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プログラム変更

 翌日、数学教諭は意外そうな顔をして、昨日のテストのトップを発表した。

「長崎満流、百点。」

いつもトップから答案を返すのがポーカーフェイスのこの教師の常だが、今日は、誰もが予期せぬ名前。しかも、満点。

 教室にどよめきが起こった。みんなが一斉に満流の方を見た。当の満流は教師から答案をもぎ取って、バツが悪そうに右手で頭をかいた。

 瞳もびっくりして思わずみんなと同じように満流を見つめた。

「俺も、開田にノートとってもらえばよかった。」

満流が席につくなり、いつも赤点すれすれのモリが、笑いをとろうと思って大げさな口調で言った。周囲の者達は、ただにやにやしている。眉毛の端がぴくっと動いたけれど、動じないふりをして、別にどうでもいいように、満流は薄く笑った。瞳は何も聞こえなかったかのように、窓の外を見つめるふりをした。



 十一月に入ってすぐに文化祭があった。寒い日が続いていて、小雨の中決行した屋外でのバザーは、凍えるくらいだったけれど、テントの下で食べるあったかいうどんが一層おいしく感じられた。一通り日程を終えて放課後、やたらとカップルが目立つ時間帯。満流もまた同類。北校舎二階の角、えみりとの待ち合わせの場所には今日は先客あり。倉庫に上がる三段ステップの二段目に誰かが座り込んでうつむいていた。タイトな体つきで、えみりではないとはすぐにわかったけれど、もしかしたらと思ったけれど。黒いまっすぐな髪が、顔全体にかかって、顔が見えなくて、人の気配で顔を上げた瞳が先にあっと声を上げた。

 文化祭、瞳は午前の部活披露のステージで体操の模範演技をする予定だったけれど、当日になって、プログラムは変更されていた。ステージには上がったけれど、ジュニア選手権四国大会四位という賞状を受け取っただけだった。終始下を向いて、なんだか元気のない様子だった。四国大会四位。それは、瞳には喜べる成績ではない。中学総体と同じ、あと一歩で全国大会をのがしたのだから。コーチのがっかりした顔、マリのわざとらしい慰め、どれもこれも、うんざり。一人になりたい。一人で泣きたい。そう思った。でも、泣けなかった。

 立ちすくむ満流の前をすり抜けて、瞳は走って行ってしまった。少しして、逆サイドの角からえみりがにこにこ顔をのぞかせた。


 翌日、朝の会が終わって、日直の合図で立ち上がった瞬間、急にがたんと音がして、瞳が倒れた。一瞬の貧血だったようで、すぐに意識を取り戻し、起き上がったけれど、芳村の指示で保健委員に付き添われ、保健室に運ばれた。

 お調子者のモリが「開田、アレだったんじゃない?」なんて、知ったかぶりに言って、女子に白い目で見られていた。

 母親が迎えに来て、瞳は早退した。放課後、何も知らずに瞳と一緒に帰ろうとB組に寄ったミカは置いてきぼり。教室から出てきた満流らにちょうど鉢合わせたので、満流やてつとふざけながら校舎を出た。周りに人がいなくなって、急に満流に小声で耳打ち。

「あんた、昨日、えみりと廊下でキスしてたいうてほんと?」

満流は絶句した。見られてた。見えないと思っていたのに。満流のどぎまぎにミカはあざけるように言った。

「デマかと思うとった。ふうん、えみりとねえ…。」

えみりがバスケ部をやめたのは、おしゃべりばかりでよくサボるえみりをミカがいじめたからだという噂もある。噂の真偽は定かではないが、えみりの印象がよくないのは定かみたいだ。二人から離れ、自転車置き場から自転車を出そうとするミカに、てつが大きな声で言った。

「仲野、推薦きたんだろ?行くの?」

ミカにバスケの名門、松山の私立高校からスポーツ特待生として推薦の申し込みがあったのは校内で話題になっていた。ミカは頷いて、

「うち、バスケだけがとりえやけんね。」

そのバスケでも認められない俺達はとりえなしか。そんな気持ちで満流は溜め息をついた。

「ま、あんたたちの分までがんばるわさ。」

ミカは溜め息の意味をとらえて皮肉っぽく笑い、ヘルメットをかぶり、自転車にまたがって颯爽と行ってしまった。


 校門の前の自販機でコーラを買おうとしていると、てつが満流に目くばせする。背筋を伸ばし、まっすぐ前を向いて、歩いてくる。「ニセダイヤ」二人で同時に呟いた。

 本当の名は伊勢大弥。新入部員の自己紹介で、自分の事を「ダイヤモンド」の「ダイヤ」だと言って以来、満流たちの間で苗字をパロッて「ニセダイヤ」と呼ばれていた。彼は一年の時、誰よりもバスケがうまくて誰よりも練習熱心だったのに、一年で部活をやめた。男バス部で唯一ミカのように、推薦が来たかもしれない奴だった。二年になって、パソコン部に入り、生徒会長もこなし、今は全国でも有名な進学校N高校に目標を定めて勉強しているらしいというもっぱらの噂。その大弥が目の前を通り過ぎる。


 「おまえ、なんでそんなにサボるの?」

一年の時、大弥に聞かれてにやけて「しんどいけん。」なんて答えた事がある。

 強くなりたい、「花道」のように華麗にダンクシュートを決めたいなんて、そんな野望だけはしっかりあったけど、大弥のようにがむしゃらに生きるなんて、かったるい。ほかにもいろいろやりたいことはある。強いて挙げれば……そこはまあ、ゲームとか、漫画とかくらいしか思いつかないんだけれど。

 いつもだれかとつるんでる満流とは正反対で、一人でいることが多い大弥。

「惜しいな。おまえとだったら、県大会も夢じゃないかもしれんのに。」

そう言われたのは一年の終わり頃だったように思う。俺に失望してやめたのか。そんなことをふと思ったりもした。まさか、違うだろうけど。


 「気絶ってしてみたかったけど、あんまりいいもんやないね。」

倒れた時に机でぶつけて、赤くはれたおでこを見舞いに来たミカに見せながら瞳は言った。

「なんか最近全然眠れないんだ。」

「瞳、体操続けたらいいんじゃないん? せっかく推薦来たのに。うち、瞳の華麗な段違い平行棒、一度見てみたいし。」

 瞳にもミカと同じ私立高校からの推薦の申し込みはあった。毎週土曜日の夜に練習に行っていた高校だ。体操のような競技は高校になってからいきなりやっても、なかなかついていけるものではない。小さいころから基礎を積んだものだけが、上にいけるのだから、主だった選手はみな、推薦という形でスカウトされる。 

「この腰じゃ無理、ね。それにうち、ミカみたいに才能ないもん。」

 四国でベスト3に入れなくて、全国に行けなかっただけでなく、練習のしすぎで持病の腰痛が悪化して、ドクターストップの状態。軽く床運動のさわりをこなすだけの予定だった文化祭でも直前で演技を辞退した。体操に腰痛はつきものだけど、瞳の体はもうぼろぼろ。もともとそこまで体は柔らかくないし、筋肉質でもない。才能のなさを努力で補ってきた。コーチの期待に応えるために、母に満足そうな顔をさせるために。でも、この先、こんな体で体操ばかりやって、意味があるのかな。瞳は五歳の頃から今まで迷いもなくがむしゃらに続けてきた体操に、翳りのようなものを感じ始めていた。そしてそれと自分が同時に生きていることの意味の無さも感じ始めていた。私がやってきたことって、結局何? 本当に自分のやりたいことだったの? 全身で、自分の気持ち、周りにアピールできたらいいのに。私は私の気持ちさえ、よくわからない。


 夜、部屋の子機で大弥の家のダイヤルをプッシュする。でも、ワンコールで切る。最近よくやる優柔不断な行動。非通知にしてるから、誰からのコールかわからない。私がここにいるのだと、気づいてほしくて。だけど、自ら名乗りたくなくて。

 あたしって結局何がしたいのかな。一年の時に同じクラスだった、伊勢大弥。ずっと心にひっかかっていた。名前のダイヤに負けないように、努力を惜しまず自分が輝ける存在になりたいと、自己紹介で言っていた。そして、行内行事でもなんでも、物事にまじめに取り組む姿勢に好感が持てた。「好き」ってやっぱりこういうことを言うのじゃないのかな。

 だけど、一方で、くすぶるこの気持ちがなんなのか、よくわからない。時々現れる満流のはにかんだ笑顔にすがりたくて、あいつが目をそらせばそらすほど、こっちを向いてほしくて。あんないい加減な人、好きじゃないと思うのに。

 がんじがらめにしているのは自分だと、気づかないままさらにもがいて、見えない糸はもっと絡まってしまう。


 子機を握りしめていると、マリがドアをがちゃっとあけた。

「瞳、起きとるん?」

あわてて子機をポケットに隠して

「うん、もうちょっと。」

何食わぬ顔で、開いていたテキストに目を通しているふりをした。

「最後は瞳の好きにしたらいいと思うけど、ママは八洲高校に行った方がいいと思うよ。体操は、もう限界だと思う。趣味でできるようなスポーツじゃないしね。」

いつもそう。最後は瞳が、と言いながら、誘導するのはママ。体操をやれと言ったのもママ、全国目指せと言ったのもママ。全国大会行けなくて、腰痛が悪化したら、今度は体操やめて八洲受けろと。それは多分間違ってはいないけれど、なんかママには言われたくない。なんか虚しいし、なんか悔しい。木工に飽きたからドール、体操だめになったから進学校。私はママの趣味とは違う。

 母が「おやすみ」と出て行って、瞳はポケットから子機を出して、しばらく考えて、それからゆっくり、空で覚えてるもう一つのダイヤルをプッシュした。そしてまた、ワンコールでぷつんと切った。


 「電話鳴っとるで。」

そう言って、満流が良子を見上げた瞬間、電話は切れた。良子はずっと険しい顔をしていた。入院中は同室の患者の手前もあって、あまりあの夜のことには触れなかった。家に帰ってからも、不自由な体の満流を気遣って何かと世話をやいてくれた。退院した翌日から夜には家庭教師が家に二時間いたから、家庭教師に気も遣ったし、満流が勉強に打ち込む環境も必要だろうと満流にも気を遣っていた。だけど、今夜は家庭教師が来ない日で、それをいいことに満流は学校から帰ってずっとテレビ漬け。勉強しなくていいのかとやんわり言っても、テレビを見て馬鹿笑いするだけの満流に、良子の中で、今まで我慢してきたものが一気に弾けた。電話が鳴ったのは、怒り沸騰の良子がテレビをコンセントからバチンと抜き、満流をにらみつけた瞬間だった。

 あの夜のことを逐一問いつめられた。噂で、毎晩満流たちが夜遊びをしていたこともばれてしまったし、無免許運転はちょくちょくやってたことも、煙草を吸っていたことも酒が入っていたことも、全部ばれていた。

 「あんた、いつからそんな不良になったん。親の目を盗んで夜出歩いて、挙げ句の果てには警察沙汰になって、しかもお酒なんて……。あんたはもっと賢いと思うとったけど、結局お父ちゃんと同じや。」

正文のことまで飛び出して、良子は自分の言葉に自分で興奮していく。当の満流はこんな時、頭は冷ややかで、良子から少し目をそらして、床を見ているだけ。満流は酒は飲んでない。だけど今の良子に聞く耳はない。ただ、嵐が過ぎるのを待つだけだった。あーあ、せっかく滑らない話のオチにさしかかったところだったのに。

 しかし、今夜の嵐はいつもと違っていた。良子は、満流から顔を背け、声をあげて泣き出した。満流はとまどった。母親の涙を見るのはあの出来事以来だった。


 満流がまだ小学校低学年の頃、役場の不正行為が発覚し、当時主任だった正文一人、悪者にされ、トカゲの尻尾切りのように職場を退職させられた。辞めてからの正文は、毎晩酒を飲み、次第にアル中のようになり、暴れて、挙句の果てに、母を殴って、大けがを負わせた。掃き出しの窓に頭をぶつけ、血を流しているのにまだ、母に襲いかかろうとした父。幼い満流は母をかばおうとがむしゃらに父にとびかかったら、ふり払われて割れたガラスが足に刺さった。今も右足首のちょっと上がポコンと穴のようにへこんでいる。

 あの日のことは、擦っても擦っても、記憶にこびりついて消えない。母の実家から、毎日毎日病院に通った。母は夜になると、いつも布団の中で泣いていた。満流の中の、悲しいトラウマ。母の涙が、あの時の涙にフラッシュバックして、頭が割れそうに痛くなる。見たくない、聞きたくない、もううんざり。悲しませたくなんかなかったのに。


 母親が泣いているのはまぎれもなく自分のせいだとは思うけれど、一方で、本当に、俺のせいだろうかという疑問もあった。結果的には心配をかけて、迷惑もかけたけれど、自分だけが悪いとは思えなかった。


 狭いこの家のどこかにいるはずの父親。この騒ぎに気づいているはずなのに、一向に姿を現そうとはしない。気づいているからこそ、現さない。いつも大事な時にはいないんだ。妹は自分の部屋でもう眠っている。怒って、泣いている母、そ知らぬ顔の父、そして、何も言えない自分。脆い砂の塊は良子の嵐でまたはらはらと舞い上がって、胃の中に広がっていく。

 動くこともできず、ただ床を見つめて、座って時間の経つのを待っていたら、ひとしきり泣いてやっと冷静さを取り戻した良子がティッシュで涙を拭きながら言った。

「あんたが八洲高に合格してさえくれたら、母ちゃんはもう何も言わん。好きにしてええけん。とにかく、もう、お願いやけん、あんたまで母ちゃんをがっかりさせんでや。」

声を震わせながらそう言い切って、さすがにバツが悪そうに立ち上がって、台所に向かった。ほとぼりがさめた頃を見計らうように、正文がリビングに入ってきて、テレビのスイッチを入れた。あれっと言って、コンセントに気づき、何食わぬ顔でソケットに差し込む。満流はギプスの左手を、右手で労るようにさすりながら、立ち上がって部屋を出た。砂がどろっと固まりかける。

 良子をなぐった父の拳が、振り払われたあの腕が、満流の中でうごめく。粘土状の塊が堅い拳になって自分の胸ぐらをつかむ。もう思い出したくない。あの日のことなんて。リビングの隣の寝室の引き戸は開け放されていて、父親の布団の中ですやすやと眠る六つ下の妹の姿が目に入った。粘土状の塊をもう一度体に収め、満流は二階の自分の部屋に上がった。

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