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たった二ヶ月のまぼろし

 粗大ごみから拾ってきた、サドルの破れたおんぼろ自転車はペダルを踏み込むたびにギシギシ擦れた音がする。今にも壊れそうな摩擦音にはおかまいなしに、力まかせにペダルを踏み込み、満流は焦って細い裏道から県道に出る。


 満流の家は学校で定められた自転車通学の範囲にすれすれアウトで、徒歩通学では一番遠いところにあった。だから、遅刻しそうな時はこっそり自転車を利用する。そして、学校手前の畑の脇に乗り捨てて、素知らぬ顔で校門に入るのだ。ここらあたりの畑は父正文所有の農地。農地と言っても今は遊ばせて、名目上細々と花木なんかを育てているだけ。自分の土地に自転車を乗り捨てるのだから、誰に文句を言われる筋合いもない。恋愛にはうとかったが、悪知恵だけはよく働く少年A。

 気持ちが浮ついていたからか、ただ、夜、DSをしすぎて寝過ごしてあわてていただけか、思いっきり自転車を走らせる満流には、カーブミラーに目をやる余裕なんてない。瞬間、大型ダンプカーが目の前に飛び込んできた。あっと思う間もなく、ぐしゃりと衝撃音がして、満流の体は宙を舞った。


 担任の芳村が朝から、ばたばたしていた。噂はすぐに広まった。

「3Bの長崎満流、交通事故だって」

「大型ダンプに轢かれたって」

「重体だって」

「死んだらしい」

 本人に携帯はつながらない。ぶっとんで壊れたのだ。


 「おまえばかだねえ、どうせならちょこっとでもかすってれば良かったものを。」

化粧しかけの能面顔ですっ飛んできた満流の母良子は、今は余裕の表情でコンパクトを覗き、口紅をくるっと回し、唇にダイレクトに塗りながら、憎まれ口をたたいた。

 満流は病院にいた。右足首を骨折したものの、いたって元気。おまけに車にはかすりもしなかった。ドライバーも自分には非はないの一点張り。満流が勝手にびっくりして自転車のハンドルを車とは逆サイドに切ったとたん、道路沿いの壁に激突して跳んだ。それだけ。

 松葉杖をついて、午後には退院できた。夕方、芳村が神妙な顔で家までお見舞いに来た。その後、てつと祐二も顔を見せた。良子が応対して、満流がケンケンで玄関に出ると、てつと祐二のうしろから、頭一つ高いミカが唇の端をへの字に曲げて「よう。」なんて笑ってる。そしてその下で、瞳が少し頬を紅潮させて、ほっとしたように目を細めてた。

 「大丈夫そうじゃん。」

ミカが瞳に目配せしてる。てつと祐二はにやにやしてるまま。明日は学校に行けると言うと、みんな一様に安心して、もう時間も遅いので、早々に帰って行った。

 良子が道路まで四人を見送って、帰ってくるなり感心したように言った。

「あんた、瞳ちゃんとつきあっとんやって?」

瞳の両親、開田夫妻は生命保険の外交員をしている良子の顧客で、良子は瞳とも面識があるのだと、満流はこの時初めて知らされた。


 まだ何か言いたげな良子を置いて満流は片足跳びで自分の部屋に上がる。引き戸をぴたりと閉めて、良子がついて来ないのを確認し、さっき良子がよそ見している間にさっと瞳から渡された、小さく折られた紙きれを丁寧に開いた。


 満流様

 朝、みんなの噂を聞いてびっくりしたんヨ。

 芳村っちに聞いたら、足の骨を折ったけれど、あとは元気だと聞いて安心したヨ。

 カルシウムをしっかりとって、はやく骨がくっつきますよーに。

 瞳のパワーを満流にちょっとあげちゃいます。


 蛍光ピンクに塗られた小さなハートマークがびっしり書いてあって、満流は一人、にやけ顔。良子の隙をついた時の、さっきの瞳の太めの眉の下のいたずらっぽいキラキラの黒目が焼き付いて離れない。ふっくらした頬を少し赤らめて。


 足をビニールで覆い、高く上げて、満流はお風呂に入った。手伝おうか、という良子の申し出はきっぱり断って。中一までは、良子の方が背が高かったし、まだまだつるんとした局部だったが、今はもう、そんなガキじゃない。身長も中学になってから二十センチも伸びて、百七十を越えている。


 翌日良子に付き添われて登校するとすぐに満流は校長室に呼ばれた。問題は、交通事故ではなく、自転車に乗っていたということの方。校則違反であることを肝に銘じ、今後は一切このような事のないように……と言うお説教を、満流はうつむいて、校長の太鼓腹をながめながら聞いた。腹に似合わぬ甲高い声だなあと思いながら。

 反省のかけらもなし。


 足以外はピンピンしていて、動かない分、逆にほかの部分は元気さを持て余した。誰にも邪魔されない、誰も来ない時間、自分の体からパワーを絞り出し、有り余るエネルギーを調整する。自然の摂理には抗えない、抗わないが、終わって、きちんと気持ちを切り替えてから、満流は瞳を思い浮かべる。枕を抱いて、「瞳」と囁いて唇を押し付ける。低反発枕がむにゅっとへこんで、じわーっと戻る。

 瞳は自分にとって、いつもきれいな存在。汚したくなかった。雑誌のグラビアを飾る半裸の女とは全然違う次元の存在。自然の摂理で、ふと瞳の顔が浮かびそうになるのを満流はいつもかき消した。瞳をそういう対象にしたくない。だから、手は伸ばせない。くっきりとした山形眉にくるくる丸い瞳。笑うとふにゃーっと三日月になるあの目と共に、頭の中で桃の香りがぱーっと広がる。実像のない一瞬の夢。


 運動部は総体に向けてガンバリ時の五月。片足ギブスの満流は思うように練習できない。まあ、もともとそんなにがむしゃらに練習していたわけじゃないんだけど、できないとなるとなんだか悔しい。上半身の簡単な筋トレをして、みんなの練習を見ながら、椅子に座ってボールを投げたりついたりするだけで時間をつぶす。


 三週間でギプスがとれた。簡易電気のこぎりでウイーンと切り開くと、ちょっと筋肉の落ちた右足が、ひざ下の窪んだ古傷と一緒にむき出しになり、良子がちょっと目を細めた。先生が動かしてみたり、握ってみたりして最終確認。大丈夫、今日からバスケも解禁。で、さあ、練習。最初は右足だけ赤ちゃんの足がついたようで、おっかなびっくりだったけど、二日目にはもう前と同じに走れるようになった。久しぶりに走り回って、気持ちよく汗をかいた。やっぱりバスケは最高。


 二週間後、張り切って迎えた地区大会。男バスは、みんなの期待通り、初戦敗退。キャプテンでエースの満流が骨折で三週間ブランクがあったから、なんてのは言い訳にもならない。どっちにしても地区大会で消える運命。ミカたち女子バスは余裕で優勝。新人戦に次いで、またもや歴然と刻まれる現実。中学三年、最後の試合。あっけなく幕切れ。すっきりしない。けど、まあ当然と言えば当然で、ミツバチがちくりと刺した痛み程度。


 総体が終わると同時に期末テストが始まった。やるべきはバスケじゃなく、勉強。こっちは骨折していてもできたはずなのに、テストの結果は、九十五番。西海中は周辺の小さな三つの小学校からなっていて、満流は小学校では成績は良かった。中学に入っても、一、二年の時は、勉強してない割にテストはよくて、三十番くらいになったこともある。それが、三年になって、この有様。四クラスで百四十名弱だから、上中下の下の部類。良子の嘆きを背中に、満流はどこ吹く風。

 別に成績なんかどうでもいい。かわいい瞳からのメールがあればそれでいい。相変わらずの「体操行くね」「テレビ見る」「寝る」のメールだったけど。それにこの前、階段の踊り場でちょっとした進展もあったし。思い出すとじれったく情けない気持ちにもなるけれど、同時に口の端が斜めににやけてしまう。並んで一緒に帰れただけで、それだけで、幸せだった。



 なのに、なのに、そんな矢先、これぞザ・青天のヘキレキ。

「やっぱり、つきあえない」

瞳から突然メールでお別れ宣言。新品の携帯電話を買ってもらったばかりなのに、殺風景な文字だけのメール。

 なんだこれ。崖からぬかるみに突き落とされ、頭まで沈んでしまうような途方もない出来事。恐る恐る「なんで?」と返したら、「体操に集中したいから」そこでメールもジ・エンド。胸のペンダントをはずして机の引き出しの奥に押し込んだ。泥まみれの疑問と一緒に。


 別につきあってるというほどのつきあいはない。メールして、学校でちょっと目が合うくらい。始まりだって、なんか魔が差したみたいなもの。どうってことない。翌日から、目も合わさない、ただのクラスメートになっただけ。たった二ヶ月のまぼろし。


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