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全然意味わかんねー

 新学期を迎え、三年生の教室は感傷的になっていた。もうすぐ、卒業、もうすぐ受験。

 八洲の滑り止めに満流が選んだ市立高校は、祐二もてつも滑り止めに選んでいる、金さえ払えば誰でも入れる例のI高。

 遠くてお金もかかる私立はあくまで滑り止めなのは田舎の中学の常識。みんな公立狙い。だから公立の方ががぜん偏差値は高くなる。もちろん、大弥やミカのような例外はあったけど。

 二月に入るとクラスの雰囲気は受験一色。あのモリまでが、数学の参考書を真剣に見つめてる。ぎりぎりなヤツも、投げやりなヤツも、結局みんな何としても、どこかにひっかかりたい。人生最初の勝負どころに失敗したくなくて。切羽詰ってから焦ってる。


 I高の受験日は二月十四日。満流は良子からお守りタイプのチョコレートを渡された。「かーちゃんのチョコなんてご利益ないって。」そう言って笑ったけど、一応素直に鞄に入れた。

 てつも祐二も、モリらも一緒だったから、早朝の行きの電車は修学旅行気分。はしゃぎすぎて頭から英単語がぽろぽろこぼれるんじゃないかと心配する程だった。片道二時間の道のりが、あっと言う間に感じられた。

 家に帰り着いたのは五時。食卓にはもう夕食の支度が整っていた。良子は仕事で遅くなるから、三人で先に食べれるよう用意してあるのだと、美咲が舌足らずなしゃべり方で得意げに報告した。冷めたてんぷらをレンジでチンして三人で夕食を食べてしばらくうとうととしていたら、電話が一回鳴って切れた。そして続いて今度は何度もコールが響いた。


 寝ぼけ声で受話器を取ると、聞こえてきたのはかすれた低い、瞳の声だった。

「満流?」

「……うん。」

間髪入れずに瞳は言った。

「うちのお母さんいますか?」

「え?……いないと思うけど。」

満流は念のため、一応子機を持って家の中を回ってみる。窓から外の車庫も見てみたけれど、母親もまだ帰っていない。なんだか狼狽してしまう自分が情けなかった。瞳が何を言っても、自分はただ、おろおろして、問われたままに答えるだけ。未だに。

 「ママから電話あったの、知ってる?履歴に残ってるんだけど。」

七時頃からうとうとしていた満流は、八時にここにかかったはずという電話には気づかなかったし、出てもいない。正文か、美咲がとったのだろうけど、二人とももう寝ているようだった。

「お母さん…良子さん、どこにいるの? 携帯つながらないんだけど…」

「……どこかはわからんけど……。」

どこにいるかは聞いていない。基本、聞かない。時計を見ると十時を回っていた。

「でも、もう帰ってくると思うけど。」

続けてそう言った。

「そう、……じゃあ…、」

そう言うので、切るのかと思っていたら、

「今日、どうだった?」

さっきとは少し変わって優しい声で瞳が続けた。

「どうって?」

「I高。」

「ああ。」

そう言って、少し置いて、

「多分、できたと思う。」

「そう、それはよかった。」

瞳がくすっと笑った気がした。少しだけ、二人の間の隙間が埋まった。今なら言える気がした。

「あの」

「なに?」

「ノート、とってくれて、サンキュ」

一瞬沈黙。そして、

「ああ、別に、暇だったから、」

そう言われると、もう次が出ない。また距離が遠くなる。次の言葉が出てこない。またもや沈黙。だけど思いがけない次の言葉。

「うちのママがね、帰ってこないんよ。」

少し語尾を震わせて、でもはっきりした声で瞳は言った。唐突に言われたので、とっさに言葉が出てこなかった。満流はやっぱりただ、「え?」と言ったきり。

「何かわかるかなと思ってかけたんだけど…。」

ぽつんとそう言って、瞳は自分から電話を切った。切った途端、

「ただいまあ。満流、試験どうだったん?」

やけに明るい良子の声が玄関から響いた。

 瞳の一件を伝えると、良子は不審そうな顔をして、バッグから携帯電話を取り出した。充電切れ。この時初めて電源が切れていることに気づいたようだった。アポを取って会いに行くような仕事ではないし、毎晩充電する習慣がないから、よくあることだ。家のファックス電話の受話器をとってリダイヤルで電話を掛けた、


 電話から漏れ聞こえたのは、マリがうちの家と良子の携帯に電話してそのあとすぐに出かけたまま、二時間以上たつのに帰ってこないということだった。電話を切ると、良子は思いぶりな顔で奥の和室に行ってしまった。

 十一時を少し過ぎた頃、再び電話が鳴り響いた。すっかり目が覚めてしまった満流はテレビのバラエティー番組をぼーっとながめていた。

「もしもし。」

思った通り、瞳の声がした。


 どうしてこんなに早く、自転車を走らせているんだろう。えみりに振られて、もう女なんかはこりごりだと思った。女なんかに関わりたくないと思ってた。なのに俺は、なんでこんなにも急いで、瞳の要求に応えようとしているのだろう。

 風が痛いほど冷たい。耳も鼻も真っ赤になってきてるのがわかる。手袋の中の手の先だってハンドルを握る形のまま凍り付きそうだった。だけど、ダウンジャケットの中の体はペダルを踏めば踏むほど熱くなってくる。心はなんだか瞳の元へ駆けつけることに浮き足立っている。「来てほしい」なんて、面倒くさい。そう思いながら、夢中でペダルを踏みしめていた。


 五分そこそこで瞳の家の大きな門の前についた。センサーが満流を関知して門灯がぱっと点る。それと同時に瞳が玄関から出てきた。

 瞳は濃い赤のセーターとタータンチェックのミニスカート。グレーの厚めのタイツをはいていたけれど、外気に触れて一瞬寒そうにした。

 来ることだけを考えていたから、着いてからどうするかなんて考えていなかった。瞳に言われた通りに中に入り、出されたふかふかの客用のスリッパを履いて、リビングへと歩く。また、でくの坊になってしまう。

「そこに座っといて。コーヒー入れるけん。上着も脱いだら?」

そう言われて、やっと我に返って初めて口を開いた。

「すぐ帰るから。何もいらん。」

リビングは異様に暖かくて、ダウンジャケットを着たままの満流には暑いほどだったけれど、脱いでしまうとなんだか何もかも瞳の指図通り動くのが当然と思われてるようで、少ししゃくに障った。しかし、コーヒーはすでに用意してあって、香ばしい湯気が満流のささくれそうな心を少しだけ柔らかくしてくれた。何も言わず、瞳はコーヒーを満流の前に差し出して、ダイニングテーブルを挟んで満流の対面になる場所で、イスに腰掛けた。

 しばらく沈黙が続いた。すぐ帰ると言いながら、帰れない。

「何しに俺は来たんだろう。何で俺はここにいるのだろう。」

意味をなさないもやもやが、満流の頭で渦巻いていた。

「パパもママも帰って来なくて、連絡もつかなくて…なんか怖い。」

電話口でそう言われ、思わず「行く」と言ってしまった。だけど俺は瞳を守るため、瞳の不安を鎮めるため、こうしてただまぬけに突っ立っているのか。

 ぼんやりと正面を向いていたら、うつむいて、顔の見えない瞳の髪の毛の隙間から、涙が床にこぼれ落ちたような気がした。


 近づいて、抱きしめて、涙を拭ってやりたい。衝動的にそう思う。今度こそ、今こそ。でも、足は動き出す気配すらない。強力接着剤でくっつけたみたいに床にへばりついて、一歩も前に踏み出せない。頭と体と口が全てバラバラで、満流は自分自身が何をしようとしているのか、何を言い出すのか、もう自分でもわからなかった。

 コーヒー豆の甘みな香りが満流の心をくすぐって、じわじわと解きほぐしていく。柱時計の振り子がコチン、コチン、催眠療法のように深層心理を呼び覚ます。

「俺は瞳のことがずっと、……」

「俺は瞳が、……やっぱりずっと……」

声には出していない。脳でしゃべった。自分に言ったつもりだった。でもその声は、思いは、瞳に届いた。かすかに。風のように。



 瞳はふっと顔を上げた。まっすぐに満流を見つめた。その目に涙はもうなかった。

「何? 今、何か言った? 」

そして、

「ちょっと、すごい汗。」

そう言って、イスから立ち上がって引き出しを開けてタオルを出し、満流に渡そうと近づいて来た。

 その瞬間、内側から何かがつきあげてきて、外に向かって放出された力がぐらっと満流を捉えた。差し出されたタオルごと、手を持って引き寄せたら、瞳は満流の動きに合わせるように、抵抗なくすっぽりと胸の中に飛び込んできた。

 赤いセーターの瞳の体が今、腕の中にあった。甘い桃の香りが鼻孔をくすぐる。瞳の香り。リップクリームじゃなく、コロンかな。

 ダウンジャケット、やっぱり脱げば良かった。後悔してももう遅い。ごわごわとしたダウンの膨らみが、二人の間をはばんでいた。はばまれたまま、静かに二人はただ抱き合っていた。まるで恋人同士のように。


 五分くらいそうしていただろうか。気持ちはずっとそうしていたかったけれど、額から流れ続ける汗に、どうしてもがまんできなくて、満流は瞳の肩をつかんでそっと自分から引き離した。

「熱い。」

そう言って笑うと、瞳も赤い顔をして笑って、持ったままだったタオルを満流の額にあてて汗を拭った。

 瞳の顔がもうほんの目の前にある。顔を少しだけずらせば、両手で肩を引き寄せれば、去年の今頃毎晩夢見てた、何度も何度も繰り返した、頭の中だけの映像だったあのシーン。瞳の唇に、自分の唇が、直に触れる、キス、することができる。


 目が合って、五秒くらい見つめ合って、それでもやっぱり何もできなくて。お互いちょっと笑った。今度は瞳の方が、ダウンジャケットに顔をうずめるようにして、そっと満流に抱きついてきた。そして、瞳が顔を上げた瞬間、どちらともなく近づいて、二人の唇がわずかに触れた。触れた瞬間、光が走った。二人で、目を見つめて、またちょっと笑った。閉ざしていた心がぱちんとはじけて、シュワ―っとコーラの飛沫が広がっていく。じんわりとかみしめるような幸福感に包まれた満流の耳に、囁く籠った瞳の声がくすぐったい。

「うち、好きな人がおるんよ。」

この状態なら誰だって、満流と同じ、期待を抱く。しかも今日はバレンタイン。一度は別れたけれど、二人は強く、結ばれていた。固い心の絆があった。そう。俺は、やっぱり……瞳のことがずっとずっと好きだった。忘れたくても、忘れられなかった。わかっていたけれど、今、それを、真正面からやっと認めることができた。

 それなのに。瞳の口から出た言葉が、満流の耳に届いたとき、拾った音を脳が理解するまでに数秒を要した。乾いた音が耳に虚しくこびりつく。

「イセダイヤが、好き。」

何それ。何なんだよ。全然意味がわかんねーよ。


 車のエンジン音が遠くから聞こえる。その音は、だんだん近づいてきて、家の前でぷつんと止まった。玄関ドアが開いて、すらりと背の高い、品のいいサラリーマン風の男性が入ってきた。スカッとしたほのかな香水の香りがふわっと鼻腔をかすめた。

 満流と目が合って、男性は一瞬怪訝そうな顔をしたが、

「長崎満流君。瞳のこと、心配して来てくれたんよ。パパ連絡くれんから……」

そう瞳が説明すると、トシヤは目尻をふわっと下げて、急に人なつっこく微笑んだ。

「君が、……。」

満流をまじまじと優しい目をして見つめながら、

「すまんかったね。君まで巻き添えにしてしまって。」

そう言って、今度はちょっと困った顔をした。後ろにマリが目を伏せて立っていた。


 来たときよりも外気はいっそう冷たく感じられた。汗はすっかり冷たくなって、火照っていた体はあっと言う間に芯まで凍り付いた。車で送るというトシヤの申し出を、頑なに断って、満流はがむしゃらに自転車のペダルを踏んだ。何も考えられず、真っ白な頭のまま。ふと気づくともう家の車庫に自転車を止めていた。

 部屋にはいると良子がリビングで座っていた。良子は一瞬顔を上げただけで、別に何も言わなかった。いろんなことがありすぎて、何が何だかわからない。乾燥した冷気で唇がぱさぱさに渇いて、もう、さっきの余韻のかけらもない。まったく。

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