偶然の脅迫状 10
「そんなわけで私は犯人じゃないわ。疑うのなら、私ではなくて奥さんを疑ったら?」
「湧宮夫人ですか? 何か根拠でも?」
大人しくコーヒーを飲んでいた霧夜が口を挟む。雷華が横目でちらりと霧夜を見たが、すぐに絢菜に視線を戻した。
「さっき、包丁持ってマンションに行ったって言ったでしょ。で、何もせずに帰ろうとしたとき、人とぶつかったのよ。それが湧宮瞳子だった」
話しながら絢菜はストローをくるくる回す。グラスの中の氷がぶつかり合い、涼しげな音を奏でた。
「それだけですか? 貴女がどの部屋に用があったのかなど、湧宮夫人には分からなかったのでは?」
「まあね。でも、私そのとき鍵を落としちゃったのよ。マンションの合鍵を。普段ならそんなミス絶対にしないのだけど、冷静さを失ってたから」
「マンションの鍵を……」
「そう、for youと書かれた“Cold Blue”のキーホルダーが付いた鍵をね。そろそろ病院に戻らないと」
絢菜は腕に嵌めていたシルバーの時計に視線を落とすと、テーブルにオレンジジュースの代金を置いて立ち上がった。雷華が何か言う前に彼女はすたすたと出口に向かい、扉を開けて出ていく。
「奥さんとはまたタイプの違う人でしたねー」
「湧宮を殺す動機があることを隠そうともしなかった。アリバイを確認する必要はあるけど、多分犯人じゃないでしょう」
雷華はぬるくなったコーヒーを一気に飲み干した。
「同感です。もしあの人が犯人ならもっと手の込んだ殺し方をするでしょうね。絶対に自分に容疑がかからないような。かなり頭良さそうでしたもん。あんな疑って下さいと言わんばかりの脅迫状を送ったりしないでしょう」
「思い込みはよくないけど、私も山神さんと同意見です。と、課長から電話だわ」
失礼しますと言って雷華は外に出ていった。ガラスの窓越しに彼女が喋っているのが見える。霧夜は少しだけ残っていたコーヒーを全部飲むと、三人分の会計を済ませ、カウベルを鳴らして店を出た。
「はい、はい、分かりました」
通話を終えた雷華は霧夜を見ると、ショルダーバッグから財布を出そうとした。それを霧夜は手で制する。
「俺のおごりってことで」
「いえ、でも経費で落ちるんですけど」
「まあまあ、いいじゃないですか。経費が浮いたと思えば。それより何か分かったんですか?」
雷華の背中を押すようにして、道路を渡り車の前に戻る。喫茶店には二十分もいなかったのだが、入る前よりも道を歩く人の数は大分増えていた。大半がスーツ姿だ。
「はあ、じゃあ遠慮なく。ごちそうさまでした。で、なに当たり前のように捜査の進展状況を聞こうとしているんですか」
「まあまあ、いいじゃないですか」
「全然よくないんですけど……課長には内緒にしてくださいね。怒られるのは私なんですから」
「もちろんです」
満面の笑みで頷く霧夜に、雷華は額に手を当てて溜息を吐いた。
「分かりました。こんな道端では話せませんから乗って下さい。事務所まで送ります」
「本当ですか!? 雷華さんとドライブ出来るなんて嬉しいな」
後部座席にバッグを放り、雷華は運転席に座る。霧夜もドアを開けて助手席に乗り込んだ。
「シートベルト締めました? じゃ行きますね」
シルバーのセダンは国道を法定速度で走る。
「湧宮瞳子のところに所轄の刑事が話を訊きに向かいました。彼女には犯行当時レストランにいたアリバイがあるのですが、それも再度確認を取ります。それと、まだ完全に作業が終了してはいませんが、山神さんから預かった三通の脅迫状を鑑識が調べたところ、複数の指紋が検出されました。ほとんどは被害者のものですが、メッセージカードの外側には違う人間の指紋が付着していたようで、現在照合中です」
「深耶さんのじゃないんですか?」
雷華は小さく首を振る。
「波積深耶から指紋を採取して確かめましたが違います。彼女は指紋を残さないよう気を付けたと証言しましたし。その指紋は外側のみで、脅迫文が書かれた内側には付着していませんでした」
「ふうん、ということはその指紋の主は中を見なかったんですね」
二つ折りのメッセージカードを読もうとすれば、どうしても内外両方に指紋が付く。指紋を拭き取ったとも考えられるが、それならば何故片側しか拭かなかったのかという疑問が残る。もの凄いうっかりな人間という可能性も否定は出来ないが、カードを手にしたものの、中は読まなかったと考える方が自然だろう。
「そうなるんでしょうね。カードは花束の上に置いたと深耶は証言しているから、それを見た被害者以外の人間が手に取り、表に書かれた宛名を見てすぐに元に戻した」
前の信号が赤になり、ゆっくりと車が停止する。
「凶器の鋏の特定にはもう少し時間がかかるみたいなんですけど、傷口に付着していた物質の材質は判明しました。OPPだそうです」
「何ですか、それ?」
「延伸ポリプロピレン。ラッピングなどに使用される透明のフィルムみたいなもののことです」
「ああ、あれかぁ。なるほどねー、そうかそうか」
「どうしてそんなものが傷口に付着していたのか、ってどうかしました?」
腕を組んでうんうん頷いていた霧夜は、ハンドルを握る雷華を見ると、にやぁっとあまり上品とは言えない笑みを浮かべた。この場に柚羽がいれば「所長、気持ち悪いです」と間違いなく言っただろう。
「ねえ雷華さん、ちょっと調べてほしいことがあるんですけど」




