マグカップも目利きに値する
アルバート・フレデリック・ドナルドはドナルド美術商の社長である。まだ20代と若いのにもかかわらず、その目利きと交渉手腕は多くの人から一目置かれていた。陶器でも木材でもなんでも、およそ芸術品と呼ばれるカテゴリーに属したものには鋭い観察眼と目利きで正当な価値を割り出し、交渉術をもってそれを手に入れる。知る人ぞ知る美術商である。
そのアルバートは自宅のテラスに仕事道具の一つであるノートパソコンを持ち出して画面に表示されたメールの内容を呼んでいた。片手には、日常的に使われているマグカップが握られている。その中のミルクティーを飲みながら、アルバートは軽くため息をついた。
カタリ、とテラスのテーブルにお茶菓子であるスコーンを用意するデニス・カーター。デニスはアルバートの身の回りの世話と、仕事のサポートを行っていた。
「アルバート様、スコーンをお持ちしました。」
「おお、ありがとう、デニス。そうだ、デニス。見たまえ。この僕に握られているマグカップ。これが昨日よりも光沢が美しくなったように見えないかい?特に、ティーと僕がきれいに反射しているじゃないか。こんなに美しく僕の事を反射できるようになっているとは、このマグカップの価値は一気に高くなったね。そうだな、今まで2ポンドだったんだが、きっと5ポンドぐらいはあるだろう。そう思わないかい、デニス?」
デニスに向かって一気にしゃべったアルバートは女性ならば誰もが胸ときめきそうな甘いマスクで自分の助手であり執事のような事を行う男性を見る。その肩にかかる程度の金糸の髪が日光に反射してキラキラと輝き、蒼い目はとても澄み渡っていた。
それを完全に無視するデニス。アルバートほどではないが、決して造形が乱れているわけではない。デニスは濃い茶色の短く刈り込んだ髪にくりくりとしたハシバミ色の目を伏してお茶のお代わりをマグカップに注いだ。
「それよりアルバート様。メールは読み終わったんですか。」
「この「ぱそこん」という、美しくもなんともない機械の箱に表示されているものだな。読んだぞ。なぜ昨今の人間は機械ばかりを頼るのか。いかに機械の手を頼らないでできたものが美しいか、分かっていないのではないか。まったく、映し出される内容はさておき、その、「がめん」を眺めるだけで目がちかちかしてかなわん。」
デニスの言葉に、アルバートは鼻を鳴らしながら答えた。アルバートは機械を好まない。と、言うよりも、機械が彼を好まない。このように機械に対する嫌な思い、というのを持っているという事から、アルバートは少々現代人とは程遠い人種であるように思えるのだ。
デニスはその言葉に答えるように目薬を差しだした。
「読んでいただければ結構です。どのようにお返事なさるのですか。」
アルバートの向かいにある、空いているいすに腰掛けながらデニスはノートパソコンを自分の前に置いた。
「了承したことを伝えてくれ。詳しい依頼については一度会って話をしたいと。」
デニスから目薬を受け取ったアルバートは上を向いて目薬を両目にさす。瞬きをして全体に行き渡らせてから、顔を元に戻した。
「わかりました。ところで、希望の日付は来週のいつがよろしいですか。」
「ふむ…水曜あたりのランチ、で打診してみてくれ。先方が他の時間を指定してきたならこちらで合わせよう。」
「…俺はそれで構いませんけど、来週の木曜日には大奥様の所に行かれることを忘れないでくださいね。」
「…母上の所に行く約束をしていたか?」
デニスはため息をついた。マーガレット・パトリシア・ドナルドはアルバートの母親だ。ロンドン郊外からさらに列車に揺られて1時間ほどの、片田舎に住んでいる。アルバートは時間が合えば月に1回ほどの割合でその初老の母親を訪ねていた。
その日はアルバートにとって忘れてはいけない日なのだが、彼は正直、あまりその日を好ましく思っていない。世界中を飛び回っている父がもっと頻繁に帰ってくればすべての問題は解決する、とさえ思っている。つまり、しばしば「意図的に」忘れるのだ、その日を。
「忘れてたんですね、やっぱり。」
「偏屈な母上に会いに行くのと、商談をまとめるの、どちらの方が有意義か。そういう簡単な問いではないか。」
「ええ、はい。アルバート様に話を振った俺が悪かったです。」
「?なぜデニスが悪くなる?よいか、デニス。お前は責任感が強すぎるところがいけないのだ。もっと肩の力を抜いて生きていった方が生きやすいぞ。」
マグカップのミルクティーを飲みながら、アルバートはデニスに忠告を与えた。それに、パソコン画面の前に座ったデニスははぁ、と軽くため息をつく。
「誰のせいだと思ってるんですか、あなたは。」
「むろん、美しすぎる僕のせいだな。だが、美しさに罪はない。罪は美しくないモノと人にあるのだ。」
アルバートは、商談は得意だ。得意なのだが、それ以外の事となると、途端にナルシズムがにじみ出てくる。それを窘めるデニスはひそかに自分の胃の事を心配していた。
それでも、デニスは先程のメールに返信をすると、そのままノートパソコンの電源を落とす。そして、椅子から立ち上がった。
「どうしたのだ、デニス?お茶を楽しもうとは思わんのか?」
「あいにく、ミザリィに頼まれごとをしたので。それを終わらせてきます。」
夕食の準備や掃除などはハウスキーパーとして雇っている中年の女性が基本的に行っているが、先程調味料が足りない、と声を掛けられたのだ。
「そうか。あと1時間もしたら中に入ろうと思っているから、それぐらいに片付けに来てくれると助かるが。」
「俺が戻っていなかったらミザリィに来るよう頼んでおきます。」
「ふむ、よろしくな。」
ノートパソコンを小脇に抱えて立ち去り際、デニスは主を振り返った。
「そういえばアルバート様。」
「なんだ?」
「今お使いのマグカップ。俺の記憶が正しければ6ポンドで去年買ったものです。」
「そうかそうか。それならば5ポンドは妥当な値段ではないか!やはり僕の目には狂いはなかったな。」
1人嬉しそうなアルバートをテラスに残し、デニスは屋内へと入って行った。