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溶けたマシュマロ

 今日もえみりが二階の階段の踊り場で満流を待っている。えみりの家は満流の通学路とは逆方向。校門までのつかの間のデートだけど、えみりにとっては大切な時間。他愛のない会話をしながら五分程度歩くだけだったけれど、それだけで、よかった。その間、満流は自分だけのものだった。そして、何よりも、周りのギャラリーが、自分と満流をカップルとして認めてくれることが嬉しかった。一年生の時からずっと好きで、憧れていたんだから。同級生の他のライバルを蹴落として、自分が射止めたんだから。

 退院から周りを固められ、勤勉にならざるを得なくなった満流には、えみりと遊んでる時間はなかった。とにかく、十二月にある最後の模試で、なんとか八洲高受験の切符、担任の許可を手に入れなければならない。もちろん、それがなくても、受験することは可能だが、母も、家庭教師も、一様に、何としても、芳村のゴーサインが出ることを満流に求めた。


 毎日のように来る家庭教師は東京のK大学理工学部卒で、技術関係の職についたが性に合わず、今はUターンして、実家の家具屋の手伝いをしている三十前の独身男だ。彼は畑違いの仕事のかたわら、得意な勉強を満流に教えることを自らとても楽しんでいた。満流のゴビ砂漠の脳には水が必要だった。家庭教師は自分の中で持て余していた水を、毎日欠かさず、たっぷりと与えた。満流の砂漠は案外豊富な資源を含んでいて、水はしっかり吸収され、いろんな種を発芽させた。もともと数学は好きだった。確率、場合の数でちょっとつまずいただけ。そこを丁寧に教わると、みるみる成績は上がった。加えて主に漫画と映画からだけれど、国語的センスも案外あって、解き方のノウハウが身につけば、面白いように国語の成績も上がっていった。要するに、書き手が何を言いたいのかをとらえ、出題者がどう答えさせたいのかを見破る。国語は駆け引き。

 理科も社会も参考書を覚えていけばいいだけだし。時間さえかければどうにでもなる。偏差値は、八洲高に、ぎりぎり合格ラインというところまで来ていた。問題は英語。これだけは、理屈じゃなく、丸覚えしなければ、どうにもならない。やみくもな暗記。それは苦痛だった。しかし、イラストで示したコアで覚える英語を身につけると、なんとなく理解できた。英語には英語のニュアンスがある。結局理解。理解から入り、面白さがわかると、覚えることが楽しくなるんだ。

 満流は学校での十把一絡げのちんたらした授業はそっちのけで、ひたすら家庭教師の出す宿題を解いた。マンツーマンで一ヶ月。中学二年分の復習がばっちりできた。あとは、ここ最近習ったことを、また急ピッチで詰め込んでいくだけ。

 与えられた事をこなすことは楽だった。目的も道も、がんばれる環境も全部作ってもらう。言われたとおりにがんばる。自分の能力を持て余し、宙ぶらりんだった家庭教師は、地下に眠った満流の能力をせっせと掘り出す魅力に取りつかれた。二人の関係は、やがて大きな歯車のように寸分の狂いなくかみ合い、ギリギリきしみながらもゆっくりと動き始めた。満流は家庭教師に自分のすべてを任せて、突き進むことができた。もちろん疑問がないではない。だけど、それが正しいかどうかなんて考えてはいけない。今は立ちどまらず、受験という流れに乗って行くだけ。解れば解るほど、もっと知りたくなってくる。ここができるヤツとできないヤツの分かれ目。あんなに覚えるのが嫌だった英語の教科書を、今は二年分、ほとんど暗記できた。覚えればまた、より深く理解できる。教科書が物足りないほど、満流は知識欲にかられた。


 十二月に入ってすぐ、事実上受験校を決めるポイントとなる模擬テストがあった。数学と理科はかなりできたと自分でも思えた。国語は漢字以外はとりあえず全部埋めた。社会はまあまあというところ。地理も歴史も頭の中でつながってくれば加速度的に理解は深まる。問題は英語。なんとなくフィーリングで埋めたけど、わからない熟語もあって、自信はなかった。

 模試が終わった日、えみりがクッキーを焼いてきた。満流のために本を見て初めて自分で作ったと言う。模試が終わってせいせいしたのと、えみりの紅潮した頬がかわいかったのと、クッキーが形はいびつだけどけっこう美味しかったのと、なんかいろいろなものがごちゃまぜになって、満流はだれもいなくなった二年C組の教室でクッキーをほうばったその口で、えみりの頬にくちづけた。ミカに言われて、学校では少し離れて歩くことにしていたから、久しぶりのキスだった。

 軽く触れただけだったけど、えみりは頬だけじゃなく、耳たぶまで赤くした。もう、腕のギプスも首のプロテクターもとれて、自由に動ける満流は、えみりの体を正面から両手で抱きしめた。そして、クッキーを飲み込んで、今度は唇にキスをした。えみりも満流の体にしっかりと腕を回し、満流を受け止めた。そして、

「もっと一緒にいたいな。」

そう言って、真っ赤な顔のまま、満流を見上げた。


 ひと月がんばったから、ちょっと休憩。そんな気分で満流は自宅から反対方向のえみりの家に向かっていた。最初の頃のように、えみりをもう、面倒くさいとは思わなかった。かわいくて、愛しくて、ふわふわの体を、ずっと抱きしめていたくて。


 十五分ほど歩いたところにえみりの家はあった。ちょうど満流の家とは学校をはさんで同じくらいの距離になる。キティちゃんだらけの子供っぽい部屋だった。家には誰もいなかった。

 えみりの顔の倍もある一番大きなキティのぬいぐるみを「これもーらい」とにぎって「じゃあ」と冗談で帰ろうとすると、えみりはわざとらしい甘えた声で「だめえ」と言って、満流の上着の裾をつかんだ。

 ぬいぐるみを放して満流はえみりの体を抱き留めた。そして、部屋の奥のベッドに二人で倒れ込む。あまいスプリングのマットに、二人の体が大きく弾んだ。

 えみりに馬乗りになるような格好で、満流は上からえみりを見つめた。そして、ホワイトベージュのセーターごしに、右手で胸に触れてみた。えみりは固く目をつむっていた。そのまま満流はセーター、ブラウス、その下のキャミソールを、順番にたくしあげていき、やっと現れたブラジャーの中央から、こぼれ落ちそうなえみりの生身のバストを鷲掴みにした。

思いがけなく柔らかくて、拍子抜けがした。こんなにも、とろけそうなくらい柔らかいなんて。

 頭は冷静なつもりだったのに、体の芯だけ硬直し、外に向かって力が出ない。そうしたいという衝動は確かにそこにあったけれど、肘から先に力が入らず、そこから先にはどうしても進めない。胸に当てた手を離し、体をひねって、えみりと並んだ格好で、ベッドの上にあおむけになった。えみりはたくし上げられたブラウスとセーターを下にひっぱって、上半身を起こし、座った格好のまま反対側を向いてうつむいていた。そしてしばらくして満流に向き直って、「いいよ。」と言って両手で満流の右手をとった。

 放心したように天井だけを見つめ、そのまま寝転がっていた満流は、握られた右手をできるだけ優しく放して、勢いをつけて上半身を起こし、ベッドから降りて

「俺、帰るわ。」

変な風に聞こえないように、注意して小さい声で言った。

 後ろでえみりの鼻をすする音がした。そんなつもりじゃなかったのに。泣かせるつもりも、いやな思いをさせるつもりもなかったのに。ちょっと息抜きがしたかっただけなのに。

 振り向くと、もっといやな思いをさせるような気がして、どうしていいかわからなくて、満流はそのまま黙ってえみりの部屋を出て、玄関ドアの鍵を開けて、外に飛び出した。

 こんなことしてたんじゃ、八洲、狙えなくなるなあ。そんな思いが頭をよぎった。えみりの唇の感触が、舌のなめらかさが、胸の柔らかさが、触れた部分から溶けていくように気持ちよかったのは確かだったから。

 溶けそうになる体を阻止するように、満流は全速力で自宅に向かって走り出していた。考えちゃいけない。今は何も。受験のこと以外は。良子と家庭教師にうまく洗脳されている。でも、本当に自分がやりたいことなんて、わからないから。母がそれを望むなら、それが自分の望みだと思えばいい。


 模試の結果は二週間後に返ってきた。校内で十八番。一気に百番越え。短期間にここまで成績が上がるとは思っていなかったので、自分でも驚いた。志望校別の順位でも定員二百名中、百二十位。偏差値でも合格圏内だ。八洲高がぐんと近づいてきた。もちろん、芳村はゴーサイン。

 良子は満足げに微笑んだ。家庭教師は、英語がまだまだだなと冷静に分析したが、きつねのような細い目の端には安堵の色が浮かんでいた。


 期末試験でも、満流はこれまでにないすばらしい成績をあげた。学年で十番。奇跡的な順位だった。二学期も終わりに近づき、えみりとは接触のないまま三週間近く経っていた。

 いつも放課後、階段の踊り場で満流を待っていたえみりは、あの日から姿を現さなかった。受験に専念するため、携帯電話は良子に取り上げられて、メールもできない。

 終業式の時、体育館で斜め前の二年生の列に並んでいるえみりの横顔が見えたけれど、えみりはいつもと違って、三年生の列を一度も振り向かず、頑なに前を向いていた。


 冬休みに突入し、朝から晩まで勉強ばかりの毎日が続いた。さすがに三日目には満流は息切れしてきた。朝から良子は仕事で外出。正文は畑に出たまま。妹は昼から近所の友達の家に遊びに行っている。家には誰もいなかった。

 シャープペンシルを鼻の下に挟み、イスの背もたれに全体重をかけて天井をあおいでぼーっとしていると電話が一度鳴って切れた。最近多い。あきらかに故意だと思える。

 「えみり…」自分でも不思議なくらい即行で、受話器を上げて、生徒手帳のメモ欄にえみりが自分で書いた丸い字体の番号を見ながら、満流はプッシュボタンを押していた。


 長かった。十回くらいのコールの末、甘ったるいえみりの声が耳いっぱいに広がった。

「もしもしぃ?」

「……あ、俺」

「え?……満流君?」

そう言ったきり、えみりは黙り込んだ。しばしの沈黙。

「久しぶり。」

「うん。」

「何しよったん?」

「メール。」

えみりが一言ずつしか返さないから会話が進まない。

「うち、来る?」

まどろっこしいからダイレクトに誘ってみた。無性にえみりに会いたいと思った。えみりの柔らかい唇に触れたいと強く思った。

「満流君……」

「何?」

「あのね。」

鼻にかかったふわふわした甘い声。英語でびっしりだった満流の頭に、マシュマロの風が吹いて、少しずつ単語の山が崩れて溶けていく。

「満流君は本当にえみりのこと好き?」

何度か聞かれた言葉だった。結構はぐらかしてきた。でも、今日は答えられる気がした。

「うん。」

「一番好き?」

新たな難題。一番? 一番も二番もない。今の気持ちはただ、なんとなく、えみりに会いたかった。

「多分……。」

笑いながら言ってみた。えみりの柔らかい猫っ毛が頭の中で風に揺れる。会って、えみりに触れたい。それが今の素直な気持ち。えみりを傷つけようなんて思わなかった。でも、なぜか、一番とは言えなかった。

「やっぱり……満流君はえみりのことなんてどうでもいいんやね。」

さっきまで優しく吹いていた風はその言葉にぱったりと止み、しばらく沈黙は続いた。そして、

「えみりね、この前、告られたんよ。さっきもその子とメールしよった。」

「……。」

「まだ返事はしてないんやけど、」一呼吸おいて、

「つきあおうかな。」

ゆっくりとえみりはそう言い、そのまま黙って満流の返事を待っていた。考えるより先に言葉が出た。

「つきあいたいんなら、つきあえば?」

少し待ったけれど、えみりは何も言わないので、満流はそのままがちゃんと電話を切った。なんと言えばよかったんだ。突然のことに頭は回らなかった。つきあって欲しいと言うからつきあった。他の子とつきあってみようかなというからつきあえばと言った。俺に何を言わせたいんだ。めんどくさい。そいつの方がいいなら、そうすればいい。頭のてっぺんで冷たく細い風が吹き、四方八方に意味をなさないアルファベットの瓦礫がしゅるしゅると吹き荒れた。地面に落ちたマシュマロは熱に溶けてだらしなくアスファルトにへばりつく。


 てつに会いたいな。家に行ってみると誰もいなかった。その足で祐二の家にも回ってみる。祐二も留守。手袋してくればよかったと後悔した。晴れているから最初、そう寒いとは感じなかったけれど、外にいるとじんじんと寒さがしみてくる。自転車を飛ばした。

「何してるんだろ、俺」

できるだけ早く家に帰ってこたつに潜り込みたかった。もういい。もう女なんかウンザリだ。


 新学期を迎え、三年生の教室は感傷的になっていた。もうすぐ、卒業、もうすぐ受験。

 八洲の滑り止めに満流が選んだ市立高校は、祐二もてつも滑り止めに選んでいる、金さえ払えば誰でも入れる例のI高。

 遠くてお金もかかる私立はあくまで滑り止めなのは田舎の中学の常識。みんな公立狙い。だから公立の方ががぜん偏差値は高くなる。もちろん、大弥やミカのような例外はあったけど。

 二月に入るとクラスの雰囲気は受験一色。あのモリまでが、数学の参考書を真剣に見つめてる。ぎりぎりなヤツも、投げやりなヤツも、結局みんな何としても、どこかにひっかかりたい。人生最初の勝負どころに失敗したくなくて。切羽詰ってから焦ってる。

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