湯煙が隠してくれますように
いつ、どこであっても、手軽にインターネットへ飛び込むことが出来るようになったこの時代。デスクの上に置かれたカレンダーが駆逐されていないのは何故だろう。側には青い光を放つパソコンのディスプレイ。加えて筐体の中から低く伝わる不気味な、しかしいつだって忘れられてしまうファンの駆動音。それらに挟まれ、プラスチックの頼りない腕に支えられた紙の束は窮屈そうだった。
手を置くマウスを少し動かして、あとは人差し指に力を込めてさえやれば、目の前の電子画面にはすぐに同じような数字の羅列が見られる。そうでなくとも今のご時世、時間と用事を管理する方法にカレンダーをわざわざ選ぶことはない。望まなくても十分な性能のソフトが、望めばもっと便利で使いやすいツールが手に入る。
それでも卓上カレンダーというものが今でも使われるのは、つまり通常のカレンダーとしての機能以外の役割が求められたからだろう。ふとした気晴らしや、万が一の保険など。
私の場合はそのどちらでもなかった。僅かなストレス解消のためでもなければ、仕事のためでもない。もっと別の、そんな建設的ではない理由のために。
狭い隙間から台を掴んで抜き取る。四月から始まって三月に終わる月めくりカレンダー。罫線があることからおそらくは、年度ごとに区切りをつける職業の人間をメインターゲットとして売られていたもの。あまりそれらしい使い方はしなかったけれど、しかし珍しくないよくある品だ。多少デザインに差があっても誰も気にしないような品。きっと多くの人が同じものを持っている。
残り四枚となったそれを、一枚めくった。切り取るにはまだ早い。ただ私は一月の第二月曜日が見たかった。インクが描く画一的で武骨な数字。その下には単語がいくつか綴られている。
妹、誕生日、成人式。たったの三つだ。それらは文章ではなかったけれど、紛れもない私の文字だった。よく見ると少し掠れている。書いた場所が悪かったか、それとも道具が悪かったか。今となっては思い出せない。書いたのは随分前のことで、それこそこのカレンダーを買ったときだったから。
私には歳の離れた妹がいる。綺麗で気立てのよい、姉の私などよりもよほどできた妹だった。独り立ちしてしてから会う機会は減ったけれど、父や母と同じく大切な、そう、大切な――家族だ。
彼女が二十歳になる日と、この年の成人式の日取りは同じだった。偶然であることは言うまでもない。ロマンチックな言い方をすれば運命のいたずらというべきだろうけれど、結局のところ確率の低い方をたまたま妹が引いたという、それだけのこと。わざわざそんな仰々しい言い方をする必要もない。
しかし私にとっては、それだけなどと軽く扱うことはできないことだった。
二十歳になるということは大人になるということだ。どこまでが大人かなんて今の私にも分からないけれど、一つの区切りではある。もう子供ではいられなくなるのだ。自分の感情を持て余し暴れ回るような、そんな子供ではいられない。なにより私は、あの子の姉なのだ。だからこの思いを捨てなければいけない。
姉だから、妹よりも早く大人になった。だから私は大人らしく、自制しなければいけない。自分の感情を抑えられないのは子供で、子供ではいられないから大人なのだから。あれをしたい、これをしたいというのは大人がやってはいけないことなのだ。余計な感情は抑え込んで、捨てることができるのが大人だ。
だから私はこの日、初恋を諦める。そうしなければならない、絶対に。
成人式のある日に温泉に行こうと誘ったのは妹だった。もっともらしい理由などいくらでもあっただろうに、それでも私は断ることが出来なかった。最後の思い出には悪くないかもしれないと、そんな甘いことを考えてしまって。
買ったばかりの厚いコートに袖を通し、未だ住み慣れない部屋を出て、駅に向かう。荷物はそれなりの大きさをした鞄が一つ。成人の日の前日から、一泊二日の短い旅だ。使うかどうか分からないような物をたくさん持ち歩く趣味もない。
「おはよう、お姉ちゃん」
駅に近づけば妹が待っていた。洒落た雰囲気の彼女は随分と綺麗で、もうむやみに可愛いと持てはやすような年齢ではないのだと感じた。久し振りに会うことを喜ぶ彼女と言葉を交わしながら改札を過ぎ、電車に乗り込む。
時刻は朝を指していたが、中は閑散として席に座る人はまばらだった。通勤ラッシュの時間は過ぎているのだから当然だ。所詮どこにでもある地方都市のひとつでしかないこの町ではラッシュといってもたかが知れているが、旅行に行くのにわざわざその時間帯に利用する必要はない。今回の行先は県外だったが地方を跨ぐほどではなく、しかも妹は観光より温泉を楽しみたいとのことで、なおさら急ぐ理由はなかった。
いくつかの駅を通りすぎて、目当ての場所で降りる。適当な店に入って早めの昼食を済ませた後はバスに乗り換えて山道を登っていく。一時間に一本か二本しか走らないバスに他の乗客はいなかった。妹と二人きり、暖房がきいているのかいないのか分からない箱の中で揺れる。
「……良かったの?」
「うん、何が」
「成人式に出なくて。友達に祝ってもらった方が、楽しかったんじゃない」
近況を報告し、他愛のない話に花を咲かせて、残ったのはそんな問いかけだった。普通は懐かしい友人と顔を合わせて、私としていたような会話をするのではないか。人によっては人生初めてのアルコールに挑戦して、これのどこが美味しいのか首を傾げる。きっと成人の日とは、そんな風に充実した一日を過ごすものだろう。私たちの両親もおそらくは、彼女の晴れ着姿を楽しみにしていたはずだ。
思わずといった風に妹は口を閉じた。なんというべきだろう、と悩んでいるようにも見える。暫く考えた後、彼女はこういった。
「どうせなら、記憶に残る方がいいでしょ。それにほら、みんな同じことばっかりしてるんだし、あたし一人くらい好きにしても問題ないよ」
だったら、家族旅行でも良かったんじゃない。口をついて出そうになった言葉を、無理やり飲み込む。このくらいの我儘なら、父も母も多少渋りはするだろうが許す。記憶に残る方がというならば、二人だけの姉妹旅行にする必要なんてないだろう。
どうして妹は、私と旅行に行こうだなんて誘ったのか。
そう、といらえを返して私は話題を変えた。これから行く温泉はどういう効能があるの、などそれらしいことを聞いて。彼女が私を誘った理由を考えるのは頭の隅に追いやった。私だって悪い言い方をすれば、いや、そんなことをせずとも下心で承諾したも同然だ。問い詰める権利は最初から持ち合わせていない。
そもそも、私にとってもこれは大事な旅行なのだ。彼女との最後の思い出になると考えれば、余計なことは気にせず楽しみたい。
とはいえ簡単に割り切ることが出来れば、既に最後は迎えた後のはず。そうそう悩みや嫌な考えを振り払うことなど不可能で、結局妹と話しながら心の中ではぐるぐると益体もないことを思考し続けた。バス停に降りてもそのままで、この状態で妹と会話していたのが不思議なほどだった。
ちらりと肩にかけた鞄を覗く。必要最低限の荷物が、きちんと整理されて入っている鞄。私の心の内も、このようであればいいのにと、詮無いことを考えてしまう。
古びたアスファルトの道を二人で歩く。観光客を目当てにした食事処や土産物屋が並ぶ坂道。思っていた以上に人は多く、少し面食らう。案外私たちのような人間は少なくないのかもしれない。ただの姉妹旅行に見えることを願った。
年季の入った看板が見えなくなる頃に、目指していた温泉宿が見えてくる。いかにも旅館といった風情だけれど、古臭いわけではないのが好印象だった。ロビーで鍵を受け取り、部屋に荷物を運びこむ。夕食はいつ頃かという問いに適当な時間を答えて、私は一息ついた。
宿泊する部屋は想像よりも随分良かった。畳の敷かれた空間に、年季の入った机と座椅子、それにベランダに繋がる襖。どこにでもある配置だったけれど、安っぽさはなく落ち着いた雰囲気が醸し出されている。節目の日に訪れるのには悪くない。
腕時計を見れば昼が過ぎたて少し経った頃。特にやることもなく、湯呑にお茶を注いで座椅子に座る。実を言うとお金は出すからといって温泉宿選びは妹に任せていた。話し合いの末お金は折半となってしまったけれど、正直この辺りの観光名所だとかは分からない。今回は妹の誕生日でもあるわけだから、基本的にすべて彼女に従うつもりだった。
「お姉ちゃん、一緒に温泉入ろう」
「……大浴場ってこんな時間から開いてた?」
「ううん、この部屋って貸し切り温泉がついてるの。だからいつでも入れるよ」
やはり、かなり良い部屋だったらしい。そんなに大金を出した覚えはなかったのだけれど。妹の手際の良さに舌を巻く。
温泉に入ることに否やはない。新年も始まってそれほど過ぎたわけではないが、貯まった疲れを癒すと思えば、むしろ入りたいといっても良かった。問題は妹と一緒にということだ。大浴場であればまだしも、貸し切りの個室となれば躊躇する。今までは上手く隠し通せていたけれど、次もどうにかなるだなんて楽観視は出来ない。
彼女にだけは気づかれたくないのだ。私が持っている、この薄汚い思いに。
「……先に入りなよ。私は後でいいから」
「えー、良いじゃんそのくらい。姉妹なんだしさ」
小さな針を身体に刺したような痛みが走った。姉妹。そうだ、私たちは姉妹なんだ。世界がひっくり返ったところでそれは変わらない。私と彼女はどうやったって姉妹だ。
姉妹なら共に温泉に入ろうがなにも不思議はない。なにかの間違いだって起こらない。
「仕方ないなあ」
なんでもない風を装って、彼女からタオルを受け取った。心の痛みが増すけれど、それは我慢しなければいけない。これは自分で自分を刺しているだけなのだ。そんなことをしておいて、痛いと泣き喚くわけにもいかない。自分勝手なエゴが生み出したものの清算をしているだけ。ただの自業自得。
やはり私は、この恋情を諦めなければならない。改めてそう、思った。
源泉かけ流しを謳う温泉は、なんの感慨もなくただ熱いだけだった。今は一月だから外は寒かったが、それでも良いものだとは思えなかった。風呂には檜が使われているようだったけれど、上品で薫り高いそれにも感じるものはない。普段であれば、あるいは家族で訪れていれば、素直に楽しむこともできただろうが。
隣で一緒に湯船に浸かる妹を覗き見る。彼女の顔は緩んでいて、いかにも気持ちよさそうだった。羨ましいとは、感じない。そう簡単に温泉を満喫できるとは最初から考えていなかった。彼女への恋心を秘め続けるのであれば当然であったし、これを捨てようとしているのだからより一層。それはそれ、これはこれ、と器用に切り替えることが自分には出来ないことは、よく分かっている。
濁った湯に浮かぶ健康的な肢体。湯煙に紛れているはずなのに、真っ白なタオルとのコントラストが目から離れない。濡れて照明に照らされるそれはやわらかそうで、それに触れたいと。
ざばり、と湯が流れ出る音。私が立ち上がるのと同時に起きたそれは、まるで溢れた自分の感情を見ているようだった。自己嫌悪で歪んだ顔を見られないように、妹から目をそらす。諦めると決めて、それでこれか。とっくに成人式など終えたというのに、なんて幼稚なことだろう。つくづく自分が嫌になる。
そうだ。結局のところ、私は彼女を諦めきれないでいる。生まれて初めて抱いて、今までずっと抑え込んできた恋心を、捨てたくないと思っている。なんて身勝手だろう。最初から間違っているのなら、早々にゴミ箱にでも押し込めば良かったものを。家族という狭い関係性に付け込んで、彼女の優しさに甘えるなんて。
彼女は明日、二十歳になる。それを丁度良い機会だという考え自体が、そもそもの間違いではないか。これが未練でなくて何なんだ。ひたすらそれが憎くて仕方なかった。
「あっ、お姉ちゃん、あたしが背中流してあげよっか」
小さい頃よくしてくれたでしょう、なんて続ける妹を振り返ろうともせず、首を横に振って私は答える。
「いいよ、別に」
「折角だし、たまにはさ……」
「そういうことをする歳でもないでしょう……もう大人なんだから」
「……はーい」
大人なんだから。それは一体、誰に向けた言葉だったんだろう。妹が軽い了承を返してくれたことだけが救いだった。
大人ではなく、子供であれば。まだ自分の感情につける名前すら知らない頃だったなら、それだって良かっただろう。でも私は知ってしまったのだ。先生のつまらない講義の最中に、休憩時間の尽きない会話に紛れて、あるいは社会が押し付ける常識というもので。顔を赤くしながらむず痒そうに話す少女。普通の何たるかを教えたがる大人たち。
自分の内側が何で出来ていて、そしていかに醜く卑劣であるか。それを自覚してしまえば、もう元には戻れなかった。私が姉であるために。
よりにもよって血の繋がった相手とは、恋とはなんて残酷なのだろう。そうなるべきではなかった相手にさえこんな熱情を持たせて、苦しませる。こんなにもつらいのであれば、恋などという感情は欲しくなかった。ただ一人の姉として妹のことを愛してあげたかった。どす黒く汚れたものを胸に抱えて、彼女の前を歩きたくなかった。
「お先に」
彼女の返答は、湯船に流れ込む温泉の音にかき消えて、何も聞こえなかった。
なんでもない風を装い歓談に興じる。優しい姉として振舞って、薄汚い感情に蓋をした。持ってはいけなかった思いを殺し続けながら美味しい料理に舌鼓を打ち、机が下げられ布団が敷かれるのを待つ。
それらは耐え難い苦しみだった。しかしそうしなければならない。こんな思いを抱くのは今日で最後にするのだから。そうである以上、ぼろを出すことは許されない。彼女の記憶に残るのは愛する家族の姿だ。断じて、自分の妹に恋をした女の姿にするわけにはいかない。
今日でこの初恋ともお別れするのだ。馬鹿みたいに時間がかかってしまったけれど。
終わりの瞬間はひどく呆気ない。ただ一言、おやすみ。それだけ告げればもうおしまいなんだと分かる。分かってしまう。相手の安眠を願う身近な言葉が、この時ばかりは欲しくなかった。ぱちんと憎らしいほど小気味よい音がして、部屋は暗闇に包まれる。小さな灯火もなく、閉められた襖の隙間から月明りが差し込むこともない。ベランダのカーテンは閉めている。真っ暗闇でないと妹は眠れないのだ。そんなことは二十年近く前から知っている。
このまま瞼を閉じればすぐに明日がくるだろう。明日となればこの旅行は終わりだ。ここに来たときと同じくバスと電車に揺られて家に帰り、それぞれ家路に就く。この思いを隠したまま妹と旅行をすることは、もうない。
これが最後なのだ。今このときが、最後の片思い。
知らず知らずのうちに手に力が入る。浴衣の襟が握り潰される。丁度そこは心臓の上の辺りで、ああ私は胸が苦しいんだとようやく気がついた。締めつけられるような痛みは覚えのあるもの。嗚咽と一緒に、一人で幾度となく身体の内で殺し続けたものだった。間違っても外に出ないよう、何度も、何度も。
枕の上で頭を動かす。暗くて妹のことはよく見えなかった。どこを向いているのか、眠っているのか。手を伸ばせば届くはずなのに、その僅かな距離が遠くて仕方ない。昔みたいに彼女に触れたかった。絹糸のような髪を指で梳き頬を撫でて、なんでもないよって言いたかった。それはきっと自分の身体を刃で切り刻む行為だと思うけれど、それでも構わない。少しでも彼女と一緒にいられるなら、少々の痛みなんて我慢できる。
でもそんなことを考えるのだって、今日で終わりなんだ。こんな思いをすることは二度とない。あってはいけないのだ。私はこれを道端に置いて先に進む。私は私の道を歩む。それでいい、これが正解。そうやればいいはずだ。きっと中々手放せず、大切に両手で握って、傷ついたりしないようにして捨てるのだろうけど、それで、いいんだ。
嫌だ。彼女のことを諦めたくなんてない。そんなのは嫌だ。今感じるこの心臓の痛みを、失いたくない。
どうしてこれを手放さなくてはいけない。私が一体、どんな罪を犯したというのだろう。きちんと姉らしく振る舞ってきた。誰にも気づかれないように、自分の親にだって隠して生きてきた。膨れ上がって行き場を失くした思いを、その度に削り、切り取り、潰して、そうやって秘めていたというのに。外に出されたことはなく、また出すこともない。一生、報われないままだ。
何故、私だけがこんな目に。なんで私は、貴女の姉として生まれてしまった?
ああ、でも、こんな問いかけと戦うのだって終わる。すべて今日でさよならだ。明日からはこの気持ちを捨てて日々を過ごす。全部遠い過去のことにして、ほろ苦い思い出にする。いつか振り返ることもあるかもしれない。けれど痛みを覚えることはないのだ。もう一度はやってこない。
「……ねえお姉ちゃん、起きてる?」
自分の身体がびくりと跳ねたのが分かった。妹の声は思っていたよりもずっと近くで聞こえて、私と彼女の間には想像よりもずっと距離がないことを理解させられる。妹の声はあまりにも静かで、ともすれば妄想が作り出した幻聴ではないかと疑ってしまいそうになった。それがしっかりと耳に入るということは、つまりさして遠くにいないということで。手を伸ばすまでもなく、触れてしまえるのかもしれない。
思わず、身体の向きを変えた。顔の方向は彼女とはまるで反対で、要するに私は妹から目をそらしたのだ。いきなりそんなことをしたのだ、眠っていないことなんてすぐに分かる。それでも私は妹から逃げたかった。彼女を見つめていたことを、隠し続けてきたものを妹に知られることが、何よりも恐ろしかった。奥歯が不協和音をかき鳴らし始めるのを、割れてしまいそうなくらいに噛み締めることで耐えていたのだ。際限ない寒気は手足の震えとなる。心臓が体中に血液を送り出す音が耳から離れない。
怖くて仕方ない。だってこれは幾度となく想像した悪夢そのものだ。唐突で不自然な問いかけ。暴かれて、さらされてしまう。夜に一人で想像して、自らをかき抱いて耐え忍んできたもの。
ふと、大きな物音が幾つか聞こえた。布団を剥ぐ音、人と人がぶつかる音、床に物が落ちる音。それらを聞こえたというのは、多分間違いだ。どれも私の近くで起きて、私が起こした音だったのだから、聞こえたというのとはやはり違っている。
何があったのかなんてまるで分からない。ただ私は無我夢中で、気づけば布団の上に組み敷かれていた。腕を掴み、脚を抑えて、私の上に乗った彼女は荒い息を吐いていた。手のひらから伝わってくる体温は熱くて、火傷をするんじゃないかと不安になる。いつもは真っ白な妹の手首も、今は暗闇の中でも分かるほど赤くなっていた。
妹の手を振り払おうとして、すぐにやめた。腕から伝わってくる痛みは、私が腕どころか身体を動かすことを諦めるくらいにはあったのだ。これが首だったなら、私はとうに死んでいるかもしれない。本当にそうだったら良かった。私はどこにも逃げられない。
視線を正面にやれば、彼女の顔。私に似た顔。息を飲みこむ喉から、一体なにを吐き出すのだろう。普段は待ち焦がれるそれを一言だって聞きたくなかった。そのやわらかな唇から侮蔑が滑り落ちるところなんて見たくない。今ここで死ぬことができるなら、私にとってそれ以上の救いはなかった。自分で自分をずっと否定し続けてきたけれど、彼女に否定されることだけは耐えられない。今日ですべておしまいにするから、貴女を思い出にさせてほしい。心の奥底に鍵をかけて大事に沈めてしまうような思い出に。だからせめて、貴女を私の傷にしないで。
「……お姉ちゃん」
嫌だ。
今日が最後なんだ。もうあと、数時間だって残っていないというのに、たったそれだけを何故待ってくれない。何でもないふりをして眠らせてくれない。
やめて、お願いだから。
「お姉ちゃんは、」
どうか私に、貴女を諦めさせて。
はらはらと流れる涙に気がついたのはいつだっただろう。彼女が口を閉じてからどれだけ経っていただろう。
私の眦からとめどなくこぼれる涙を映した彼女の目は、うっすらとぼやける視界の中でもはっきりと、傷ついたように見えた。
どうして。
そうするのは私だったはずだ。実の妹に恋をした私が傷を負うのが道理だろう。詰られて、罵られて、手酷く拒絶される。それが当然の帰結で当たり前の予想だったはず。だというのにこれはなんだ。何故貴女がそんな顔をしている。
それはまるで――貴女が私に恋していたようで。
「……ごめんね」
手が離れる。まるでさきほどまでのことが嘘みたいになにも感じない。たしかにあったはずの熱も、痛みも、全部失ってしまった。暗闇に貴女が薄れていく。
ほんの少し前まで感じていたのとは、また違う悪寒が私を支配した。じわじわと足先から上ってきて、気がついたときには何もかも手遅れになっているような、そんな悪寒。もしかすると私は、とんでもない間違いを犯したのではないだろうか。何よりも望まなかったことをしてしまおうとしているのでは。一生をかけても償いきれないような罪を背負うまいと、そうやってまったく別の更に重い罪を私は背負ってしまうのではないか。
貴女にそれを、同じものを、私は。
思わず、手を闇の中に伸ばす。きっとまだ、そこにいるはずだと自分に言い聞かせて。そうでなくて困る。だって私は貴女を手放したくないのだ。失うなんてもってのほか。布団が近くに敷かれていて彼女があまり動いていなかったことに、ただただ感謝する。普段は初詣のときにくらいしか信仰しない神も、今なら信じることが出来そうだった。私の手は確かに貴女の手のひらを掴んでいた。
放さないようにと握りしめた手の中が震えたのが分かる。そうか、貴女も怖いのか。私たちは本当によく似た姉妹だった。私だって今も身体の震えが止まらない。むしろ手だけでも動いたのが不思議なくらいで、両足はまるでいうことをきかないのだ。立つことなんて出来るわけもなく、ほとんど腕一本で彼女にしがみついている有様だった。それをなんて無様だろうと笑う余裕すらなくて。
喉に何かが詰まってしまったみたいに上手く動かない。息をすることすら自由ではなく、それはきっと涙のせいだ。でも今諦めるわけにはいかないのだ。黙ったままではいられない。私は貴女に伝えなければいけない。だから懸命に声を出そうと力を振り絞る。
だって、そうしないと報われない。私も、貴女も。生きて仕事をして金を得て娯楽に耽って幸せそうな振りをして、そうやって死ぬまでずっと。死んでさえ、報われないままだ、私たちは。
息を吸う。大丈夫、出来る。やれるはずだ。肺に空気を溜めて、一気に声帯へと送り込む。だって私は貴女より何年も先に生まれたのだ。やらなくて、どうする。
だから、どうか聞いてほしい。きっと貴女は自分を責め苛む言葉だと思うだろうけれど、そうではないということを示してみせるから。不格好で恥ずかしく、こんな風に言うだなんて自分でも許せないくらいだけど、それでもちゃんと耳を傾けてほしい。
「わ、たしは、貴女のことが、好き。大好きなの――この世の、誰よりも」
貴女は。
背中への痛み。それが勢いよく抱きつかれて、またもや布団に押し倒されたと分かったのは数瞬後のこと。
「……あたしも、大好きだよ」
嗚咽の混じった声は耳元から。その内容に心底安堵し、遅れてやってきた喜びに任せて、私は貴女を抱きしめた。
温泉姉妹百合っていいよね、という思いだけで書きました。