偶然の脅迫状 9
翌日の午前八時、霧夜は欠伸を噛み殺しながら空を見上げた。爽やかな青空だ。
眼の前に建っているのは国内でも有数の病院、帝東大学病院。数々の最先端技術を取り入れ、難病患者の治療に積極的に貢献しているこの病院には、全国各地から毎日多くの人間が治療を受けにやってくる。
しかし、霧夜は診察を受けに来たわけではない。雷華に呼ばれたからだ。
「眠い」
よれよれのシャツに相応しいよれよれの顔でぼやく。
霧夜は朝に弱い。監視などで徹夜することは出来ても、一度寝るとなかなか起きれない。身体が起きることを拒絶するのだ。今日起きることが出来たのは、雷華から電話がかかってきたから。そうでなければ、柚羽が出勤して事務所の寝室兼書斎のドアをぶち破る勢いで叩くまで、絶対に起きない。
霧夜がもう何度目になるかわからない欠伸をしていると、眼の前にシルバーのセダンが止まり、中から雷華が降りてきた。眠っていた霧夜の細胞が一気に覚醒する。
「おはようございます、待ちましたか?」
「おはようございます! いえいえ、全然待ってませんよ。というか、一時間でも二時間でも平気で待ちますし」
「……そうですか。ところで、湧宮煌刃、本名湧宮浩司の検死結果が出ました。死亡時刻はやはり昨日の午前十一時前後。凶器は刃物ではなく鋏のようなのですが、一般的に文房具店で売られているものとは違うみたいで、現在種類の特定中です。あと、傷口に何かの物質が付着して……って、何で私はぺらぺら情報を漏らしているのかしら。はあ、徹夜で頭が回ってないわ。垣内さんとはそこの喫茶店で会うことになっていますから、行きましょう」
雷華は道路を挟んで大学病院の向かいにある店を指差すとさっさと歩き出した。ばれたら課長にどやされると額に手を当てて嘆く雷華の後を、「待って下さいよ」と足をもつれさせながら霧夜が追いかける。
カランカラン。カウベルを鳴らして中に入ると、店内には三人の客がいた。そのうち女性は一人。四人掛けの席に座っており、霧夜と雷華が近づくとぱっと顔を上げた。黒髪のショートヘアに茶色がかった瞳、見る人に知的な印象を与える顔立ち。煌刃のマネージャー、深耶の携帯にあった画像と同じ女性だ。つまり、彼女が垣内。
「垣内 絢菜さんですか?」
雷華が声をかけると女性はこくりと頷いた。緊張しているのか、その表情は硬い。
「朝早くにすみません。昨夜お電話させていただきました警視庁の紫悠です。こっちは、今回の捜査に協力してもらっている方です」
向かいに座り、雷華は警察手帳を取り出して絢菜に見せる。霧夜も隣に腰を下ろし「山神です」と名乗った。店員が注文を取りに来たので、霧夜と雷華はブレンドを頼む。絢菜の前には三分の一ほど減ったオレンジジュースが置かれていた。
店員がコーヒーを持ってくるまで、誰も喋らなかった。店内には静かな曲調のピアノ曲が流れている。
「お待たせしました」
コーヒーを置いて店員が去って行く。白いカップからは香ばしい香りが漂ってくる。霧夜はさっそくカップに口をつけた。
「うん、美味い」
「さっそくですが、湧宮さんが亡くなられたことはご存知ですか」
「ええ、昨日休憩中にテレビで見たわ。言っておきますけど、私を疑うのは馬鹿げた過ちよ」
そう言って絢菜は水滴のついたグラスを持ち、オレンジジュースを飲む。平静を装っているようだが、グラスを持つ手は微かに震えていた。
「別に疑っていません。ただお話を伺いだけです」
「“復讐してやる”なんて送ったけど、でもそれだけよ。私は煌刃を殺していない。彼が死んだのって昨日の昼前なんでしょ? だったらアリバイもあるわ」
「“復讐してやる”と書かれた脅迫状を送ったのは貴女なんですか? どうしてそんなことを」
「私が煌刃と付き合ってたこと、知ってるから私に会いに来たんでしょ。あの男はね、私に結婚の約束をしたの。当時、私には婚約者がいた。だけど、彼の言葉を信じて婚約を破棄したわ。なのにある日突然別れてくれって言い出した。理由を訊いたら『俺に君はもったいなさすぎる』って泣きながら言うのよ。それで一ヶ月後には違う女と結婚したんだから、恨んで当然でしょ」
それが本当なら煌刃は、最低な男だ。絢菜が脅迫状を送るのも頷ける。霧夜がコーヒーを飲みながら隣に座る雷華にちらりと眼をやると、彼女は盛大に眉を顰めていた。同じ女性として煌刃の行いに憤りを覚えたのだろう。
「殺意が芽生えなかったと言えば嘘になる。実際、彼のマンションに包丁を持って乗り込もうとしたこともあった。エントランスに入ったところで我に返って、すぐに引き返したけれど」
絢菜はさらりと恐ろしいことを言う。
「あいつのせいで人生の何パーセントかが台無しになったけど、あいつを殺せば人生そのものが終わってしまう。だから私は殺したりしない。脅迫状は、言うなればせめてもの仕返しってやつかしら」
殺しはしないけど黙って引き下がるのは癪だったから、と絢菜は肩を竦めた。
「“Cold Blue”のときからずっと好きだったのに。アイドルなんかと付き合うもんじゃないわね」
溜息とともに吐き出された言葉には、確かに哀しみの感情が含まれていた。