偶然の脅迫状 4
次の日の午後一時、霧夜と柚羽はテレビ局の前に立っていた。
柚羽がネットで調べたところ、湧宮煌刃には結婚する前に付き合っていた女性がいたらしい、ということが分かった。写真などの証拠があるわけではなく、あくまでも噂レベルではあるのだが。
しかし、本当にそのような女性がいたのならば、煌刃を恨んでいる可能性が高い。マネージャーならば、彼の私生活にも詳しいだろう。答えを拒絶されれば、そのときは本人に直接訊けばよい。
三人の送り主のうち、一人はすぐに判明しそうだなと思いながら霧夜は正面玄関の自動ドアをくぐった。
「所長、ちゃんとネクタイを締めて下さい」
グレーのパンツスーツをびしっと着こなしている柚羽が、事務所にいるときと同じく、だらけた服装の霧夜に小声で苦言を呈する。
「いいじゃんこれで。記者ってことにしといてって言われてるんだし、あ、すいません」
「はい、どのようなご用件でしょうか」
まったく所長だけは、と柚羽は額に手を当てて溜息を吐いた。おそらく、よれよれのシャツにしわしわのスーツを着ているというのが、霧夜が抱く記者のイメージなのだろう。ドラマの見過ぎだと突っ込みを入れたくなったのを、柚羽はぐっと堪えた。
事務所に戻ったら言おうと思いながら、受付の女性に話しかけている霧夜に近づく。
「湧宮さんと会う約束をしてる山神という者です。楽屋に行ってもいいですか? 彼から話が通ってると思うんですけど」
「山神様、ですか? 少々お待ち下さいませ。……申し訳ございません、そのようなお話は伺っておりませんが」
パソコンの画面をしばらく見ていた受付の女性が、困ったように首を傾げる。
「ええっ、何でだろ。困ったなー」
「携帯にかけてみてはどうですか」
「おお、そうだそうだ。キルちゃん頼むわ」
とことんめんどくさがりな霧夜に言われ、柚羽はビジネスバッグから携帯を取り出し、申込用紙に書かれていた番号を押した。数秒ののち、呼び出し音が鳴る。一回、二回。煌刃は出ない。十回目を聞いたところで、柚羽は通話終了のボタンを押した。
「駄目ですね。収録が始まっているのでしょうか」
「かもね。あー、どうしようかな」
長い前髪をかき上げ、霧夜は壁にかかっていた時計を見る。十三時十分。こんなことなら事務所を出る前に連絡を入れておけばよかったと後悔していると、あの、と受付の女性が声をかけてきた。
「湧宮さんならまだ来てないと思いますよ。さっき彼のマネージャーが慌てた様子で出ていきましたから」
早口でそれだけ言うと、受付の女性は新たにやってきた来客の応対をし始めた。
煌刃もマネージャーもいないとなれば、これ以上ここにいる必要もない。霧夜と柚羽はテレビ局を出た。
「寝坊でもしたのかな」
「テレビ局の近くにマンションを借りてましたよね。行ってみますか?」
「めんどくさいけど、しょうがないか。何か情報が手に入るかもしれないし。歩いて行けるの?」
「そうですね、十五分くらいだと思います」
柚羽が用意した住宅地図を見ながら二人はオフィス街を抜け、住宅街へと足を踏み入れる。住宅街と言ってもマンションがほとんどで戸建ての家は少ない。都会ならではの光景だ。
「この角を曲がった先だと思うのですが……あら?」
先を歩いていた柚羽の足が止まる。
「どしたの? って、何これ?」
追いついた霧夜も曲がり角を曲がって、すぐにぎょっとなった。
何十人もの人だかりに、立ち入りを制限する黄色いコーションテープ。その前に止まっている何台もの警察車両。明らかにただ事ではない雰囲気だ。
霧夜と柚羽は顔を見合わせ、早足で人だかりに近づいた。そして適当な人物に何があったのかを訪ねる。返ってきた答えは、誰かが死んだらしいという漠然としたものだった。
「一応確認するけど、湧宮煌刃のマンションってさ」
「名称はゴールドスイート。黄色いテープが貼られているところです」
「やっぱり。死んだのは彼なのかなー? マネージャーに訊けば早いんだろうけど、顔知らないしな――あっ」
つま先立ちでテープの向こうを見ていた霧夜が、突然緩めていたネクタイをきちんと締め始めた。そして、手櫛で髪をとかし服をぱんぱん払うと、人だかりを掻き分けてテープのすぐ前にまで行き、そこに立っていた制服警官に話しかけた。
「お巡りさんお巡りさん、あの刑事さん呼んでくれない?」
テープの中にいるうちの一人を指差す。
「は? 何ですか貴方は? 邪魔ですから下がって下さい」
制服警官は思いきり顔を顰めるが、霧夜は引き下がらなかった。
「いいから呼んでよ。俺、あの人の知り合いだし、それに被害者も知ってるし」
多分、と心の中で付け加える。なおも警官は難色を示したが、最終的には霧夜が指差した人物を呼びに行ってくれた。制服警官が二、三言話し、霧夜に視線を向ける。それを追うようにして振り向いたその人物は、霧夜を見て驚いた顔になったあと、小走りでテープの前にやってきた。
「山神さんじゃないですか」
「お久しぶりです、雷華さん!」
瞳をらんらんと輝かせる霧夜は、普段とは別人のように活き活きしている。それもそのはず、霧夜が雷華と呼んだ人物は、現在彼が片思い中の女性なのだ。
警視庁捜査一課の刑事、紫悠雷華。霧夜と柚羽が知り合うきっかけとなった事件を担当したのが彼女で、そのとき以来、淡くはない恋心を抱いている。が、残念ながら事件に関係しないところで会ったことは、まだ一度もない。彼女が霧夜の気持ちに気付く気配もない。つまり現状ではひたすらに一方通行だった。
「どうしてここに? もしかしてこのマンションに住んでいるんですか?」
後ろで一つに纏めた腰まである長い黒髪を揺らして首を傾げる雷華に、思わず「今日もお綺麗ですね」などと場違い甚だしいことを言いそうになり、霧夜は慌てて唾ごと言葉を飲み込んだ。
「いえいえそうじゃないんですけど、ちょっと誰が亡くなったのかが知りたいなーと思いまして。もしかして、湧宮煌刃だったりします?」
頭を掻きながらそう訊ねると、雷華の眼がすっと細くなった。
「……詳しくお話を聞く必要がありそうですね。後ろの方、えっと、柚羽さんだったかしら。二人とも私について来て下さい」
「キルちゃん、いつからいたの?」
「『お久しぶりです、雷華さん!』のところからです」
あ、そう。呟きながら霧夜は黄色いテープをくぐる。
煌刃が死んだ。それもおそらく誰かに殺されて。捜査一課の雷華がいることからほぼ間違いないだろう。
本当にめんどくさいことになってしまった。だが、彼女に会えたのは嬉しい。そんな不謹慎な思いを抱きながら、霧夜は雷華の後について現場へと足を踏み入れた。