序
時代背景の都合上、わからない単語が多いと思われるので、わからない単語は最後の方の注釈を参照してください。
時は幕末、癸丑(※一)以来異人の進出により国中が混迷を極めた動乱の時代。
この時代、人間だけではなく妖怪や妖人と呼ばれた異形の妖達も幕末の動乱に巻き込まれることになった。
妖達が幕末の動乱に巻き込まれることになった経緯は、妖の強大な力に目をつけた岩倉 具視(※二)ら倒幕派の公家(※三)達が、薩摩(鹿児島)の西郷 吉之助(※四)・大久保 一蔵(※五)らや長州(山口)の桂 小五郎(※六)らに、幕府に先駆けて妖による特殊部隊を組織するよう命じたことから始まる。
当時薩長は英国からの支援を受けながら武力倒幕の計画を進めていたこともあり、これ以上英国に依存し続けるといずれ付け込まれて植民地にされるかもしれないという危惧の声もあったため、岩倉たちの提案を受け入れることにした。
これを受け、薩長を中心とする西南雄藩からなる新政府が、物量や兵の数で勝る旧幕府勢力打倒のために、とある霊能力者を通じて妖怪・妖人関係なく妖と呼ばれる異形の者たちを寄せ集めて結成したのが『妖士隊』であった。
こうして作られた妖士隊は鳥羽・伏見(※七)より箱館(※八)に至るまで続く戊辰戦争にて、訓練された妖部隊の編成に遅れをとった幕府軍を打ち負かし、官軍を勝利へと導いたのであった。
薩長軍の妖の中でも特に活躍したのが、それぞれ『蒼銀の狂狼』・『紫黒の化け狐』・『紅蓮の怪猫』・『灰白の二角獣』という異名を持っていた四体の妖からなる「妖四天王」であった。
彼らは妖人でありながら純血の妖怪を凌駕するほどの強大な力を常時振るい、修羅の如き強さと冷徹さで幕府軍の一般兵士のみならず妖兵士からも恐れられた伝説の妖であり、妖士隊の首領格として部隊を率いて様々な戦線で活躍した。
しかし戊辰戦争終結後、妖士隊はその存在が自分達の正当性を揺るがすのではないかと危惧した明治新政府により妖四天王の伝説を残したまま闇へと葬られ、以降歴史の表舞台へ登場することはなかった。
そんな倒幕・維新から10年の月日が経ち、時は明治十一(1878)年。この国は薩長藩閥政府の主導の元、西洋諸国を手本に近代化・西洋化が推し進められていた。
文明開化によりかつて侍達が闊歩していた街には今ではレンガ造りの洋館や瓦斯燈が建ち並び、髷姿の侍の代わりに高帽子やゲエロック(※九)、領帯、ドレスといった煌びやかな洋装に身を包んだ人々が街を闊歩するようになった。
その一方で、廃刀令(※十)や秩禄処分(※十一)などで侍は刀と生活の糧を奪われ、更には治安維持と思想の近代化を名目に妖追討令が制定されるなど、新政府が前近代的と見なした物は徹底的に排除されていった。
だがそれは、戊辰の戦で己を支えてくれた侍と妖を裏切り敵に回すという行為であった。
そのため、維新政府の自分たちへの裏切りとも取れる政策に憤った不平士族達は佐賀の乱(※十二)・神風連の乱(※十三)・秋月の乱(※十四)・萩の乱(※十五)・西南の役(※十六)と相次いで政府に蜂起した。
しかし、最大規模の反乱だった西南の役では苦戦を強いられたものの、最新式の銃や大砲、回転式機関砲(※十七)といった近代兵器で戦う政府軍が刀槍や旧式の銃で戦う彼らに負ける訳がなく、西南の役を最後に士族反乱はぱったりと起こらなくなった。
ようやく侍連中を黙らせて一安心していた藩閥政府だったが、まさか今度は自ら良かれと考えて定めた妖追討令が己に仇なし、この国を再び動乱の時代に逆戻りさせることになろうとはまだ誰も思ってはいなかった。
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※所変わって、ここは現代。
俺の名前は博玉 霊璽郎。
とある大学に通う、容姿以外はごく普通の男子大学生だ。
ん? 容姿が普通じゃないってどういうことだって?
どうやら俺は世間一般で言う『男の娘』ってやつらしい。
髪が長く女顔で小柄で瘦せ型、それに中性的な声のせいでみんなからは女子だとよく勘違いされ、中には何度も説明しないと正しい性別をわかってくれない場合だって普通にある。
親や妹(こっちは俺とは真逆で男っぽい)さえ俺の性別を忘れる事がしょっちゅうある。
そんな悩みを抱えていること以外は、俺は何もかもが普通の平凡な大学生一年生だ。
そして俺は今ピンチに陥っている。
とある講義を遅刻でサボりすぎて単位を落としそうになっているのである。
俺が今必死に走っているのは、それが遅刻厳禁な講義のため遅刻したらその時点でアウトだからだ。
そして先週、次遅刻すれば単位が出ないという最後通告を教授から突きつけられてしまった。
全く、これだから朝一の講義は……。
俺は朝が苦手だから、どうしても朝は寝坊してしまう。
クソッ、あの融通が利かない堅物教授め、マジでくたばればいいのに……。
そんなことを考えながら階段を降りていると、
「あっ……。」
階段を踏み外してしまった。
しかも結構な高さの場所で。
あっ、これ絶対死んだわ……。
あーあ、短い人生だったな、正直大学生ならもっといろんなことをしてみたかったけどもうそれも叶わないや……。
父さん、母さん、今まで育ててくれてありがとう……。
そして我が妹、美霊よ、兄さんは死んだじいさんばあさんのところに行ってくるよ……父さん母さんのことをよろしくな。
俺は自らの死を悟り、スッと意識を手放した。
(※一):黒船来航(1853年)。
(※二):京都出身の公家、政治家(1825〜83)。初めは公武合体派だったが後に倒幕に転換し、王政復古に尽力。維新後右大臣となり、岩倉使節団を率いて欧米視察。帰国後内治優先を主張し征韓論を退ける。
(※三):帝(天皇)に仕える貴族。
(※四):維新三傑、西郷 隆盛(1828〜77)の旧名。薩摩出身。島津 斉彬(1809〜58)に見出され、国事に奔走。長州藩と薩長同盟を結び、倒幕を成し遂げる。戊辰戦争では大総督府参謀として官軍を率いて江戸へ進軍、勝 海舟(1823〜99)の説得に応じて江戸城を無血開城。維新後、征韓論を唱えるも政争に敗れて鹿児島へ帰郷、後に鹿児島士族らに担ぎ上げられ西南戦争を起こすも敗戦直前に城山で自刃。
(※五):維新三傑、大久保 利通(1830〜78)の旧名。薩摩出身。岩倉 具視らと共に倒幕運動、王政復古に尽力。維新後、版籍奉還や廃藩置県を推し進め、岩倉使節団に参加。征韓派が下野すると、内務卿として強大な権力を握り、殖産興業政策や地租改正など様々な近代化政策を断行し、不平士族の反乱を、軍を派遣して次々と鎮圧するが、1878年に石川県士族島田 一郎(1848〜78)らに東京・紀尾井坂で暗殺される。
(※六):維新三傑、木戸 孝允(1833〜77)の旧名。長州出身。吉田松陰(1830〜59)の教えを受け、尊王攘夷・倒幕派の志士として活躍。薩摩藩と薩長同盟を結び、倒幕を成し遂げた後、維新政府の参議として五箇条の御誓文作成の起草に参画し、版籍奉還や廃藩置県で中央集権化を断行、岩倉使節団にも参加。征韓論や台湾出兵に反対し、西南戦争の最中に京都で病没。「逃げの小五郎」の異名を持つ。
(※七):鳥羽伏見の戦い。慶応四(1868)年一月、京都の鳥羽伏見で起こった新政府軍と旧幕府軍の戦い。この戦いで錦の御旗が使われ、薩長は名実ともに官軍となった。
(※八):箱館戦争。明治元(1868)年十月、幕府海軍副総裁榎本 武揚(1836〜1908)や元新撰組副長土方 歳三(1835〜69)らが箱館の五稜郭を占拠して蝦夷共和国という政権を樹立し、明治二年(1869)五月まで官軍に抵抗した戦い。
(※九):フロックコート。男子の礼装。
(※十):明治九(1876)年三月布告。や軍人以外の帯刀を禁止した法律。侍の魂と言える刀を士族から奪うものであったため、これに反発する士族は多かった。
(※十一):明治九(1876)年八月の金禄公債証書発行条例により行われた政策。簡単に言えば士族が政府からもらっていた給料が突然打ち切られたこと。これにより生活の糧を失う士族が多かった。
(※十二):征韓論争に敗れた、元司法卿(今でいう法務大臣)の江藤 新平(1834〜74)や元秋田県権令(今でいう秋田県知事)の島 義勇(1822〜74)らが、明治七(1874)年二月に彼らの故郷である佐賀で起こした最初の士族反乱で、すぐに政府軍に鎮圧された。江藤は鹿児島の西郷 隆盛の元に匿ってもらおうとするが拒否され、その後上京途中に高知県で逮捕され、同じく逮捕されていた島と共に斬罪・梟首(晒し首)に処された。
(※十三):熊本県の神官大田黒 伴雄(1835〜76)が、敬神党を率いて明治九(1876)年十月に起こした士族反乱。すぐに政府軍に鎮圧され、大田黒は自刃。
(※十四):福岡県の士族宮崎 車之助(1839〜76)らが、明治九(1876)年十月に起こした士族反乱。すぐに政府軍に鎮圧され、宮崎は自刃。
(※十五):徴兵制の是非を巡って木戸 孝允らと対立し、政府を追われた長州出身の前原 一誠(1834〜76)が、故郷の山口県で明治九(1876)年十月に起こした士族反乱。すぐに政府軍に鎮圧され、前原は処刑された。
(※十六):明治十(1877)年に西郷 隆盛を担ぎ上げた鹿児島士族たちが起こした最大にして最後の士族反乱、所謂西南戦争の事。鹿児島士族たちは得意の斬り込み戦法により、熊本県田原坂などで政府軍を苦しめるも、装備などの点で政府軍に押し負け、最後は城山で西郷が自刃したことで幕を閉じた。
(※十七):幕末三大兵器の一つで、アメリカの発明家リチャード・J・ガトリング(1818〜1903)が1861年に発明した回転式機関銃。ハンドルを回しながら、給弾・装填・発射・排莢のサイクルを繰り返して何百発もの弾丸を連続的に発射する。北越戦争(戊辰戦争の一局面)にて長岡藩(現在の新潟県中部辺りを治めていた藩)の家老河井 継之助(1827〜68)が自ら操縦し、官軍の大きな脅威となった。