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なにもできない

 コツン。窓ガラスに丸めた紙が当たる音。これを合図に満流はこっそり家を出る。てつもひろしももう顔を揃えている。

「おまえ、夜になると元気になるんやなあ。」

「当たり前やん、昼は寝る時間に決まっとろ。」

そう言ってひろしは猫背をさらに丸めて、さも得意げに鼻を鳴らす。昼間学校へ行っている奴なんかあほだと言わんばかり。ひろしは満流らと同級生だが、もうずっと学校へは来ていない。いわゆる登校拒否。日中限定の「引きこもり」だ。

 伸びっぱなしの前髪をうっとおしそうにかきあげながら。ひろしは自由で今を一番楽しんでいると満流らには思えてくる。

「これできる?」

小柄で運動神経のいいひろしが自転車のサドルの上に両足を乗せ、ゆるい坂道を下りる。あとの二人も負けじと挑戦。

 誰もいない道、誰もいない空間がそこにある。仲間達だけの時間が約束されたような気分になる。熱に浮かされたように、夜中になると遊びに出たくなる。周りから見ればただのバカだけど、チャリで皆とただ走り回っていれば、それだけでハイ。ちょっとしたことで笑えた。夏休みに入り、昼夜逆転し、昼間寝て、夜は遊んでばかり。


 だけど楽しいことなんてそうそう長くは続かない。夏休みもあっという間に終わって二学期。朝早く起きて学校へ行かなければならない。ひろしのようには生きられない。白が勝とうと青が勝とうとどっちでもいいのに、がむしゃらに学ランで応援する応援団を尻目に木陰にしゃがんでコーラで一服。そんなかったるい運動会の日、満流は二年生の女の子から呼び出された。元バスケ部だったから、顔くらいは知っていた。いや、白状すれば、みんなが胸がでかいと注目してたから知ってたんだけど。

 三浦えみり。よく見ると、顔は意外と幼い、アンバランスなちわわみたいな子。アドレス交換してください、というから、交換した。それからメールでのやりとりの始まり。前のパターンに似ていたけれど、違ってきたのはあの日から…。


 ピンポーン。念のため、ドアホンで確認する。つきあってるのにメールだけなんておかしいと言われ、じゃあ、うちに来るかと言ってみると、二つ返事。いや、つきあってるというのも、ちょと違う気もするけれど、まあ、そこは流して。

 ドアを開けると「やっほー」と手を振るえみりは襟元とそでをふわっとゴムで絞ってある白い綿のブラウスを着て、デニムのミニスカートをはいていた。膨らんだ胸元が、制服の時よりもさらに目立ってる。つい目が行きそうで、満流は上がれよと言って、先を歩いて自分の部屋に通した。

 えみりが部屋に入って、古ぼけた本間の八畳の部屋を「広いねえ」と見渡して、「あ、これえみりも持ってるぅ」とAKBのCD指さして、壁のマイケルジョーダンのポスターをしげしげと眺めて、「ふーん」なんて言ってる。

 でも和室から持ってきた座布団に二人で腰をおろしたら、もう、何もすることがない。だだっ広い満流の部屋にはテレビもないし、せいぜいCDなんかで音楽を聴く程度。家に来たからといって、取りたてて話すこともない。てつといる時みたいにDSしたり、銘々でマンガ読むわけにもいかないし。美咲なら、この部屋で俺のベッドに寝っころがって延々マンガを読んでたりするけれど、美咲は妹だし、小学3年生だ。同世代の女が何を好むかなんてわからないし、えみりのこと自体、ほとんど知らない。

 ベッドに寄っかかって、ぼーっとして、てつのとこに行った方がましだったな、と思い始めた時、えみりが下を向いて膝のデニムを握りしめているのに気がついた。

「え? 」

満流は体を起こし、えみりの正面に向き直る。だれてた気分が少し緊張。えみりはあきらかに、ただならない雰囲気を醸し出している。

「どしたん? 」

「だって。」

くぐもった声で振り絞るようにえみりが言った。

「満流くん、なんかつまらなそう……」

当たり。でも、今は、ちょっと変な気分になってきた。

 満流は上半身だけ伸ばして、座ったままのえみりに近づく。右手で髪に触れてみる。柔らかい髪から頬に手が触れる。顔を近づける。吸い込まれるように、下をむいているえみりを、下から覗き込んで、キス、してみた。

 唇と唇が軽く触れ合う。コロンの甘い匂い。シトラス系の匂いが鼻腔に広がる。胸の鼓動が早くなる。

えみりはびっくりした顔をして、そして、けろっと泣き止んだ。さらに満流はえみりを自分に引き寄せて自然に抱き留めた。もう一度、今度は強く唇を押しつけた。湿り気が感じられ、体がしめつけられる。そして、十四にしては発達の早い、えみりの膨らんだ胸を右手で掴んだ。気づいた時には手が動いてたんだ。

「やだ。」

えみりの突然の拒絶反応に手はたじろいであわてて引っ込む。

「ごめん。」

そう言ったけど、えみりは泣き出した。胸を押さえてまるで被害者のように。犯罪者か、おれは。気持ちは急激に下降。高揚が不快に変わる。鼓動は止まる。だいたいそんな恰好でうちに来て、突然隣で泣き出したら、こっちだって変になる。

「悪かった。」

目も見ないで言って、満流は立ち上がってどさっとベッドに座り込む。

「あー、めんどくさい。」

思わず言ってしまった。えみりに言ったつもりはない。自分の手に、この雰囲気に言ったんだ。なのに、つぶやくように吐き出した言葉は、えみりの耳にしっかり届いたようで、えみりはそのまま部屋を飛び出した。玄関のドアが開いて閉じる。満流はベッドに座ったまま。

「なんだよ。」

むしゃくしゃした。だから満流は自転車でてつのところに行く。気分直しだ。ねぼけまなこのてつを見て、なんか安心して、うれしくなった。てつの家に上がり込んで、てつとゲームをして、その後マンガを読んでたら八時を過ぎてしまった。あわてて帰ってきたけど一足遅かった。

 良子は洗い物を終え、流しの水滴をふきんで拭き取りながら肩越しに満流を軽く睨む。

「遅い!」

長崎家では、夜、良子が片づけを終えた後キッチンを使うものは、元の通り、水滴もなく、きっちり片づけねばならない。だから夜遅く、誰も流しを使わない。喉が乾いたら、水でも、ジュースでも、冷蔵庫から直接ボトルに口をつけて飲むのだ。築二十五年の古い木造住宅だけど、綺麗好きの良子のおかげで、床はいつもつやつや輝いている。ちょっと度が過ぎるところもあるけれど。


 「おまえなあ、一応受験生だろ、」

 自分で温め直したカレーをほおばりながら、松本人志のすっとぼけたギャグに笑っていると、リビングを覗いて良子はあきれ顔で言う。満流はテレビの音で何も聞こえない……ふり。良子はまだ何かぶつぶつ言いながら仕事部屋にしている奥の和室に向かう。

 電話のベル。妹の美咲と父親の正文はお風呂。電話はリビングとキッチンの境目にある。松本を目で追いながら、出ようとするとすぐに切れた。


 残りのカレーを一気に口にほおばって、言いつけどおり食器を洗い、固く絞ったふきんでシンクの水滴をきっちり拭き取ってから二階の自分の部屋に上がり、満流はまだえみりの匂いがかすかに残るベッドに寝転がる。天井をぼおっと見上げると、なぜか瞳とのことがじわじわとよみがえってきた。



 別れのメールをもらう一週間前くらいだったかな。突然瞳に呼び出された。期末テスト明けの放課後。三年生の教室の並びの端にある、あまり使われない奥まった美術準備室の前。北校舎二階の角、階段の踊り場と廊下の延長線の回りこんだ位置にあるので暗くてひっそりとしている。入り口の前には申し訳程度についた三段のステップ。メールで指定されたその場所の、二段目のステップに瞳が座り込んでうつむいていた。


 満流は落ち着かない。こんなとこに呼び出して何の用だよ。さっきから、うんともすんとも言わないで、ただ下を向いているだけだし。座ってる瞳の前でボーッと突っ立ってるのもなんだか間が抜けているので、満流は思い切って瞳の隣に腰を降ろした。瞳の左サイド、壁すれすれ。二人の距離は五十センチ。


 考えてみると、あの、修学旅行以来、メールだけで、話したことは一度もない。それ以前だって、面と向かって話したのはコーラの一件の時だけで、あの後何度も同じ空間にいたけれど、二人で直接やりとりしたことは一度もなかった。ミカや、てつ、祐二、誰かが必ず間にいて、言い合いをしていたから。今は、そんな外野はいつも気を利かせてすっといなくなる。それで、ますます話せなくなる。結局直接会うと、なんか付き合う前よりよそよそしい。メールの内容も相変わらず。


 お互い無言のまま、何分過ぎただろう。瞳がかすかに溜め息を漏らした。もう、外は薄暗くなりかけ。部活も終わったようで、生徒は残らず帰ってしまった。このまま学校でこうして居続けるわけにもいかない。

おれ、どうしたらいい?誰かに教えてもらいたい。満流は段々あせってくる。

 となりでかすかに髪が揺れた。盗み見るように視線だけずらす。瞳の黒いまっすぐな髪が、重力で顔全体にかかって、彼女の顔は見えなかったけれど、鼻をすする音が静まり返った廊下に小さく響いた。


 なに? なんで?

 どうしたらいいんだよ。満流はなにもできなかった。何も言えなかった。なす術がわからない。わかっていたかもしれないけれど、そんなドラマみたいなこと、自分ができるはずがない。視線を前方から隣に移すだけで精一杯だった。

 鼻をすするたびに髪が揺れて、数本の髪がはらりはらりと遅れて舞った。息遣いがすぐそこにある。息の温度が熱い。


 「誰かいるのか?」

北校舎全体を揺さぶるような、腹の底にずんと響く声にびくっとして前方を見上げると、芳村が間の抜けた表情で立っていた。

「おまえら、」

そう言って、ちょっとにやっとして、

「早く帰れよ。」

一言だけ残して踵を返そうとして、また振り向いて、

「長崎、責任持って送れよ。」

そう言って消えて行った。

 沈黙の空気を打ち破る、ありがたい芳村の言葉。救われる思いで、

「帰ろうか。」

やっと言えた。もう顔を上げて照れくさそうにしていた瞳も

「うん。」

たったそれだけだけど、声を出した。

 自転車通学の瞳は自転車を押して二人並んで、だけどお互い黙ったまま帰路を歩いた。当然満流の家に先に着く。芳村の言い付け通り、自転車で送ろうと思っていると、

「じゃあ。」

そう言って、さっさと瞳は自転車に乗って行ってしまった。

「待って、送るから。」その言葉は実際の声にはならなかった。

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