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めんどくさくてごめんね

テーマ:小説(中編)


 あの時、髪に触れたかった。思い切り、抱きしめてみたかった。でも触れることができなかった。真っ黒なぴんとした堅い髪が、バリアのように阻んで、手は満流の膝の上から離れることができなかった。



 夏休み、県総体で優勝し、瞳は四国総体へと駒を進めた。残念ながら全国大会までは行けなかったけれど、四国で四位という成績を残した。俺と別れた成果なら、別れて正解だったのか。


 教室で、満流はいつも、わざと瞳を避けた。同じクラスだから、視界の先に瞳がいて、たまに視線が合いそうになることはあったけれど、意識して、なるべく視界に入らないよう注意した。

あっちもこっちもなんて器用なことはできないから、俺はもう、瞳なんか見ない。瞳のことなんか考えない。


 ないてしまってごめんね

 えみり めんどくさくてごめんね

 でもみつるくんがすきだから

 みつるくんにきらわれたくないから


 昨夜遅く来たえみりからのメール。こんなのもらって、喜ばない男はいない。

 放課後えみりと待ち合わせた。北校舎二階の角の例の場所。階段の踊り場と廊下の延長線の回りこんだ位置にある、薄暗い、密会には最適の場所。まどろっこしいメールなんかで、自分の気持ちは表現できない。あの時と同じ、二段目のステップで二人並んで座って、えみりの顔を引き寄せてくちづけた。抱きしめると胸のふくらみが感じられて、自分が固まってくるのがわかった。えみりはちょっと笑った。笑うのと、泣くのの境目ががわからない。でも機嫌が直っているのは確か。また気まぐれに泣かれてもかなわないのですぐに体を離して、満流は教室にもどった。てつが一緒に帰ろうと満流の席で待っていた。

 


 「これ以上遅刻が増えると内申書に響くよ。」

良子の小言を聞き流しながら満流はまだねぼけまなこでボーッとしている。始業時間は八時だというのに、起きた時間が八時。

 「もー、あんたは。三年生になってからどんどん成績落ちるし、態度悪くなるし…」

二学期早々にあった実力テストではついに三ケタ。成績はまあクリアしているにしても、大浜高は生活態度を評価した内申書の右欄には意外と厳しいと、この間の保護者会で芳村にくぎを刺されたこともあり、ヒステリックになってきた良子は誰も手におえない。すっぴんで半分しかない細い眉が吊り上って、眉間に深くしわが入る。まるで夜叉。満流はさっさと洗面所に逃げ込んで身支度を始めた。一度見つかってしまったから、もう自転車は使えない。二十分ほどちんたら歩いて、教室に入ると一時間目の英語の授業がすでに始まっていた。英語は気弱な新米男性教師。満流をちらっと見ただけで何も言わない。出席簿になにやら書き込んで咳払いをしただけ。

 目で冷やかすモリに目で応えていると、その先の視界に、瞳が入ってきた。瞳はぼんやり窓の外を見ていた。結局こっちが避けなくても、向こうはこっちを向いてさえいない。


 引退して体力を持て余している元男バス部の三人トリオは今日は廊下でふざけてディフェンスの練習。てつが持ってきた小振りのビニールボールでワンオンツー。そこにミカが長い手を伸ばす。てつの頭ごしにキャッチしたボールを頭上高く上げてにやにや。背の低いてつはボールに手が届かない。祐二はかろうじて届くけれど、ミカの素早い動きにかわされる。ミカと同じくらいの身長の満流はその一瞬、窓から外を見てしまう。小柄な瞳が門に向って背筋を伸ばし、大股で歩く後ろ姿がちらっと見えた。かなり遠いのに、瞳の凛とした立ち姿は独特だから、すぐわかる。



 黒いアップライトピアノの上に、怪しげなドールが二体並んでいる。母マリの最近の趣味。月に一、二回、町内の気の合う四人グループで松山まで習いに行っている。その帰りがけ、仲間がうちに集まるのがこのところ習慣化してる。以前は木工教室にはまっていたけれど、もう作るものがなくなって、今はこのアンティークドール。週三日ほど、父親の饅頭づくりを手伝っているけれど、午後からはフリー。リビングからにぎやかな笑い声が響いている。リビングのドアを開け、

「ママただいま、こんにちは」

お客様に会釈。田舎では近所づきあいが大事。しかもマリは何より体面を気にする性格。お客様へのあいさつは、小さいころからしつけられて、慣れている。

「あら、瞳ちゃん、おかえり、一段と美人になったねえ。」

「体操、まだ続けとるんやね。」

「瞳ちゃんは頭もいいし、ほんと、言う事のうてほんにマリさん、うらやましい。」

田舎の奥さま方の美辞麗句。瞳は微笑みでかわしてノルマをこなし、さっさと自分の部屋に消えて行く。背中でまだ瞳へだか、マリへだかの賛辞は続いていた。なりたくないな、おばさんには。そう思う。

 ドール仲間の奥様方が退散して入れ違いにめずらしく父が帰ってきた。こんなに早く帰るのは久しぶりだった。

「おう、瞳、がんばってるか。」

そう言って日に焼けた笑顔を向ける。瞳の大きな二重瞼は父親譲りだった。背が高くておしゃれ、チョイ悪親父風のこの父が、瞳はちょっと自慢だった。とは言え、トシヤを見て、いそいそと世話をする、マリの方が嬉しそう。マリにとっても自慢の夫だ。もともとはマリの父親がここ西海で細々と作っていた饅頭を、ITに長けていたトシヤが「夕日の蜜柑」という名でインターネットでも販売するようにした。お取り寄せの銘菓としてじわじわ人気が出てきてから、トシヤは松山の会社を辞め、ここ西海に家を建て、株式会社を設立し、あちこちに営業に出かけている。ふらっと出かけてふらっと帰る。出張がちで、あまり家にいることがなかったけれど、だからこそ、程よくよい父、良い夫をキープできたとも言えるかもしれない。利益は上々だったから。


 瞳は県では優勝したものの、四国総体での成績は四位どまりだった。総体では全国大会に進めなかったけれど、あともう一つ、クラブからエントリーしている全日本ジュニア選手権がある。満流と別れたのも、一つは練習に専念したかったから。それは嘘じゃない。私には、男の子なんかより、体操の方が大事。

 でも。そもそもつきあうっていうことの意味がわからない。コーラを飲んでる姿が西日に輝いていて、近づいて、話しかけたかった。修学旅行で意味深のペンダントをもらった。だけど、好きだとか、つきあいたいとか、そういうこと、言われたことも、言ったことも一度もない。ただ、メールで今何してるか、なんてことをやりとりしていただけ。テレビばっかり見ている満流も、そんな満流のことばかり考えてしまう自分もいやだった。ただ、何となく惹かれるだけ。ちょっと見てくれがいいだけで、中身は空っぽ。私が落ち込んで、慰めてほしくたって、あの人は、隣でぼーっとしてる。彼氏って何。つきあうって何をすること? だいたいなんで話ができないのかわからない。なんで、気軽に話せなくなってしまったのか。縛られたくない、あんな人に。邪魔なだけで、何の役にも立たない。だけどその一方で……。誰かにすがりたい。彼が自分を思う、その気持ちがほしい。私を真正面から認めてくれる人がほしい。キラキラした澄んだ目で、私を見つめてほしいと思う。はにかむとちょっと斜めに曲がる唇で、私の名前を呼んでほしい。ばかみたい。自分で自分がわからない。


 いつものように満流とてつが帰りがけの自販機でコーラを買って飲みながらだべっていると、先に帰った祐二がチェックのシャツに着替えて、前方から自転車に乗ってきた。色白の頬が冷たい風でいつもにも増してピンク色に染まっている。クリクリの目と肌で、小さい頃はよく女の子に間違えられたけれど、今はぺちゃんこだった鼻も少しだけ高くなり、精悍な顔になってきた。身長もてつと満流の中間くらい。170センチ弱だけど、まだまだ成長中。

「塾?」

「うん、おれ、八洲高、めっちゃ危ねーけん。」

「ユウちゃんやっぱ八洲なん?」

てつが薄い唇をとがらせる。

「うちの親、うるせーから」

親のせいにしているけれど、本当は祐二自身、どうしても行きたいと思っている。八洲は、この学校の勝ち組が行くところ。ぎりぎりの立ち位置で、勝ち組に入りたいともがいてる。


 祐二を見送った後、てつが鷲鼻を膨らませて満流の肩をつかんで大げさに揺さぶる。

「みっ君は裏切ったらいかんよ。」



 祐二が目指している高校はこの地区のブロックでは一番レベルの高い公立の進学校。一方満流とてつはもっともレベルの低い大浜高校狙い。同じ公立高校だけど、大浜は毎年定員割れで、成績が悪くても、補導されただとかの大きな問題さえなければ、合格できると言われている。しかも家から一番近い学校。通うのも楽ちん。満流達がこの中三の二学期に、勉強なんかそっちのけで夜中に遊んでも余裕綽々でいられるのは、大浜なら大丈夫と踏んでいるところも大きかった。まあ、大浜にも入れないような素行の悪い奴でも、松山の私立I高校なら入れたし、選ばなければ高校なんて誰でもどこかには入れるもんだけれど。

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