猫は背中から落ちるのか
ネコは背中から落ちないという噂を聞いたのは小学校に入って間もない頃のことだ。当時六歳だった私はとてもその噂が信じられなかった。どんなときでも必ず着地できるなんて、物理法則に反している気がしてならなかったのだ。
ちょうどいいことに私の家はネコを飼っていた。白い身体のところどころに黒の斑点があるパンダみたいなネコで、名前は「まー」か「むー」か「めー」か「もー」だ。実はマ行であることした覚えていないが、まず間違いなく「みー」ではなかった。そんな安直な名ではなかったはずだ。
まー(仮称、以後これを通用する)は庭の日向で寝転がるのを趣味としていた。そのときの姿はいつも無防備そのものだった。野生の名残はかけらもなく、まして扶養者一族の末端である幼児の私に対してはことさら警戒心を欠いていた。
まーは簡単に捕まえることができ、持ち上げることもできた。気をよくした私は、自らの探求心にそそのかされるまま、まーをひっくり返して手を離そうとした。だが、落ちる直前にまーの身体が跳ね返り、私に飛びかかってびたっと張り付いてきた。
「ふぎゃー」と言ったのはまーでもあり私でもある。母がすっ飛んできてまーを引き離したとき、私の顔面は涙と汗と毛玉で汚れきっていた。
母はまーを叱らず、私を叱った。言葉が通じないまーよりも私に言葉を連ねるのは、当然と言えば当然か。だけれども私は納得できなかった。
私の行いは未遂に終わり、まーのひっかきは完遂されたという事実もあり、六歳の私はただただその不公平感に打ちのめされていた。つまるところ、話なんか聞いてはいなかった。
私はネコが怖くなった。誰かがネコのことを可愛いとか好きとか褒め称えても、素直に同調することができなくなった。そのうちネコのことが嫌いだとさえ言い張るようにもなった。
遊ぶことのなくなったまーは、私をひっかいた三年後に病に倒れてそのまま還らぬネコとなった。それ以来、私の生きる周辺からネコの姿はいなくなり、近づくこともなくなった。
神山君の話をしよう。
彼は私の後輩であり、同郷であり、私とは別の高校の卒業生であり、私と同じ美大生であり、だけど違う学科生であり、油彩画を専攻中であり、そしてもっとも忘れがちなことに、私の彼氏でもあった。
友達づたいに知り合った彼の初対面の印象は何を考えているのかわからない人であり、つきあい始めてから半年経った今でもその印象は覆っていない。私のことを好きだと言ってきたのは彼の方だ。それにも関わらず、神山君は私に何か能動的なことは一切求めて来なかった。
神山君が私に求めたのは、椅子に腰掛けてじっとしていること、つまりデッサンのモデルとなることだけだった。
家賃もほどほどなアパートの一室で、神山君の絵筆の擦過音が響いていた。とても静かだ。遠くから電車の踏切が聞こえ、カラスの羽ばたく音も届いたが、総合的にみれば何もかもが静かの範疇に収まってしまっていた。
神山君は私から見て右側の斜め前にいる。
長い前髪を後ろに流した色白の横顔が、ちょうど視野のぼやけたところにある。ちょっと顔を動かしてピントを合わせれば、彼のつるりとした童顔が見えるだろう。かっこいいかといわれれば首を捻りたくなるが、かっこわるいかと言われるても首を横に振りたくなる。顔立ちだった。
私をモデルにした何かが描かれているはずのキャンバスは神山君の正面にある。私からでは目の淵の外側に隠れてしまっており、見ることはできない。気にはなっているのだが、神山君は完成するまで見せたくないと言い張ってしまっていた。
絵を描いているときの彼はとても集中している。時折私に向けてくる視線はただ私の全身を観察するための味気ないものでしかなく、腕は常にキャンバスを駆けめぐるのに忙しい。それにもかかわらず、もし多少とも動こうとしたらすぐに察知して、少年のようなか細い声で「動かないで」と言うだろう。
彼といるのは、穏やかな風に包まれているのと同じだ。気づかない人はそれが特別な風であることにも気づかない。私にとって彼は空気のようなものであり、彼にとって私は同じように空気の一種なのだろう。動くことができるかどうかの違いしかない。
この部屋にいることはとても楽だった。じっとしていることで、私は私としての存在意義を十分に満たしている。神山君との約束が、契約書も金銭も関係ない純粋なる口約束がそうさせている。
神山君がなぜ私に好意を抱くのは、それを私は知る由もない。
「動かないで」
神山君の声がした。
私は眠っていたらしい。妙に近い位置に私の下腹部が見えて、自分の頭が垂れているのに気づいた。持ち上げた首からごきりと嫌な音がした。
「ごめん。気持ちよくて、つい」
口の端に涎の温みを感じる。熱くなる頬を片手で包む。神山君の真剣な顔が、短いため息とともにほころんだ。
「もう少しで一区切りつくから、それが終わったらお茶にしよう」
神山君は後輩に見えない。落ち着いた雰囲気は天性のもので、その精神は常に同年代より高い位置にいるに違いない。それでいて低くない声のもたらす落差が印象的に耳に残る。
神山君は不思議な人だ。まったく遊ばず、まったく疎まず、全くもって人らしくない。彼の観察対象としてある身分は、だからか不思議と心地良い。
「良くないと思うけどね」
友人の三田さんは思いの外強い口調で言い放った。
「どういうこと?」と私。
「何もないままでいることについて。腕を組んだこともないんでしょ?」
「うん」
「それでつきあっているって言える?」
「えっと」
「言えないでしょ」
三田さんの物言いが私の淀みを切って捨てた。失われた言葉に思い馳せる間もないまま、三田さんの指が私に突きつけられる。
「つまりね、あなたは神山君の歯牙にもかけられていないのよ」
「シガ」
そのまま繰り返そうとしたのに、まるで違う抑揚になった。
「あなたは神山君に恋人として見られていないの」
三田さんの言葉がさらに強くなった。ちょっと大袈裟だ。きっと彼女の心の中ではバーンとかドーンとかの擬音語が流れているに違いない。
大学の学食なんて、広さはそれなりにあれども、千人を超える学生全てを抱えられるほど寛容ではない。三田さんの声に目を丸くした隣席の他人たちの一瞥が折り重なるのを感じ、私は顔を俯かせた。
「泣く前にまず十分に反省しなさい。自分は神山君とどんな関係を築きたいのか」
他人の視線にまるで動じていない三田さんは私の俯きを悲しみと誤解したらしい。
「べつにどんな関係だって構わないよ」
「そんなことないでしょう。ううん、きっと今はわかっていないだけなのよ。
君は優しいから、相手を許しがちなの。だけど、お願いだからもっと自分の身を案じて。気づかないうちに重荷になって、気づいたときにはどうにもならなくなっていることだってありうるんだから」
言うまでもなく、三田さんの語気は強かった。
指図されることを普通の人は許さないだろうが、三田さんは何より私の親友だし、それに彼女がそう強気になる理由だってわかっていた。三田さんは私と同郷であり、この美大の同じ学科に所属していて、何よりも、神山君を私に紹介した人なのだ。
当然、神山君が変わり者であることくらい三田さんだってわかていたはずだ。それにもかかわらず責められるのは私ばかりである。ここにも小さな不公平。私は特に咎めない。きっと彼女に悪いから。
三田さんによる人生相談は不定期開催だ。それはいつも彼女の気まぐれにより唐突に始まり唐突に終わる。今日だって、学食の空席がまばらに目立ち始めた頃にはもう違う話題へと移り変わっていた。
週末にどうするこうするといった話を耳で受けながら、私の頭の中だけがいつまでも神山君の影にしがみついていた。
クラスで発表された生徒のイラストがずらりと展示された図書館の通路にて、私と神山君は出会った。彼を連れてきた三田さんは勝手にどこかへと行ってしまい、残された私と神山君は適当な挨拶の後、ぎこちなくイラストの鑑賞を続けた。
生徒のイラストなんてものは知り合いでもない限り碌なコメントが思いつくようなものではない。私たちはあっけなく沈黙に包まれた。
私の描いた絵はには動物ばかりが詰め込まれていた。ひたすら体毛を描きたかった時期だったのだ。数千本もあるがために決して完璧に描くことはできない毛という集合体にどのように存在感を持たせるのか、その工夫や苦労や面白さを、仮にも専攻している学徒として説明してあげた。
神山君は物珍しそうに目を輝かせて聴き入ってくれた。絵が好きな人なんだとは思った。まさか私のことを好きになるだなんて微塵も思わなかった。
もっとも三田さんによれば、神山君の好意は学生間同士でもてはやされるそれとは別種のものであるらしい。
しかしそれがわかったところで、私に何をする必要があるだろう。どんな好意であろうとも、心地よいならいいではないか。
それともその心地よさは、そのうち私にとっての毒となりうるものなのだろうか。
「動かないで」
ハッとした。私はまた眠ってしまっていたのだ。
「最近疲れてるの?」
神山君が首を傾げる。
「うーん、昨日三田さんと遊んだときに散々連れまわされたからかも」
「君らしいや」
そういって、屈託なく彼が笑う。かっこよくもなく悪くもなく、男っぽくもなくもちろん女らしくもない、つるりと丸い普通の笑顔。
君らしいとは、どういうことだろう。理由を聞こうとする前に、神山君が口を開いた。
「まるでネコみたいだったよ」
「え」
私の声は、そこで止まった。頬が引きつり、それ以上何もつづけられなかった。
私はネコが嫌いである。
そのことを、神山君にももちろん話したことがある。勘違いではないはずだ。
何か言葉が続くと思った。自分の発言の問題に気づいて、「ごめん」とか、短くても素っ気なくてもいいから謝ってくれれば、それだけですべてを許してあげられると思った。
もともと大したことではないのだ。こんなことくらいで本気で怒るわけがないのに。
「今日飲み物切らしちゃったから、何か買ってくるよ」
流れるように外へと出ていく神山君は、一度として私を振り返らなかった。
動きたくなかった。返ってくるまで椅子に座っていようと最初に思った。だけど、神山君もいないのに止まっていることは途轍もなく無意味で、空虚で、辛かった。諦めてカーペットに膝と着くと、合成繊維のごわごわした無数の毛が私を迎えてくれた。
アパートの二階の小部屋。地面からは離れているが、隣の建物は超えられない。窓の景色は青空と壁が二対八。庭に生えた細い木が、弱々しい緑を広げている。
ベランダにはよく神山君の洗濯物が吊るされているのだが、今日はもうすべて取り込まれてしまっている。面白味のない光景を、それでも暇つぶしにぼんやり眺めていた。
そこへ突然、本当に突然に、ネコが現れた。
太っていた。毛並みも揃っておらず、薄汚れている。おそらくは野良猫なのだろう。黄色い目玉をきょろきょろ動かして、やがて私を補足した。
私の呼吸が浅くなる。蛇に睨まれた蛙のごとく、ネコに睨まれた私。
ネコはベランダに降りてきて、首を回し、窓ガラスに前足をくっつけた。肉球についていた泥と脂の痕が残る。
びくともしない窓ガラスを見て、ネコは嘆息を漏らしたように見えた。私に向いていた目が逸れて、ゆったり進み、驚異的なジャンプ力でベランダへと跳び上がる。
姿が見えなくなったところで、私の金縛りが解けた。それでも私は動かなかった。何かが私の身体の中を忙しなく駆け巡った。
ネコたちが自分を傷つけうると知っているために、私は彼らのことが怖い。逆に言えば、彼らを卑小とみなせる人だけが彼らを可愛がれるのではないか。
逆に言えば。
私はすぐに行動に移った。部屋の押し入れを引っ掻き回して油絵具をかき集めた。つんとした匂いが広がる。もう何かしたことは隠せないだろう。そうとわかれば決意もたやすい。
神山君のキャンバスにはとんでもなく綺麗な人がいた。女神のようだ。彼には私がこう見えているのだろうか。それとも私をベースにして、身体の何もかもを神々しく光らせたのがこの人なのだろうか。彼の思考はよくわからない。少なくとも、その女神が私をモデルにしたとは到底思えなかった。
だから都合が良かった。
勢いに身を任せて、ありったけの油絵具を足の裏に塗りたくった。長ったらしい名前の書かれたチューブを潰し、色が飛び出し足を染める。溢れた絵具が床に迸った。
濁りに濁った足の裏をゆっくり伸ばしてキャンバスに触れ、長い時間をかけて踏みにじった。
女神の私の微笑みの下、誉れ高いお腹のあたりに黒々とした足形がついた。絵具はまだたっぷり残っている。
私は同じことを繰り返した。二歩目は肩に、三歩目は腰に、四歩目は腿に。
神山君は驚くだろう。怒るだろうか。泣くだろうか。何でもいい。何かを思えばいい。何か思ってくれなきゃ困る。
五歩目を顔につけるために、私は赤系の絵具を潰してキャンバスに蹴りを入れた。女神の顔が赤く爛れる。慣れない動きで脚が攣りそうになる。
キャンバスは倒れ、私も倒れた。沼のように広がった油絵具が私の身体を湿らせた。腹も肩も腰も腿も、色に塗れた。思わず押さえた顔面は、さぞや真っ赤に染まったことだろう。
遠くでネコの声がした。
(了)