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前編

立てこもり事件が起きて、8時間が経過した。

事件が起きたのはぼくたちが住む町で、午後4時頃のことだった。

元暴力団の男が、息子と娘を銃で撃ち、妻を人質にして、自宅に立てこもったのだという。

「妻」が「人質」とか、「自宅」に「立てこもり」とか、成立しそうにない言葉の組み合わせにぼくは戸惑い、学校から帰ってきた妹を部屋に招き入れてテレビの前で事件の経過を見守った。

犯人が所持した銃の射程距離が300メートルであることから、渦中の家の半径300メートルは警察によって道路が封鎖され、近所の大学では家に帰れない学生を校舎内に宿泊させることにしたそうだ。

「よかった、もう少しで帰れなくなるところだった」

妹はそう言って、ぼくにもたれかかった。ぼくはその小さな肩を抱いた。

静かな住宅街は、ときどき小学校のそばに変質者が出たり、交通事故が起きたりするくらいで、何年か前にはすぐそばで万博が行われたりしたけれど、こんな事件が起きたことはぼくたちが生まれてから一度もなかった。

警察官がひとり撃たれ、5時間後にようやく救出された。

その救出劇で、SATの隊員がひとり撃たれた。23歳の機動隊員は意識不明の重態だ。

「かわいそう」

妹は言った。

ぼくは、それは違う、と言った。

警察官になる、ということは、殉職することも覚悟の上ということなのだ。

ニュースは変わり、母親を殺してその頭部を交番に持参した少年についての続報をキャスターは伝える。父親は、母親を殺害した少年の親ではなく、殺害された母親の夫として手記を書いたという。

それも違う、とぼくは思う。

親になる、ということは、自分のこどものすべてを背負う、ということなのだ。

誕生日に息子に殺されて頭部を切断されたとしても同情すべき点は一点もないし、妻を息子に殺されたとしてもそれが間違いであるならば父親として息子を律するべきなのだ。最後まで。

ぼくは妹にそんな話をした。

「お兄ちゃんは冷たいね」

キャスターは再びたてこもり事件の続報を伝える。機動隊員が死亡した。

「ひきこもりのくせに」

犯人はまだ立てこもっている。

妹はつないでいた手をはなして、部屋を出ていった。

まだ温もりの残る右手を見つめながら、ぼくは3日前から机の引き出しに入っている【拳銃】について考えていた。




夢を見ない夜は嫌いだった。

寝てしまったら次の瞬間には朝になってしまうから。

隣の部屋の妹の目覚まし時計の音が嫌いだった。

新しい一日の始まりを告げる音だから。

壁に白い【チョーク】で記した正の字の棒の数が今日もまた増える。

ひきこもり生活307日目。

チョークをどこから拝借してきたのかぼくは記憶になかった。最後に学校に行った日、教室からくすねてきたのだろうか。ある朝床に転がっていた気もする。

手の中のチョークに一瞬違和感を覚え、ぼくは瞬きを繰り返した。それでも違和感は消えてはくれない。

妹は寝起きが悪く、始まりを告げる音は何度も鳴っては止まり、また鳴りはじめる。携帯のアラーム音も鳴り始めた。

何度目かのアラームでぼくは睡眠を諦める。

目やにでくっついた瞼を開けるには少し時間がかかる。

ぼくは今朝見た夢を思い出しながら、ゆっくりと瞼を開けはじめる。


自動販売機でドミノ倒しをする夢だった。

ピラミッドの建造にかりだされた奴隷のように、ぼくは自販機を背負って運び、ぼくが並べる横で田村正和が無邪気なあの刑事の顔で笑いながら自販機を倒すのだ。

またはじめからやりなおし。

ドミノは結局完成しなかった。


「麻衣、いい加減起きなさい」

階段の下から五分おきに母の声が響く。

その声がぼくは嫌いだ。

妹がようやく布団からもぞもぞと起き上がる頃、ぼくのまぶたは開く。

まぶたは開いてもまだ体は思うように動かない。指先が動くようになるまで五分、手足を自由に動かせるまでにさらに十分、起き上がるにはそれから三十分はかかる。

十時間以上寝ても体の疲れはとれず、疲労は日々蓄積していく。

妹の部屋のドアが開いた。

「わかってるってー」

妹がはだしでぺたぺたと階段を降りていく。

いつも変わらない毎朝の音。

「おにーちゃん、あさごはーん」

「やめなさい、どうせおりてこないわよ」

母のお決まりの台詞。

「行ってきまーす、お父さん」

遺影の父はいつも寡黙で、

「おにーちゃん、わたし先に学校行くからねー。遅刻しちゃだめだよー」

妹は今日も元気だ。

「麻衣、学のことはそっとしときなさいって何度言ったらわかるの!」

母は朝から耳障りだ。

「ごめんなさーい。じゃ、行ってきまーす」

「あ、麻衣、わすれもの!」

ぼくは目を開ける。

そして、目を疑った。

目を覚ますとぼくの部屋に【自動販売機】があった。




妹が学校から帰る音を聞き、ぼくは部屋のドアにつけられた幾重もの鍵をひとつひとつ解錠する。

階段を登ってくる妹を、ぼくはドアを少しだけ開けて部屋に招きいれた。

「何これ」

それが、昨日ぼくの部屋に突如現れた自動販売機を見た妹の第一声だった。

「自動販売機」

ぼくはその質問に淡々と答えるほかない。

「それは見たらわかるけど、何でまたお兄ちゃんの部屋に」

ぼくは首を横に振る。

「本当は昨日見せたかったんだけどさ、昨夜はバレエ教室だったろ」

ぼくは頭をかきながら妹が伸ばしてきた手をつないだ。

「それに何か変だよ。何て言ったらいいのかな、ここにあるのに、ここにない、みたいな」

それはぼくも感じていた。

まるで写真から切り取った自販機を別の写真に貼りつけたような違和感があった。だけど確かにここにあるし、触れることができた。

そういえば、机の引き出しの中の拳銃もそうだった。

「夢遊病の気があったっけ?」

「ないよ。あったとしてもこんなものどうやって運ぶんだよ」

「ひきこもりのお兄ちゃんの自我に抑圧されたもうひとりのお兄ちゃんがなんとかかんとかー」

「なんだよ、それ」

「わかんない」

「使えるの?」

「うん」

ぼくは自販機に携帯をかざしてペットボトルを一本買って見せた。

「しかも携帯で買えちゃうんだ」

「飲む?」

「お兄ちゃんは飲んだ?」

「うん。飲んだよ。変な味はしなかった。普通のコカコーラ。でも、これ、ちょっと変でさ」

ぼくはペットボトルのラベルの賞味期限が書かれた箇所を指差した。

妹は何度もまばたきを繰り返してそれを見る。

「何これ」

そこにはモザイクがかかっていた。

ラベル自体にモザイクがかけられているわけではなく、ぼくたちの目がそれを見るのを拒否しているかのようにモザイクがかかっている。

テレビのモザイク映像を見ているようだった。

「な、変だろ」

「うん、変」

妹も携帯で一本買った。

そしてぼくが一口飲むのを確認してから口をつける。

「普通においしいね」

自販機には妹が好きなミルクティーもあった。ぼくは携帯をもう一度かざしてそれを三本買う。ミルクティーは温かかった。妹に手渡すと、

「あ、ありがとう」

嬉しそうに笑う。ぼくは妹の笑顔がとても好きだ。

「ほしくなったらまたあげるよ。だから」

「だから?」

「母さんには言うなよ」

「うん。あ」

妹はミルクティーの賞味期限を指差した。

「これにもモザイクかかってる」




ひきこもりをしていて困るのは毎日をどうやり過ごすかということに尽きると思う。

妹が学校から帰ってくるまでの八時間あまり、ぼくには何もすることがなかった。

何もすることがないというのは楽なようで案外厄介だ。

ひきこもりはじめたばかりの頃は、したいことがたくさんあった。

妹にお金を渡してブックオフで漫画やゲームを買ってきてもらった。

だけど漫画は十冊程度なら1日で読み終わってしまうし、ゲームも3日もあればクリアしてしまう。

読みたい本もしたいゲームも貯金もすぐになくなった。あまり経済的じゃなかった。

今では週に一度ジャンプを買ってきてもらうだけだけれど、それもやめようかと考えている。先週号でぼくの好きな漫画がふたつも打ち切られたばかりだ。

インターネット上のおもしろいと評判のサイトもあらかた読み終えてしまった。

ゲームもほとんどプレイ済みで今はもうごみ箱にもない。

無料のオンラインゲームをはじめてみたけれど、3日でやめた。

はじめてパーティを組んだ魔法使いの女の子が誘ってくれたミクシィもすぐに飽きてやめてしまった。2ちゃんねるも「ひきこもりは帰れ」というような書き込みをされてから覗いていない。

とりあえず、ぼくと同じように時間をもてあましている人たちはネット上にはたくさんいる、ということはわかった。

だけどそれだけだ。

ぼくはその人たちと同じ時間を過ごしたいとは思わなかったし、彼らだってそうだろう。

ブログスペースを借りてこの日記を書きはじめたのはそんな理由からだ。

ただ妹が帰ってくるまでの時間を潰せさえすればいい。

だからぼくはコメントもトラックバックもいらない。

妹とお金を出しあって買ったDVDレコーダーが、今日も1日中テレビドラマや映画を録画しつづけている。

録画したそれらを見ていれば、毎週何十時間かは時間を潰すことができた。

お金がないの再放送を見ていると妹が帰ってきた。

「またやってるんだそのドラマ」

呆れたように溜め息をつく。

織田裕二にはいつもお金がない。

ぼくにないのは一体何だろう。




今朝のぼくは珍しく行動的だった。

母や妹より早く起き、パジャマ代わりのジャージの上にジャンバーを羽織り、ニット帽を目深にかぶる。

洗面所の鏡に映るぼくが、ぼくであることがわからないことを確認すると、一度部屋に戻り、そして、数ヶ月ぶりに家を出た。

ぼくたちの住む団地にある粗大ごみ置き場に向かった。

薬局や不二家のマスコットを抱きかかえて。


昨日の朝、目が覚めるとぼくは【薬局の蛙のマスコット】を抱いて眠っていた。

窓の下、道路から2階に手を振る妹を見送った後もう一度眠り、夕方目を覚ますと今度は【ペコちゃん】を抱いていた。

そして今朝、ぼくは【バス停】を握り締めていたのだった。

バス停は予想外だった。すでに二個、捨てるものはあったし、たとえ増えることがあってもマスコットものだろうと思っていた。

おかげで粗大ゴミ置き場まで二往復するはめになってしまった。


本当は粗大ごみに出すのではなく、元の場所に返したかった。

しかし、店舗や停留所の名前がわかる箇所にはモザイクがかかっていて、読むことができなかった。

それに、ひきこもりのぼくには、粗大ゴミ置き場を往復することができるのかさえ疑問だった。

案の定、ぼくはバス停を捨てて帰る頃にはくたくたに疲れてしまっていた。

台所では母がテーブルの上に2人分の朝食の準備をはじめていた。テレビでは今日もまだたてこもり事件の続報をやっていた。

「あら珍しいわね。どこ行ってたの?」

母がぼくに声をかけた。とんとんとん、と包丁が何かを刻んでいた。

「恥ずかしいからあんまり出歩かないでくれない?」

母はぼくを見ようともしなかった。


ぼくは部屋に戻り、布団に入った。妹を起こしてあげようかとも思ったけれど、やめておいた。

昨日妹が言った通り、どうやらぼくには夢遊病の気があるのかもしれない。

ぼくが眠っている間、「ぼく」は部屋のドアにつけられた何重もの鍵を開けて、街を徘徊しているのかもしれない。

その間、ぼくは「ぼく」が持ち帰る何かにまつわる夢を見ている。

それにしても、とぼくは粗大ごみ置き場で舌を出して笑うペコちゃんを思い出して思った。

よくもまぁ白昼堂々盗み出してきたもんだ。




「棗先生? ええ私です。加藤学の母です。今夜会えないかしら? うふふ。やだわ、先生ったら。学のことはもう諦めましたわ。先生にお会いしたいんですの。だめかしら? やったあ、うれしい。楽しみにしてるわ。うん。きれいにしていく。じゃ、麻衣のこと今日もよろしくお願いしますわね」

下の階から、1オクターブ高いよそゆきの母の電話の声が聞こえてくる。

母は、ぼくの担任だった教師と不倫している。

きっかけはぼくの不登校とひきこもりと、父の死だった。

8ヶ月前のある朝、目を覚ますとぼくは学校に行くことができなくなっていた。

その一ヶ月後のある朝、【父】が階段をころげ落ちて死んでいた。

父の葬儀から一週間後のある朝、母が女の声で電話をするようになっていた。

母の不倫相手はひとりではなく複数いて、全員が父の葬儀に参列した男たちだった。

母は今夜の相手を探して電話をかけ、断られると次の男に電話をかける。

相手を見つけると仕事に向かい夜中まで帰ってこない。

帰ってくる母は食事も風呂もすませているらしく、寝室に直行し音はすぐに聞こえなくなる。

玄関の扉が開いて、閉じ、鍵がかけられる。

母の軽自動車が仕事へ向かう。


母が不倫をしている夢を見た。

母は代わる代わる何人もの男たちに抱かれて、あえぎにもおえつにも聞こえる声をあげていた。

ぼくと妹は部屋のすみでそれを見ている。

ぼくは妹の目を手で覆い隠し、耳を両手で塞がせている。

男たちは皆裸で、首にカメラをさげていた。

自分の番を待ちながら写真を撮り、代わる代わる母を抱いた。


目を覚ますと、ぼくの部屋には母の【不倫写真】が床一杯に敷き詰められていた。

写真の右下には日付が入っていたけれど、またモザイクで見えない。




昨夜【母】は帰ってこなかった。

ぼくはひさしぶりに部屋を出て、母の寝室に不倫写真を貼るという作業に疲れ、すぐに眠ってしまい、

「お兄ちゃん、お母さん帰ってないみたい」

そのことを今朝、ドアごしに妹から知らされた。

今朝は夢は見なかった。

「お兄ちゃん、あのね、麻衣はこれから学校行くから、お母さんが帰ってきたら冷蔵庫に昨夜の夕飯の残りが入ってるからチンして食べてって伝えてね」

妹が家を出たすぐ後から、家の電話は鳴りっぱなしだ。

どうも母は今日仕事を無断欠勤したらしい。

ぼくの部屋に子機はなかったから、ぼくは電話に出なかった。

電話が鳴るたびにぼくは一本コカコーラを買った。56本買っても、コーラは売り切れにはならない。

母は昨夜妹の担任の棗と約束をしていたはずだ。

今も棗といっしょなのだろうか。

それとも棗は何食わぬ顔で何も知らない妹の教室の教壇に立ち教鞭をふるっているのだろうか。

妹が帰ってきたら棗が学校に来ていたかどうかだけ聞いてみようと考えていると、妹が帰ってきた。

妹は、棗に憧れている。

学校の話は、いつも棗の話。

聞けなかった。

また電話が鳴った。

63本目のコカコーラに手をのばすと、妹が電話に出た。

「もしもし、加藤です。あ、お母さん。うん、うん、わかった。うん、麻衣はだいじょうぶだから」

妹が受話器を置く。

電話は母からだったらしい。

妹が階段をのぼってくる。

「お兄ちゃん、お母さんもう帰ってこないって」

妹は泣いていた。

「ふたりきりになっちゃったね」

ぼくは部屋に妹を招きいれた。

「お金は心配いらないって。お母さんといっしょにいる人、お金持ちなんだって。毎月わたしの口座にふりこんでくれるって」

妹の肩が震えている。

「だから心配しないでね。お兄ちゃんはわたしが守ってあげるから」




> 学くん、あのね、


中学時代の同級生が次々と行方不明になっていることを、ぼくは宮沢理佳からのメールで知った。

行方不明になったのは【秋月蓮治】、【花柳宗也】、【神田透】、【氷山昇】、【真鶴雅人】、【山汐凛】、【大和省吾】の7人。

皆、二年前の中学の生徒会のメンバーだった。


宮沢理佳は生徒会長を務めていた。

長い黒髪と、細いフレームのメガネが、いかにもお固い生徒会長といった印象で、はじめて彼女を見たときからぼくは彼女が少し苦手だった。

ぼくは書記を務めていた。

発言の内容から重要な点だけをまとめて書き記す、ということが書記の本来の仕事なのだろうけれど、ぼくにはとても難しく、議会でのすべての発言を一字一句たがわずノートに書きとめていた。

まとめるということができないから、勉強も教科書の丸暗記くらいしか出来ず勉強時間のわりに成績は伸び悩んでもいた。

当時のぼくはそんな自分にコンプレックスを抱いていた。

「学くんがやってることの方がずっと難しいよ」

みんな加藤くんみたいにできないから、まとめる、ということを覚えたんだと思う、と理佳は一度だけ、ぼくを誉めてくれたことがあった。

次期生徒会の役員が決まり、ぼくたちの生徒会が今日で活動を終えるという、そんな日のことだった気がする。

ふたりきりの生徒会室だった。

「学くん、あのね、」

あの日も、彼女はそう言って、その後に続く言葉を部屋に入ってきた仲間達が邪魔をした。


行方不明になった7人は、置き手紙を置いて家出した者もいれば、誘拐された疑いのある者、神隠しのように家族の目の前でふっと消えた者もいたらしい。

「死体は?見つかってないの?」

ぼくは短い返信を送信した。


> 馬鹿。なんでそんなこと言うの?

>

> でも、学くん卒業してからはじめてメールくれたね。

> 皆で集まろうってメールしても学くん返事もくれなかったのに。

> ねぇ、学くん、今から会えないかな?


「会えない」


> ごめんね。

> 学くんが今どうしてるのかってこと、秋月くんから聞いてる。

> でもわたしなんだかこわくって。

> あのときの生徒会のメンバー、もうわたしと学くんだけだし。

> 次にいなくなるの、ひょっとしたらわたしかもしれない。

> こわいの。

> 加藤くんに会ったら少し安心できると思うんだ。


「無理だよ」


> そう……。

> 学くん、あのね、ひょっとしたらもう学くんにメールできなくなっちゃうかもしれないから、

> あのとき、言いそびれたこと、メールで送ります。

>

>

>

> わたしね、学くんのこと好きです。



ぼくは返事を返さなかった。


ぼくは宮沢理佳のことが少し苦手だった。

彼女はぼくの初恋の女の子だったから。




数日前粗大ごみ置き場に捨てたはずのバス停やペコちゃんがいつの間にか部屋に戻ってきていた。

どうやら捨てられないほど大事なものだったらしい。

今朝はそこに【マネキン】が加わった。

「まったく迷惑極まりない」

学校から帰った妹は、ぼくの気持ちを代弁するように、しかしぼくに向かって言った。

「こんなの一体どこから盗んでくるのよ」

ぼくが知りたかった。

目が覚めたらマネキンを抱いて寝ていた兄の気持ちも少しは考えてほしかった。

固い乳房に顔を埋めて、強く押し当てていたせいか額に赤くあとがのこり、まだ消えてくれない。

「お兄ちゃんは夢遊病で、欲求不満なんだね」

マネキンの固いけれどそれなりにスタイルのいい裸を横目に、妹は少しやきもちを妬いているように見えた。


ゆうべぼくはマネキンに悩みを打ち明けられる夢を見た。

「わたしね、いつも同じ方を向いてるでしょ。首がね、こるんですよ。すみませんが、湿布、もってません? あーやっぱりないですよね。じゃすみません。ちょっともんでもらってもいいですか。叩いたらだめですよ。頭痛くなっちゃうから」

マネキンは名鉄メルサだかセブンだかに所属していて(デパートをまるで芸能プロダクションのように話した)、将来はナナちゃん人形のようになりたいのだとぼくに夢を語った。

ナナちゃんは、彼女にとってエビちゃんみたいなものなんだろう、となんとなく理解した。

「ナナちゃん、こないだまで旅行してたでしょう? マネキンが旅行するなんて過去にないことよ。わたしたち同業者は全員耳を疑いましたよ。わたしだって若手の才能あるデザイナーがデザインしたようなかわいいお洋服を一度くらい着てみたいんです。もういやなんですコシノ・ロンドン。わたしはね、ナナちゃんくらいビックになりたいんです」


「この子はさ、一度でいいからかわいい服着てみたいんだってさ」

ぼくは妹に夢の話のつづきをした。

「え? 何の話?」

マネキンはローティーン向けのお店に置かれていたものらしく、妹と背丈があまり変わらなかった。

「何か服着せてあげてよ」

兄のひいき目かもしれないけれど妹は結構おしゃれだし、とてもかわいい。

「あとね、ナナちゃんくらいビックになりたいんだって」

ナナちゃんが着てるような高い服は持ってないだろうけれど、君にもきっと似合うと思う。

「え? だから何の話?」




【宮沢理佳】が行方不明になった。

行方不明者はこれで8人目だ。

進展のないたてこもり事件の代わりに同じ町で起きた相次ぐ行方不明事件をマスコミがかぎつけてテレビで取り上げ始めた。

「お兄ちゃん起きてる?」

妹が部屋の外からぼくに声をかけた。口の中に何か物が入っている。歯を磨いているのか、何か食べている途中なのか。たぶん後者だ。妹は今日も寝坊だった。

「ニュース見た? 宮沢理佳さんてお兄ちゃんの好きだった人でしょう?」

妹は、ぼくのことは何でも知っている。

「心配だね。テレビじゃ家出か誘拐かって騒いでたけど……、家出だといいね」

「たぶんもう会えないよ」

なんとなくそんな気がした。

宮沢理佳はもう、この世界のどこにもいない。そんな気がする。


妹が家を出た。

ぼくはいつものように窓の下で手をふる妹を見送ろうとした。

しかし窓の下の妹は、スーツ姿の男ふたりに何やら話しかけられていた。

一度だけ妹はぼくを見上げて、男のひとりが妹の視線の先に気付く。小さく会釈をした。

話は終わったらしい。

若い男は手をふって、妹を送り出す。

会釈をした男がぼくたちの家のインターフォンを鳴らした。

13回目のインターフォンでぼくは階段を降りていくことにした。

男たちは刑事だった。

玄関の覗き穴を覗くと、二冊の警察手帳をぼくに見せていた。

ぼくは仕方なくドアを開けた。

会釈をした男は安田といい、若い男は戸田というそうだ。

「愛知県警の者です」

安田刑事はいかにも叩き上げといった感じで、戸田刑事はキャリアっぽかった。着ているスーツが違う。

「あぁ。たてこもりの件ですか。大変ですね、もう一週間でしょう?」

渦中の家の方角で銃声が鳴った。キャリアの方がびくっと体を震わせる。

「200発、でしたっけ。あの人が持ってるっていう弾の数」

「あー、確かテレビでそう言ってたなぁ。君、よく見てるんだなぁ」

「まぁ、近所のことですし。なかなかこんな事件ないですから。今ので、確か63発目ですよ」

銃声にももう慣れてしまった。田圃の鳥おどしの空砲と何も変わらない。

「あ、いやいや、今日お伺いしたのは別件で」

叩き上げの方が汗も出ていないのにハンカチで顔を拭いた。

「こないだSATがヘマやって警視庁が出てきちゃったでしょ。県警はもう出る幕ないんですよ」

「おい、おまえ余計なこというなよ」

叱られた戸田刑事は、さほど気にしていない様子だった。

「君、加藤学くんでしょう?」

「ええ、まあ」

「お友達の連続行方不明事件、ご存じですね? あの件です」




潮の薫りが濃い海に面した町で、携帯電話の電池がきれてしまったぼくは、しかたなく電話ボックスに入った。

ぼくは誰かに電話をしようとするのだけれど、携帯電話が電池切れでは誰の電話番号もわからないと気付き、途方にくれた。

町が津波にのまれる。

津波はぼくのいる電話ボックスものみこみ、電話ボックスはぼくを乗せたまま処女航海をはじめた。

太平洋へ。

電話ボックスは船のようでもあり棺桶のようでもあった。航海士も船大工もいない。船医もいなければ、コックもいない。砲撃手も船長すらいなかった。ぼくは飢えと寒さに苦しんだ。

航海49日目の朝、ぼくはまだ生きていた。

生きたまま鳥についばまれ、体の半分は骨や内臓が見えていた。ぼくは体をついばむ鳥を捕まえては食べていた。わざと血を海に流し、よってきた魚にまた食われながら食べた。

受話器を手にとり、たったひとつだけ覚えていた電話番号のボタンを押した。


電話の音で目が覚めた。

左手で体中を触って、内臓が飛び出していないか、肉がついばまれてはいないか確かめる。

大丈夫だ。

だけどなぜだか体中が痛かった。

いつもモノクロで、活動写真のような夢は、内臓にだけ鮮やかなピンク色をこぼしていた。ペンキをこぼしたようなショッキングピンクの内臓はそのくせやけに生々しく見えた。

体が痛いのはリアルな夢を見たからなのかもしれない。

電話はけたたましく鳴り続ける。

なぜ誰も電話に出ないのだろう。

父は?

死んだ。

母は?

よそに男を作った。

妹は?

学校に行ってしまったのだろうか。

電話は1日中やみそうにない。またコカコーラを63本も買うはめになってしまう。

仕方がない。

起き上がろうとして、ぼくは右手に何かを強く握り締めていることに気付いた。

緑色の受話器だった。

螺旋に巻いた同じ色のコードが公衆電話につながっている。

電話ボックスはぼくの部屋のベッドに座礁していた。

受話器を置くと電話は鳴りやんだ。




十畳もある広い部屋に、ぼくの居場所はなかった。

広すぎてどこにいたらいいのかわからなかったし、六畳半の部屋で我慢している妹を思うと気が引けた。

妹がぼくの部屋を訪ねてくれたときだけ、部屋にはぼくの居場所ができた。

ただ妹のそばにいればよかった。

狭い場所が好きだった。

小さな頃閉じ込められた屋根裏や物置。

クラスメイトに閉じ込められた、掃除道具入れ。

粗大ごみ置き場の冷蔵庫。

だから昨日から電話ボックスがぼくの居場所だ。

公衆電話が頭の上に来るように、体育座りをして、受話器から伸びたコードを指で遊ぶ。生前父が集めていたテレホンカードを差し込み、タウンページの無作為に開いたページの目についた番号に電話をかけた。

電話回線はどこにもつながっていないはずなのに呼び出し音がなり、やがて受話器の向こうから「もしもし」声がした。

ぼくは無言で、相手が腹を立てて電話を切るのを待つ。

それを1日中繰り返す。

「もしもし、もしもし、もう、いたずら電話かしら」

受話器の向こうは若い女だった。

「どうした?」

男の声が少し離れて聞こえた。

「あ、あなた、おかえりなさい。やあねえ、いたずら電話みたいなの」

困ったような口ぶりだが、声は明るい。

「電話番号出てるだろ?あんまりかかってくるなら警察に言えばいいさ。さ、お腹の子にさわるといけないから」

「そうね、そうする。あれ?やだ何これ気味が悪い」

「下着の色でも聞かれたか?」

「ナンバーディスプレイにモザイクがかかってるの」

ぼくは受話器を下ろした。


汚れたガラス越しに見るぼくの部屋は狭く、汚かった。

十畳の部屋には自販機があり、薬局の蛙のマスコットやペコちゃんがいて、バス停があり、電話ボックスまでもある。

机の引き出しには拳銃がある。

窓の下には今日も【刑事】がいた。




妹が帰ってきた。

今日は階段をのぼる足音に元気がない。

そういえば今朝も元気がなかった。

目覚まし時計を一度で止めて、ドアが開いて閉じた後、足をひきずるように階段を降りていった。

それきり音も声も聞こえなかった。

ぼくは時計を見た。

ぼくの部屋には時計がなかったから、時間を確認するときはいつも携帯電話の待ち受け画面だ。

240ピクセル×320ピクセルの小さな液晶に、写メの中の妹が泣いているようにも怒っているようにも見える作り笑顔をしているはずだった。


ひきこもりはじめたばかりの頃、ぼくは妹さえも拒絶してこの部屋にたてこもった。

ドアの向こうからぼくを説得する妹に汚い言葉を浴びせ掛けたりもした。

ぼくをこの部屋から出すことを最初に諦めたのは父で、その次が母だった。

妹もそれ以来ドアの向こうからぼくに声をかけることはなくなった。

その代わりに携帯にメールを送ってくるようになった。

受信拒否をするとすぐにメールアドレスを変更してまたメールを送ってきた。

50件まで登録できる拒否リストはすぐにいっぱいになり、ついにぼくはメールを受け入れることにした。

内容はやはりぼくを説得するようなものばかりで、ぼくは返事を返さなかった。すぐ読むことさえしなくなった。

しかしメールは毎日届き、しかもそのメールはドアの向こうからいつも発信されていた。

いつもピ、ポ、パというボタンのプッシュ音が聞こえていた。その音がとても耳障りだった。


> プッシュ音消せよ


とうとうぼくは返事を返してしまった。

すると今度は携帯のカメラのシャッター音がした。


> やっと、お返事くれたね


そこには妹の写真が添付されていた。

ご褒美、らしい。

ドアを開ければすぐそこに妹がいる。

会いたい。

だけどぼくにはドアを開けて妹に会う勇気がなかった。

だからぼくはその写真を待ちうけ画像にすることにした。


その日からドアを一枚隔てて、ぼくたちのメール交換がはじまった。


時刻は午後4時13分。

待ちうけ画像は妹ではなく、auのロゴに変わっていた。

【妹の写真】は携帯のどこにもなかった。




妹は日記のような文章を毎日のようにぼくに書いて寄越した。

ぼくはその日記にコメントをつけるような感覚で返事を返した。

魔法使いの女の子に誘われてはじめたミクシィと違って、それはとても居心地がよかった。


> お兄ちゃんも今日何してたか教えてよ


> ゲームしてた。すぐやめちゃったけど。


> どうして?


> この部屋にあるのは全部もう何回もクリアしたから


> じゃぁ、今度何か買ってきてあげようか?

> 何がいい?


そしてその翌日、妹はぼくが頼んだゲームを持って帰ってきた。

その日はじめて、ぼくは妹を部屋に招きいれた。

ぼくは8人の主人公から選んだ盗賊にぼくの名前を入れ、妹は「ぼく」が奴隷商人から助けた遊牧民の女の子を自分にすると言った。仲間の名前は変えられなかったけれど。

ぼくたちは主人公を変えては何度も冒険の旅に出かけた。そしてその度に違う物語を紡いで、最後には世界を救った。

強力な武器と防具と引き換えに妹を死神の生贄に捧げようとして本気で怒られたこともあった。


楽しかった。


今日ぼくは、妹が帰ってくるまでの間、ひさしぶりにプレイステーション2の電源を入れて、妹には内緒で冒険の旅に出かけることにした。

あのとき買ってきてもらったゲームが部屋にない。

箱も説明書も確かにぼくの部屋にある。

だけど、ディスクがない。




銃声が聞こえた。

例のたてこもり犯人だ。

第一報で元暴力団員と報じられた男は、実は拳銃やたてこもりとは無縁のはずの男で、マスコミが謝罪したのは数日前のことだ。

ただ、動機も、拳銃と二百発の銃弾や覚醒剤を手に入れた経緯もまだわからない。

彼はZIP−FMの熱心なリスナーらしく、人気番組への出演を希望した。

毎晩十分程度だけ外国人きどりのしゃべり方が鼻につくDJとの対談は人気コーナーになっていた。

男は対談の最後に曲を紹介し、番組側がその曲を用意できないと警官をひとり射殺した。

殉職者は八人に増えていた。


「さぁ今日も皆さんお待ちかねのこの時間。古戦場跡町でたてこもり中の佐野さんの登場です」

「……佐野、です」

「ねぇ、佐野さん、たてこもり事件、今日で何日目でした?」


佐野、というのがたてこもり犯の名前らしい。佐野友陽、という。ゆうよう、と読む。


「こないだ古戦場跡のアピタに行ったら『防弾チョッキ入荷しました』って。行列ができてましたよ」

「……」

「佐野さん、ラジオ出てるんだからもうちょっとトークしてくださいよ〜」

「……」

「ねぇ、佐野さんさ、何でこんなことやっちゃったの?」


番組と佐野は携帯電話で繋がっている。

この番組の元々のリスナーは佐野が登場した時点でラジオを切り、その代わりに佐野の熱心なファンだけがヘッドフォンに耳をすます。

逃げられないように両手足を撃ち抜かれた人質の元妻のうめき声が聞こえる、とネットでは評判だ。

佐野は黙ったまま何も喋ろうとしない。

元妻のうめき声を聞かせたいんじゃないか、という説も出るほど、彼はいつも寡黙だ。

沈黙を埋めるためにDJが喋る。


「曲、行こうかな。謎の自殺を遂げたシドニー・ロックスとレナ・ブルージーのツインボーカル、ロック好きの間じゃ伝説のアメリカンロックバンド。エボルーション・クライシスのルートラムダ」


しかし、伝説のアメリカンロックバンドも前奏だけで終わってしまった。

佐野が喋りはじめたからだ。


「拳銃はあの朝、目を覚ましたら握ってたんだ。

 前の夜にもそんなものはなかった。確かに、なかった、はず、なんだ。

 テレビじゃ元暴力団員だなんて言われてるけど、俺は普通のサラリーマンで、前科もない。

 ただ夢を見たんだ。

 拳銃がでてくる夢だった。

 何とか警察24時、みたいな番組を見たせいだと思う。

 何ヵ月か前から、似たようなことが何度もあって、覚醒剤や銃弾もそうやって手に入れてしまった。

 神の水、も手に入れた。

 目を覚ましたら自転車に乗ったまま転んだみたいに寝ていたこともあった」


ぼくの隣で宿題を片付けている妹が、よく聞いておいたほうがいいよ、と笑って言った。


「何度も捨てようと思った。

 だけどその度に捨て犬みたいに戻ってくるんだ。

 捨てられないんだ」


DJは笑いを堪えている。


「夢に見たものが朝になると手元にいつもあるんだ。

 医者に診てもらったよ。

 でも相手にしてもらえなかった。

 それだけじゃない。

 夢を見なかった朝には大切なものがなくなってるんだ。

 人質のこの女も、俺が撃ったふたりの息子と娘も、俺から離れていきやがった。

 それはきまって夢を見なかった朝だった」


この男は、ぼくと同じだ。


「大切なものは次々となくなって、がらくたばかりが増えていくんだ」


ルートラムダがかかる。

この曲は佐野のリクエストなのだろうか。


「ありがとう。今夜はとても気分がいい。また警官がひとり死ぬよ」


またひとり射殺された。


「お兄ちゃんだけじゃないみたいだね」


妹が笑ってる。



今日も学校から帰った妹をぼくは部屋に招き入れた。

妹は相変わらず元気がなく、昨夜のようにすべてを見透かしたような笑顔もしてはいなかった。

「どうかしたの?」

「なんでもないよ」

作り笑顔ではぐらかされた。

妹の写真がすべて、携帯からもアルバムからも紛失していることを妹は知っているだろうか。

聞けなかった。


昨夜も夢を見なかった。

たてこもり犯の佐野がぼくと同じなら、ぼくも何かをなくしているのだろうか。

部屋は散らかって足の踏み場もなく、何がなくなってしまったのか確認することさえできない。

ぼくと妹は爪先立ちで移動した。

「なんかすごい部屋になってきたね。自販機は便利だけど」

妹は財布から小銭を出してポカリスウェットを買った。喉がかわいていたのか、ペットボトルの半分を一気に飲んだ。

夏服のセーラーが濡れている。

雨が降っていたのか、ぼくは言った。

「朝からだよ」

朝かららしい。

妹はため息をついた。体をぶるぶるっと震わせて両手で半袖から伸びた両腕を抱き締める。

「寒い……」

「風邪ひくよ。着替えてきなよ」

いつのまにか衣替えの季節になっていたのだ。どうりで蒸し暑いはずだ。梅雨入りはもうしたのだろうか。たてこもりはまだ続いている。

「いいの」

妹は言った。

「麻衣が風邪をひいたらお兄ちゃん看病してくれるでしょ?」

いつもの妹だ。

「電話ボックスはいらないなぁ。これもいらない。あれもいらないね。マネキンなんか特にいらない」

文句を言いながらぼくのベッドに腰かける。シーツが濡れた。

「捨てたらいいのに」

「捨てられないんだ。捨てても戻ってくる」

「……机の引き出しの中のもそう?」

シーツの染みが次第に大きくなる。

「拳銃が入ってるよね」




今日も雨が降っている。

今からこんな様子じゃ梅雨が思いやられる。

「今日も刑事さんが外にいたよ」

帰ってきた妹にそう告げられ、ぼくは窓の下を見た。

例の二人組がぼくの部屋をじっと見ていた。さしずめぼくは行方不明事件の次の被害者候補であり、容疑者、といったところなのだろう。

刑事は傘もさしていなかった。

「中に入ってもらう?」

妹が言った。

「いいよ。雨に濡れるのが仕事なんだよ」

ぼくはカーテンを閉めた。


----四ヶ月前に、お父さん、なくなってますね?なんでも階段から転げ落ちたとか。お母さんのことも妹さんから聞きました。行方がわからないそうですね。男の人といっしょにいるからだいじょうぶ、という話だそうですが。お母さんは後妻で妹さんは連れ子なんでしょう?ご近所の方から聞きました。あなた、新しいお母さんとうまくいってなかったそうですね。


妹よりも白い、というよりは青白い腕で、濡れた妹を抱き締めながらぼくは刑事の言葉を思い出していた。

「実は私どもはあなたを疑っているんですよ」


「ねぇ宿題、手伝って」

妹はそう言ってぼくにプリントを差し出す。

日本史のプリントだ。

ぼくはそれを受けとり机の上に広げた。




「いい夢を見る方法?」

妹は雑誌から顔を上げず、ぼくの質問を反復した。


拳銃の出現以来、ぼくを悩ませる一連の妙な出来事は、どうやら夢に関係しているらしい。

そして佐野というたてこもり犯の独白によれば、夢を見なければ大切なものをひとつずつ失うというのだ。

ありえない話だけれど、現実に起きている。

父の死や母の失踪は関係ないだろうけれど、部屋にはがらくたがあふれ、同級生は行方不明になった。妹の写真も消えた。

わかっていることはほとんどないに等しいけれど、今はただ夢を見よう。

夢を見続ければがらくたは増えるけれど何も失わずにすむ。

ぼくはそう考えていた。


妹が見ていたのはローティーン向けのファッション雑誌だった。

ラブ&ベリーの小学生みたいな格好をしてるくせに、とぼくは思う。

中学三年になる妹は、背が小さく幼児体型で童顔で、いまだに小学生に間違われる。

身長はたぶん150センチないだろう。

ぼくも背が低く163センチしかないのだけれど。

「今幸せな人は不幸な夢を見るって聞いたことがあるよ。逆に不幸な人は幸せな夢を見るんだって」

ページをめくりながらそう言った。

「お兄ちゃん、今幸せでしょ? だから不幸な夢しか見ないんじゃない?」

いじわるそうに笑った。

「あとは――枕の下に好きな人の写真を置いて寝ると、その人の夢が見れるんだって聞いたことあるかも。好きな子がいるなら試してみたら?」

「好きな子なんて、いないよ」

「うそつき。こないだ行方不明になった子は何よ」

「あれは、昔の話だよ」

なんだか浮気の言い訳をしているような気分だった。

「この子でいいんじゃない? パソコン使ったら写真くらいすぐに手に入るんだし」

雑誌には妹と同じくらいの年頃のココという名前のモデルが載っていた。

西洋の人形のような、フリルがたくさんついた洋服を着ていた。

「何、この服」

「ロリータじゃないの。よく知らないけど」

「こういうの着てみたいと思ったりする?」

「全然」

モデルが着ている服の値段に、ぼくは絶句した。

「なんでこんなに高いんだ、これ」

軽く十万を越えていた。

「あーもう、そんなこと麻衣になんか聞かずにパソコンで調べたらいいのに」

妹は不機嫌だった。

バスルームで自動湯はりが終了したことを告げるアラーム音が鳴った。

「お風呂沸いたみたい。服脱ぐからあっちいって」

妹は言い終えるより先にセーラーをベッドに脱ぎ捨てた。

「ここ、ぼくの部屋なんだけど」

「うるさい」

ぼくは妹の裸を見ないように布団を被った。


妹が部屋を出て行った後で、ぼくは布団からもぞもぞと顔を出した。

セーラー服が脱ぎ捨てられている。本当にここで脱いでいったのだ。

机の上に開かれたままの雑誌に手を伸ばす。

ロリ服、か。

ぼくは起き上がり、クローゼットを開いた。

中に入ってるロリ服は、先ほどぼくが値段に絶句したものと同じに見える。

エミリーテンプルキュート、というブランドのものだと雑誌を見てわかったが、クローゼットの中のそれはブランド名がわからないようにモザイクがかかっており、相変わらず写真から切り抜いたような違和感があった。

「どうしたものかな」




カントリーマアムを食べながら妹が札束を数えている。妹が数えているのは福沢諭吉だ。

ぼくは五千円札と夏目漱石、それから紫式部を担当した。五千円札の男はいつも名前がわからない。

十枚数えたら十枚目で九枚を挟み、十万の束をひとつ作る。そのたびに妹はカントリーマアムをひとつ食べた。

ぼくが袋に手を伸ばすと叩かれてしまった。

カントリーマアムはあっという間になくなり、結局ぼくは妹の食べかけをひとつもらっただけだった。

「太るよ」

「カントリーマアムで太るなら本望だもん」

一束十万の札束が109束。

それ以外の札束が815万円分。

1824万円あった。

「で、これ、一体どうしたの?」

数え終えた妹が不審そうにそう聞いて、はっと気付いたようにテレビをつけた。

リモコンが見当たらず、テレビ本体でチャンネルを変える。


首相年金問題の争点化けん制、男性患者が女性看護師を刺す、高1の3人が山陽道の車に投石、練習試合で俊輔60分間プレー、カブスのバッテリーが殴り合い、松本監督あいさつ照れっぱなし、「20歳イヤ」長澤まさみ泣く


「銀行強盗とかじゃないから」

そう言ったけれど妹はぼくの机の引き出しに手を伸ばした。

そこには新聞紙にくるまれた拳銃が入っている。弾は六発。リボルバーからは取り出してある。

そういえばリモコンを一週間程見ていないということにぼくは気付いた。携帯電話も最後に見たのはいつだったろう。

汚い部屋だ。

「じゃ何よ、このお金」

新聞紙にくるまった弾の入っていない拳銃を握り、

「それにこの拳銃は何よ」

銃口をぼくに向けた。

ぼくは部屋の至るところにあるガラクタを指差す。

「これとかあれとかそれとおんなじだよ。朝起きたらあったんだ」

ペコちゃんが頭の足りなそうな顔でぼくを見ていた。ロリ服を着たマネキンが居心地悪そうにしている。蛙のマスコットはさっき妹がつまづいて首がとれてそのままだ。

「なんでマネ子がエミキュ着てるの?」

エミリーテンプルキュートの略らしい。

「その服も昨日朝起きたらあったんだよ」

妹はまたため息をついた。

「また夢遊病?」

夢から持ち帰ってきたんだ、と言おうとしたけどやめておいた。

「わかんない」

妹の助言の通り、ぼくは昨夜いい夢を見る方法を試してみた。

枕の下に好きな子の写真を敷いて眠るとその子の夢を見れる、というやつだ。

好きな子の写真の代わりに、ぼくは別の写真を枕の下に敷くことにした。

古いテレビ情報誌の見開きの広告ページを開く。

持ってるだけでお金がざっくざっく入ってくるという、龍の刺繍の入った金の財布。六万円。

「持ってるだけでお金が入ってくるなんてそんなうまい話があるわけがないと思ってたんです」

どうせやらせなんだろうけれど、いかにも成金といった感じの家族が札束風呂に入って悦に入っている、人はここまで醜くなれるという見本のような写真だった。

そしてぼくは夢を見た。

目が覚めたら1824万もの大金を手にしていたというわけだ。

説明するのも何だか馬鹿馬鹿しい。

「使えるのかな、このお金」

中心にちゃんと透かしは入っている。

本物と見比べてみても印刷の具合や大きさが違うということもない。

部屋の自販機では使えたから、偽札ではないのだろうけれど、そもそもこの自販機からして怪しいのだからあてにならない。

紙幣番号にモザイクがかかってるのが厄介だ。

相変わらず切って張り付けたような違和感もある。

「何かほしいものある?」

ぼくは妹にそう言った。




一年近いひきこもり生活でぼくは頭髪の大半を失った。

不摂生が原因だろう。

わずかに残った頭髪は実にみすぼらしく、妹に頼んで風呂場でスキンヘッドにしてもらった。

大槻ケンヂみたいでかっこいいな、とぼくが言うと、妹は誰それ?と口をぽかんと開けた。

知らない?目にこう、雷のメイクをした、たまにタモリ倶楽部とか出てるじゃんか、麻衣はタモリ倶楽部なんて見ないもの、そんなやりとりをした。

いつかのようにニット帽を目深にかぶり、札束を鞄に詰め込んで、ぼくはひさしぶりに町へ出た。

妹はついていくと言って聞かなかったけれど置いてきた。

たてこもり事件の渦中の家の半径200メートルをわずかにはずれた場所にぼくの家はある。

立ち入り禁止の黄色いテープがはられた道路と、その手前に人形のように立つ警官。マスコミの車も、カメラやマイクを持った人達も、野次馬も、めっきり減ってしまった。

ぼくは戸田と安田という二人組の刑事に会釈だけした。刑事はぼくに気付かなかったのか後をつけてはこなかった。

万博のあと取り壊しの工事が始まり、その途中で工事が取り止めになったモノレールの廃駅で、ぼくは鞄から一万円札を一枚だけ抜き取った。

目の前にあるアピタ古戦場跡店に入り、「防弾チョッキ入荷しました」のチラシを確認だけして正面のエスカレーターで二階に登る。二階を左手に進むと玩具売り場がある。双子のこどもがぼくを左右から追い抜いていった。

ぼくは左の子の腕をつかみ、その手に一万円札をねじこんだ。

長い髪の、女の子と見間違えそうな男の子だった。

強くつかんだつもりはなかったけれど泣きそうな顔をした。

もうひとりが、片割れがついてきていないことに気付いて足を止めて振り返る。

その子も泣きそうな顔をしていた。

やっぱりこういうのは妹にまかせればよかった。そう思いながら、

「これで何でも好きなものを買いなさい」

ぼくは双子に言った。

双子はレジの前に並んだカードゲームを大胆にも大人買いした。

6300円です、ぼくがねじこんだ一万円札を店員に差し出す。

「何これ」

店員はすぐにその一万円札の違和感に気付いた。

「いちまんえん」

双子が声をそろえて言った。

「どうした?」

「主任、これ。この子たちが」

「なんだこりゃ。偽札、か」

「きみたち、これ、お母さんにもらったの?」

双子はまた泣きそうな顔をしている。

ぼくはあわててマネキンの陰にかくれた。

「んーっとね、あの人。あれ?」




「お兄ちゃん支度できた?」

階段の下から妹がぼくを呼んだ。

「まーだだよ」

かくれんぼをするように、ぼくは返事を返した。

シャワーも浴びたし、歯も磨いた。髭も剃った。妹が選んでくれた服も着た。

だけど気分が乗らなかった。

窓を開けて、ぼんやりと今日も降り続ける雨を見ていた。

相変わらず二人組の刑事が窓の下にいて、安田です戸田ですと声は聞こえないが口を動かしていた。

たてこもり事件の佐野は、あの日以来ラジオ出演をやめた。マスコミももう事件にはほとんど触れない。

雨はやまない。

刑事は今日も雨に濡れていた。

「病院の予約、11時だよ。三十分前には受付すませないといけないんだよ」

今日は二ヶ月に一度の、通院日だった。

ぼくはひきこもりだけれど、病院に通院している。

ぼくは潰瘍性大腸炎という病気を患っていた。大腸の一部かすべてがただれ、激しい腹痛と下痢と粘血便、嘔吐と発熱にさいなまれる、現代の医学では完治が難しい原因不明の難病のひとつだ。

大腸全摘出という治療法もあるが、基本的に完治することがないため、治療は一生続けていかなければならない。

この病気の患者の大半は、症状がおさまっている状態と症状が出ている状態を何度も行ったり来たりする。

大抵は薬と食事制限によって症状をおさえることなる。

ラーメンとカレーが食べられなくなる病気、とこの病気について説明するあるサイトには書かれていたけれど、まさしくその通りで、元々好きではなかったことが幸いして丸一年食べていない。

「なぁ、もう6月なんだよな。特定疾患の申請始まってるよな」

難病のため、申請が受理されれば税金から医療費が支払われる。申請は毎年6月1日から始まる。

「そうだよ。だから今日は診断書を書いてもらわなくちゃいけないんだからね」

妹の声が大きくなったかと思ったら、すぐ後ろにいた。

「なんかそんな話、榊先生もしてたなぁ。あ」

榊先生はぼくの主治医の女医だ。初診からぼくを担当し、潰瘍性大腸炎と診断されるまで二度も誤診した、おっちょこちょいな医者で、白衣や聴診器がコスプレ衣装にしか見えない。

ぼくは鞄から前回渡された紙を一枚取り出し、妹に差し出した。

「ごめん、これ、忘れてた」


――予約時間より二時間程度早く受付をすませ、血液検査を受けてください。検査の結果を元に、診察を行います。


「今何時だっけ?」

「10時半」

妹は笑っていたけれど、怒っていた。

これ以上怒らせると3日間口を聞いてもらえなかったりするかもしれない。

ぼくは慌てて階段を降り、靴を履いた。

「朝のお薬は飲んだ?」

「それがさ、見付からないんだ、【薬】」

妹に思い切り頭を叩かれた。




結局ぼくと妹は、予約した診察時間にすら間に合わなかった。

診察は後回しにされてしまった。

ぼくたちは外来の患者らしくおとなしく名前が呼ばれるのを気長に待つことにした。

妹は付き添いのため午後から登校すると棗に伝えていたようだけれど、結局昨日は学校を休むことにした。

英単語を覚える妹の横で、ぼくは売店で買ったジャンプを読んだ。サムライうさぎという漫画が最近始まった漫画の中ではお気に入りだ。読み終わるとすることがなくなってしまった。テニスの王子様とボーボボは読まなかった。

救急車で今にも心臓が止まりそうな患者が運ばれてきたらしく、榊先生がその処置にあたっていると看護師から聞いた。元気な心臓もとめちゃうような人だから心配だわ、と看護師は言った。案の定、急患の心臓はとまったらしい。えぐえぐと泣きながら廊下を歩く榊先生を見た。診察が再開された。

妹も、英単語の暗記に飽きたのか、ぼんやりと診察室のドアを眺めていた。

「病院は嫌いだな」

妹はそう言った。

「ここに来ると、お兄ちゃんが病気になって苦しんでたときのことを思い出すの。お兄ちゃんはずっとお腹を手で押さえてて、何度もトイレに行った。あそこのトイレよ。覚えてる? トイレに行って、下痢をして、出てきたかと思ったら、またお腹を押さえてうずくまってた。段々呼吸がおかしくなった。過呼吸になって、麻衣はあわてて看護婦さんを呼んだの。お兄ちゃんはベッドに寝かされて、だけどお医者さんは誰もお兄ちゃんを診てくれなくて、麻衣にはビニール袋が手渡された。お兄ちゃんの口と鼻にあてるように言われた。麻衣は言われた通りにした。お医者さんに診てもらえないままお兄ちゃんが死んじゃったらどうしよう、どうして麻衣は救急車を呼ばなかったんだろう、麻衣が後悔しても泣いてもどうにもならないってわかってたけど、麻衣にできることはそれくらいしかなかったんだ」

ぼくはそのときのことを何も覚えてなかった。

だけど、妹がずっと手を握っていてくれたのは何となく覚えていた。

嬉しかった。

このまま死んでもいいと思えるくらい。

「それは看護婦さんだよ」

妹に言われて、ぼくは心底落胆した。

「血圧はかるのがすごく下手な人で、オロオロして、ずっとお兄ちゃんの手を握ってたの」

ぼくはなんて病院にかかってしまったんだろう。

「うそだよ」

妹はぼくの手を握った。

ぼくはその手を握り返した。

診察室のドアが開いた。

「加藤、学さん」

看護士がぼくの名前を呼んだ。




榊先生は、相変わらずコスプレ衣装のような白衣を着て、聴診器を首にさげて、ぼくを診察した。

白衣の下にセーラー服を着ていた。

「どう? 似合うでしょ」

先生が何を考えているのかわかりかねたぼくは、曖昧な笑みを浮かべた。

「似合うって言ってよ。学くんに見てもらいたくて着てきたのに」

先生は、ぼくのことを学くんと呼ぶ。

「似合い、……ます?」

「何で疑問系なのよ」

先生は頬を膨らませて、やっぱり現役の女子中学生にはかなわないかな、と言った。

「今日は妹さんは?セーラー服の」

「外で待ってます。今日は遅くなっちゃったからもう学校休むみたい」

「そう、相変わらず、仲いいんだね」

「兄妹ですから」

診察は2分もかからない。

下痢や粘血便が出ていないか、と聞かれて、出ていないと答える。

ベッドに寝るように言われ、シャツをめくってお腹を出す。

先生が指でお腹の数箇所を強く押し、痛くないかを聞かれる。

「問題ない、みたいね。血液検査も問題ないみたい。診断書は書いておくから、そのうち事務から電話があると思うよ」

妹のことを聞かれて、不機嫌になって、淡白な診断をされる、いつも通りだ。

あとは会計を済ませて、外の薬局で薬をもらうだけだ。

「ねぇ、薬のことなんだけど、今ペンタサを2錠ずつ飲んでもらってるよね。飲むのやめてみない?」

そう言って、先生は一冊の本をぼくに差し出した。

潰瘍性大腸炎はこうして治す−薬をやめて免疫を高めて難病克服体験記、とあった。

「わたしの恩師がね、その人も医者なんだけど、学くんと同じ病気で、ずっと薬を飲んでたんだけど最近こんな本を書いたの。わたし何だか感化されちゃったみたい。自分の患者で試してみたくなっちゃって」

榊先生は、こういう人だ。


「ぼくはさ、たぶん麻衣より早く死ぬと思うんだ。大腸癌が体中に転移するとかそんな感じでさ」

帰り道、バスの中で、ぼくは妹にそんな話をした。

薬は、処方されなかった。

妹は乗り物に酔いやすいくせに、先生から手渡された本を読んでいて、そこに書かれていた爪揉みという薬に頼らない治療法というのを早速ぼくに試していた。

この病気の患者は、数年後に大腸癌になる可能性が飛躍的に上がる、と入院時にもらったパンフレットにはそう書かれていた。

「たぶん癌はその頃になっても治せないだろうな。ぼくが想像してるよりもずっと痛い思いをしなきゃいけないんだろうな。ぼくは堪え性がないから、死にたいとか殺してくれとか麻衣に言うかもしれないな」

バスにはぼくたちと運転手しかいなかった。

「でも、ぼくはそれでも1日でも長く生きたい。少しでも長く麻衣といっしょにいたいんだ」

妹は黙ってぼくの話を聞いていた。そして、

「いっしょにいるよ」

と言った。

運転手がミラー越しにぼくたちを見た。何だか笑われているような気がした。

「ひきこもるの、もうやめようと思うんだ。学校にも行く。留年しちゃうだろうけど、仕方ないよな。大学は行けそうにないから、卒業したら就職する。そしたら」

ぼくはその頃19で、妹は16だ。

「そしたら、結婚しよう」

妹は驚いた顔をした。

「兄妹なのに?」

当然の疑問を口にする。

「血、つながってないからできるよ、たぶん」

ぼくたちはふたりともまだこどもで、何もわからないけれど、おとなになればきっと難しいこともどうにでもなる。

「いいよ。結婚してあげる」

妹は頬を赤らめてそう言った。

ぼくたちは前の座席の陰に隠れてキスをした。




3日が過ぎた。

佐野のたてこもりはまだ続いており、ぼくもまだひきこもりを続けている。

「ひきこもるの、もうやめようと思うんだ。学校にも行く。留年しちゃうだろうけど、仕方ないよな。大学は行けそうにないから、卒業したら就職する。そしたら」

妹と約束をした。

「そしたら、結婚しよう」

明日から、という言葉を免罪符にして、ぼくは3日間を過ごした。

「そんなことだろうと思った」

妹は呆れるようにドアの向こうでそう言って、ぼくは「よくわかってるじゃないか」と開き直り、唇を指で触れた。

あの日から唇に指で触れる癖ができた。

妹の唇の感触を思い出して、その度に良心が痛む。

嘘をつこうとして、あんなことを言ったわけじゃなかった。

あのときは確かにそう思ったのだ。

あれは紛れもないぼくの決意だったのだ。

ただ、結果として嘘になってしまっただけだ。

言い訳はいくつでも思いついた。

言い訳を口にするたびに、妹のため息が聞こえた。

「うそつき」


今日も雨が一日中降り続け、時折、雷が鳴っている。

窓の下をぼんやりと眺めて過ごした。何も、することがなかった。

美空ひばりの生誕70周年を記念したイベントが、東京の創業70周年の何とかいうデパートで開かれているらしい、とワイドショーが伝え、「VTRの途中ですが、コメットの記者会見が始まった模様です」何かと問題のあるらしい介護サービス会社の会見が始まった。テレビに目を向けると、親会社の社長やコメットの社長、その他3名の責任者たちが会見場に並び、「このたびは皆様に多大なご迷惑を」謝罪の言葉を口にして頭を下げているところだった。右から二番目の男が合成映像のように見えた。窓の下と2人組みの刑事と同じだ。

部屋の自販機で買ったプリンシェイクを飲みながら、窓の下の緩やかな坂道の歩道に、赤い長靴と黄色い傘が見えるのを待った。

長靴と傘はすぐ見えた。

時刻は午後3時半。

今日は部活がない日だったろうか。妹が帰るには少し早い。

だけど扉を開け、階段を登る足音は確かに妹のものだった。

妹は自分の部屋のドアの前に鞄を起き、ぼくの部屋のドアの前に立つ。

ぼくはドアの鍵をあけた。

ドアを開こうとすると、妹がドアにもたれかかり開かない。絹ずれの音。妹はもたれかかったまま座り込んだ。

「お兄ちゃん」

ぼくを呼ぶ。

「話があるんだ」

悲しそうな声だった。

「ごめんなさい、顔見たらたぶん話せないから」

ぼくもドアにもたれかかる。そのまま妹と同じように座り込む。

「お兄ちゃんがひきこもりをやめないなら、麻衣はもうお兄ちゃんなんか知らないからね。学校へ行くまで、お兄ちゃんの部屋にはもう入らない。朝起こしてもあげないし、ご飯も作ってあげない。喋ってあげない。電話してきてもメールしてきても全部無視する」

妹は一息でそう言って、それきり喋らなかった。

ぼくは立ち上がり、ドアを開けた。妹がもたれかかっていたはずのドアは簡単に開いた。

立ち上がった様子も、動いた様子もなかったのに、妹はすでにそこにはいなかった。

「明日…」

ぼくは妹の部屋のドアを開けた。

妹はいなかった。

「明日から、行くよ」

階段を降りる。

「絶対。約束する」


【妹】は家のどこにもいなかった。

消えてしまった。




父も、母も、妹もいない。この家にはもう、ぼくしかいない。

それでもぼくはひきこもりを続けている。

夢を見れば、がらくたが増える。

夢を見なければ、大切なものを失う。

ひきこもっていれば大切なものはこれ以上増えることはないだろう。

そしていつしかぼくは大切なものを何一つ持たなくなる。

何一つ確証はないけれど、そのときぼくはたぶん、自分自身を失うことになる。

そのときが一日でも早く訪れてほしかった。

用を足すために1日に3回だけ部屋を出て階段を降り、冷蔵庫から賞味期限切れのプリンやアイスクリームを取り出して食べる。

階段をのぼり、部屋に戻る途中、ぼくはふと、父の部屋を覗いてみたいという欲求にかられてしまった。

生前の父は収集癖があり、テレホンカードや切手、雑誌など、ありとあらゆるものを収集していた。収集はするけれど、その扱いは雑で、創刊号のマガジンやサンデーが鍋敷きとして使われているのを見たときは、子供心に目を疑った。

父の部屋には窓がなく、東西南北の壁のうちの三つは天井までの大きな本棚で囲まれており、北の壁にはホームシアターセットが備え付けられていた。部屋は一回り小さく見えた。

再婚後、父の収集癖の対象は妹に移った。

父は、再婚相手の連れ子だった妹にビデオカメラを向け続け、編集し続けた。

編集を終えた6000本のビデオテープが本棚には並べられていた。

ぼくが手に撮った「麻衣13歳」と書かれたラベルのテープだけで数百本ある。10年で6000本だ。1日あたり2本はあるのだろう。

妹の写真が消え、妹を失っても、ビデオテープはそこにあった。

たぶん、これらのビデオテープは父の所有物であり、ぼくのものではない。だからなくならなかったのだろう。

妹にはたぶんもう会えないし、妹の写真もすべて失ってしまった。妹はもう、この6000本のビデオテープの中にしかいない。

1本あたり6時間、それが6000本、36000時間。

全部見終わる頃には、ぼくはぼくを失っているだろうか。

ぼくはビデオデッキに、13歳の妹のテープを挿入した。


砂嵐の画面をぼくは6時間見続けた。




砂嵐の中、どれだけ目を凝らしても妹の姿を見ることはできなかった。

時折視界が開けたかと思うと、ぼくや母が写った。

妹の体の一部分でも画面に写りこんだ瞬間に、画面は再び砂嵐になる。

妹の声だけが切り取られて音がなくなる。

父がそんな編集をするはずがなかった。

6000本のビデオテープは妹だけをどこかへやってしまった。

こうやって追い詰められて、佐野はたてこもりを決意したのだろうか。

佐野は自分のこどもを撃った。

引き出しの中の拳銃で、ぼくも誰かを撃つことになるのだろうか。

妹がいなくなってよかったかもしれない。

少なくとも妹を撃たずにすむ。

砂嵐のビデオ鑑賞を終えたぼくは自室に戻り、電話ボックスの中にひきこもった。

泣いていた。

いつものように、公衆電話を頭の上にして、ガラスの壁にもたれかかり、電話帳をめくる。

無意識に、妹の名前を探していた。


加藤麻衣。


その名前は電話帳のどこにもなかった。

それもそのはずで、電話帳に登録されているのは大抵が家長の名前であり、男の名前なのだ。

ぼくはそんなことにすら気付くことができず、妹の不在を悲しんだ。

妹の顔が見たかった。

声が聞きたかった。

だけど、それはもうかなわないのだ。

ふと、緑色の螺旋のコードが目についた。

ぼくは首をつることにした。




目を覚ますと、ぼくは妹を抱いていた。

妹は、裸だった。

いっしょにお風呂に入ったのは、妹が五年生のときが最後だ。

ぼくからは妹の背中とお尻と脚しか見えないが、四年ぶりに見る妹の裸は、あの頃とまったくかわっていないように見えた。

電話ボックスは、ふたりで眠るには狭く、身動きできない。妹を起こしてしまわないように、首に巻いた受話器のコードをゆっくりとはずす。

ぼくの胸に顔を埋めて眠る妹をぼくは抱きしめ、そしておかえりと呟いた。

妹が帰ってきた。

「ただいま、お兄ちゃん」

上目使いで妹がぼくを見上げた。

「起こしちゃった?」

「ううん、うとうとしてただけだから」

体を少し持ち上げる。

小さな乳房から、ぼくは目をそらした。

視線の先に、壁に白いチョークで書かれた正の字が見えた。

66個。

ひきこもりをはじめてもうすぐ一年になる。

「何で裸なんだよ」

心臓が早鐘をうつ。

「知らない」

「裸で帰ってきたわけじゃないだろ?どこで脱いだんだよ」

血液が逆流しそうだ。

「わかんない」

「待ってて。服とってきてあげるから」

慌てて起き上がろうとして、ぼくは頭を公衆電話に強かにぶつけた。

「あれでいい」

妹はマネキンを指差した。

ナナちゃんに憧れていたマネキンにはロリ服を着せてあった。

あんなに嫌がってたくせに、とぼくは思った。

妹が起き上がる。

隠部にモザイクがかかっていた。

古いテレビドラマの合成映像のように、妹の体には縁取りのようなものがあった。




妹の裸を縁取る、隙間のような歪みのようなものをぼくはぼんやりと眺めていた。

再放送で見た南くんの恋人が確かあんな感じだった、と思う。だけど、南くんの恋人は掌に乗るほど小さかった。

恥ずかしがるそぶりも見せず、妹はぼくの目の前で着替えはじめた。

ペチコートを履き、コルセットで体をきつくしめあげる。

「お兄ちゃんは、夢を見たとき、その夢からひとつだけ何かを現実世界に持ち帰ることができます」

妹が何を言っているのか、ぼくにはよくわからなかった。

「それはもうわかってるよね?」

ロリ服は妹のためにあつらえたかのようにぴったりで、袖を通す妹も着馴れているように見えた。

突然あんな服を手渡されたらぼくならどうやって着るのかわからなくなるだろう。

だからわたしがここにいるんだもの、と妹はくすりと笑い、今度は革靴に手を伸ばす。

「お兄ちゃんが夢を見なかった場合、お兄ちゃんは大切なものをひとつずつ失います」

膝の上まである長い靴下をはくときだけ、馴れない様子でしゃがみこんだ。めくれたスカートの中をぼくは見ないようにした。

「一度なくしたものは二度と手に入れることはできません」

チョーカーで首元を、ヘッドドレスで頭を飾った。

「気付いてるんだよね?」

手袋をした。

「窓の下のあの刑事さんたちも、お兄ちゃんが夢から連れだしたんだよ?」

妹はそう言っていつかと同じように笑い、

「何でも聞いてくれていいよ。わたしが答えられる範囲なら何でも教えてあげる。わたしはそのために生まれたんだもの」

最後に胸元のリボンを結んだ。

ぼくは起き上がり、電話ボックスから出る。妹の前に立った。

「麻衣、じゃないのか」

そうだよ、と妹はまた笑う。

「お兄ちゃんは、麻衣ちゃんを失ってしまいました。だから麻衣ちゃんには二度と会うことができません」

「じゃ、お前は誰なんだよ」

「わたしには名前はないんだ。お兄ちゃんが好きな名前で呼んでくれていいよ。姿形は麻衣ちゃんだから、麻衣って呼んでくれてもいいし。その方が都合がいいかもしれないね。麻衣ちゃんまで行方不明って知ったら、外の刑事さんたちも黙っていないと思うし」

目の前にいる妹が妹でないというなら、確かに彼女の言う通りかもしれない。

「ひとつだけ教えてほしい」

ぼくは、この1ヶ月ぼくを悩ませる奇妙な現象について、妹ではない誰かに尋ねることにした。

その質問に、妹ではない誰かは応えなかった。

「わたしには名前がないけど、お兄ちゃんの夢見る力には名前があるの」

そして、妹ではない誰かが言葉を紡いだ。

「ドリーワン」




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