩は日常茶飯事、警察だっていちいちこの程度の喧嘩で当事者をしょっ引いていればキリが無いってもんだ。その証拠に警察が来る様子もないしな。」
(いや、この程度って……思いっきり真剣抜いてましたよねあんたら!? それにこれが日常茶飯事ってどういうこと!? マジでこの時代の警察何やってんだよ!? いい加減仕事しろよ!?)
現代人の感覚ではその発言はツッ込みどころ満載で、霊璽郎は心の中でツッ込まずにはいられなかった。
「それよりも......。」
黒羽の話を遮り、一藍は群衆の中にいた華燐に責めるような目線を向けた。
「ちょっとそこの化け猫の妖人さん。自分の店の中で起きた騒動くらい自分で始末をつけたらどうだい。」
それに気づいた華燐は気まずそうにこちらへ来ると、
「ニャ、ニャハハ......。まさかこんなところで昔の仲間に助けられるなんて思っていなかったからさぁ......。」
とバツが悪そうに言った。
この二人は知り合いなのだろうか。
そんなことを霊璽郎が思っていると、二人は何やら言い合いを始めてしまった。
「全く、そんなことではいつこの店が潰れてもおかしくないぞ。お前だって私と同じで、幕末の頃は幕府の連中から恐れられていた妖人だろ。あんな破落戸如きに何もできないなんて落ちぶれたもんだね。妖四天王の紅一点、『紅蓮の怪猫』さんよぉ。」
「私は貴方みたいな戦闘狂ではないし、店だってこの通り繁盛しています。それに幕末の頃は貴方の方がよっぽど恐れられてたじゃないの。『紫黒の化け狐』さん。」
「心外だな。私はまだ、戦線の最前線に立って幕府の兵士共を血祭りに上げていた何処ぞの狼よりはマシな方だぞ。あの頃の私は敵陣に潜り込んで内部から敵を潰すのが主な仕事だったからな。それに繁盛してるって言ってもそんな牛鍋屋程度じゃ、武器商人である私の稼ぎには到底及ばないじゃないか。まあお前と私では必要な金の量が違うんだろうけどさ。」
「ニャッ、なんかそんなこと貴方に言われるとムカついてくるんですけど。」
「事実じゃないか。お前は今の暮らしぶりに満足している。だからこの程度の金で十分だ。だけど私の悲願を叶えるためにはそれ相応の大金が必要なんだ。そうでなければ維新志士だった頃に幕府の御用商人(※四十五)共を襲って荒稼ぎした金を元手に、この世で一番儲かる商人である『死の商人』(※四十六)になったりはしないさ。」
霊璽郎は言い合っている二人の仲裁に入った。
「まあまあ二人とも落ちついてください。というか、お二人は知り合いなんですか。」
華燐と一藍は言い争いを止めると、
「まぁ、幕末時代の仲間ってところかな。お互いあの時は維新志士として活躍していたの。」
「私とこいつと後二体いるんだよな。幕末、戊辰戦争の頃に修羅の如き強さと冷徹さで幕府軍の連中から恐れられた妖四天王と呼ばれた妖が。」
と言った。
「妖四天王?」
霊璽郎が聞いたことのない言葉に首をかしげる。
「あ、ああ。ちょっと口が滑っただけだ。別に気にしなくていい。」
「え、えぇ。気になりますよ。なんなんですか妖四天王って…。」
そこまで言って、一藍と華燐の様子がおかしいことに気づく。
「…………。」
「…………。」
二人は俯いて押し黙ったまま、不穏な空気を漂わせていた。
「え? ちょっとどうしたんですか!? 急に押し黙っちゃって!?」
霊璽郎は戸惑いを隠せなかった。
そして口を開けたかと思うと、
「ねぇ、霊華ちゃん。これだけは忠告しておくわ。世の中触れていい事と悪い事があるのよ。」
「悪い事は言わない、この手の話に首を突っ込む事は絶対にするな。さもないと、いずれ取り返しのつかない事になるぞ。」
と、目元を暗くした状態で警告するように言い放った。
どうやらそれ以上は聞くなという事らしい。
「ひっ。」
霊璽郎はその様子になんとも言えないような恐ろしさを感じ、思わず悲鳴をあげてしまった。
それを見た二人は、
「あ、ごめんね。別に驚かせるつもりはなかったの。大丈夫?」
「驚かせてすまない。だが忠告は素直に聞き入れたほうがいいよ。」
つい霊璽郎を驚かせてしまった事を詫びた。
「いえいえ、俺も失礼なこと聞いてすみませんでした。」
(なんか、さっきの二人の会話とかどうも気になるんだよなぁ…。)
霊璽郎は釈然としない顔をしながら謝った。
「さて、それじゃあ気を取り直して牛鍋でも食べに行くとしよう。」
そう言って一藍は店内へと足を進めていった。
「では、拙者は馬車で待たせて頂くでござる。貴殿らが乗ったらいつでも出発いたすので。」
そう言って黒羽は奥に停めてある馬車の御者席に飛び乗った。
「あ、じゃあ私もご一緒させていただきまーす。」
「まだ食う気かよお前!?」
さも当然のように一藍に付いて行こうとする狐雪に霊璽郎は思いっきり突っ込まざるを得なかった。
「ん? お前さんは来ないのかい?」
一藍が霊璽郎に問いかけた。
「え、ええ。もう食べましたので。」
そう言って断ろうとするが、
「まぁ酒の一杯くらいは付き合いなさいな。今回は奢ってやるからさ。」
「そ、そんなのいくらなんでも悪いですよ。それに俺未成年ですし。」
奢ると言って無理やり自分の手を引っ張っていく一藍に、霊璽郎は申し訳なさそうに言った。
「未成年? 言っている意味が分かりかねるのだが。」
一藍はきょとんと首をかしげていた。
霊璽郎はそこでしまったと思った。
(あ、この時代って確か未成年者飲酒禁止法とかないんだっけ…。現に狐雪も普通にさっきの不良たち程ではないけど酒飲んでたような……。)
「まあいいや。それに私だってお前さん方と話したいことがあるしね。」
そう言って一藍は霊璽郎の手を引っ張り、店内へと入っていった。
(※二十九):戊辰戦争(1868〜69)の一局面。佐幕派の中心であった会津藩(現在の福島県会津盆地一帯を治めていた藩)が、土佐藩を中心とした官軍の部隊により鶴ヶ城を攻め落とされ敗北。白虎隊の悲劇で有名。
(※三十):上の口が細くすぼまっている、陶器製の瓶。酒などを入れる。
(※三十一):板垣退助(1837〜1919)。土佐出身。会津戦争で官軍の将校として活躍し、維新後は参議となる。しかし、征韓論争に敗れて下野し、明治七(1874)年に民撰議院設立建白書を提出し、自由民権運動を指導した。明治十四(1881)年、自由党を結成。その後、第二次伊藤博文(1841〜1909)内閣・第一次大隈重信(1838〜1922)内閣で内務大臣を務める。
(※三十二):後の内務大臣、当時は広範囲に大きな権限を持っていた太政官制に置ける事実上の首相。
(※三十三):(※十一)佐賀の乱を参照。
(※三十四):心がねじけて、策謀にも長けた悪党。
(※三十五):フランス革命(1789〜99)のこと。絶対王政に反対するパリの市民がバスティーユ牢獄を襲撃したことがきっかけで始まった革命。1792年に王政を廃止して共和制を確立し、翌年国王ルイ十六世(在位:1774〜92)と王妃マリー・アントワネット(1755〜93)をギロチンに掛け処刑。その後、マクシミリアン・ド・ロベスピエール(1758〜94)らジャコバン派の恐怖政治やテルミドール反動(1794)などを経て、ナポレオン・ボナパルト一世(1769〜1821)の権力掌握により終結。
(※三十六):明治以降に政府の要職を独占していた薩長出身者のこと。
(※三十七):国家の統治権を君主または少数の者だけが握り、その者たちの独断で政治を行う政府のこと。独裁との違いは、支配者と被支配者の身分が隔絶されているか否かということ。
(※三十八):渋めの濃い紫。濃紫。
(※三十九):ワイシャツの古い名前。
(※四十):スラックスの和名。
(※四十一):太極図のこと。
(※四十二):約195cm。
(※四十三):青味を帯びた紫。ちなみに赤味を帯びた紫は京紫という。
(※四十四):蒸気機関車のこと。
(※四十五):江戸時代に幕府や諸藩の庇護のもとに、各種の御用及びそれに関連する物資等の調達に携わる代わりに、様々な特権が与えられた商人。蔵元(大坂などにおかれた蔵屋敷に出入りし,蔵物の出納をつかさどった商人)・掛屋(幕府や諸藩の蔵屋敷に出入りして,蔵物の処理や代金の出納に当たり,また金銭の融通や両替をした商人)・札差(旗本・御家人といった直参(将軍直属の家臣)の俸禄米(給料となる米)の受領から換金に至る一切の手続きの請負を業務とした,浅草蔵前在住の商人で、本業よりもむしろ旗本・御家人を対象とする高利の金融によって巨利を得た)などがいる。
(※四十六):武器を売りつけて莫大な利益を得る商人。