【異世界定食】〜とんかつ屋「揚太郎」に集う、ワケありな人々〜
『十七年間感情を売り渡してきた食評家、買収工作ごと路地裏に叩きつけられる』 ~銀貨三枚が、金貨五枚を黙らせた~ ep-6
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本作は【異世界定食】〜とんかつ屋「揚太郎」に集う、ワケありな人々〜シリーズ読み切りです。
「十七年間泣けなかった」
「金貨五枚を懐に入れた日、俺は十七年間で初めて、自分の仕事が汚いと思った」
依頼書を開いた。
差出人は、ハルトマン侯爵。
内容はこうだ。
「路地裏の怪しい店が我が国の食文化を代表するかのごとく語られるのは由々しき事態だ。貴殿の権威ある一行評で、適切に処理してほしい」
金貨五枚。
俺の評価を、金で買おうとしている。
オスカー・フォン・ライネケ。美食評論誌『翠玉の食卓』主筆。
この男の一行評が店の命運を決める。
開店祝いに「凡庸」と書かれた三ツ星店が翌週に閉店した伝説は、今も王都の料理人たちの間で語り継がれていた。
この仕事を始めたのは、金のためだった。
父が仕事を失った年、十七歳の俺には舌だけが武器だった
金貨五枚は受け取った。
だが評価は、自分の舌だけが決める。
それがオスカー・フォン・ライネケという男の、唯一残った矜持だった。
◇
路地裏は、想像より狭かった。
石畳の継ぎ目に苔が生えている。
頭上では洗濯物が風に揺れ、どこかの窓から子供の声がする。翠冠亭とは何もかもが違う。
だがその突き当たりに、暖簾が一枚揺れていた。
くぐった瞬間、オスカーの鼻が止まった。
脂だ。
単純な揚げ物の匂いではない。何かが違う。十七年の経験が、即座に警戒信号を出した。この匂いには奥行きがある。一枚ではなく、何層にも重なった複雑さがある。
(……なんだ、これは)
平静を装いながら、カウンター席に腰を下ろした。
店内には他に客がいない。昼前の静かな時間だ。
厨房の奥で、男が振り向かずに言った。
「いらっしゃい。ロースかつ定食だけです」
「それを一つ」
細身で、目が鋭い。まだ若いのに額に縦じわが刻まれていて、口元は固く結ばれている。この国の人間ではない気配がある。だがその手の動きだけが、オスカーがこれまで見てきた料理人の誰とも違った。
無駄がない。
いや、違う。
無駄を削ぎ落とした跡がない。最初から無駄が存在しないのだ。天才と呼ばれる料理人の手には必ず、洗練の痕跡がある。努力の地層が透けて見える。だがこの男の手には、それがない。
ただ、在る。
オスカーは手帳を取り出した。観察を書き留めようとして、ペンが止まった。
何を書けばいいのかわからなかった。
十七年間、そういうことは一度もなかった。
◇
油の温度が上がっていく気配がした。
ジュワァァァ……ゴボゴボゴボ……。
低い。重い。潜り込むような音。
オスカーの背筋が、自分の意思とは関係なく伸びた。
この音だ。
どこかで聞いたことがある。いつ、どこで。記憶を辿ろうとしても、うまく辿れない。ただ胸の奥の、普段は鍵のかかっている場所が、この音に反応して微かに震えた。
(落ち着け。まだ食べていない)
自分に言い聞かせる。
ペンを走らせようとした。
走らなかった。
バチバチバチッ、ジュワアアアアッ!
二度目の揚げが始まった瞬間、店全体の空気が変わった。温度が一段上がり、鼻の奥を何かが直撃した。
脂の甘み。焦げの苦み。その奥に潜む、深海のような岩塩の青白い気配。
オスカーは気づいた。
ペンを持つ手が、震えている。
十七年間、震えたことなど一度もなかった。
皿が、カウンターに置かれた。
黄金色の衣。断面から立ち上る、神の吐息のような湯気。傍らに添えられた、糸のように細く刻まれた天使の露草の山。
「まず岩塩で」
男が短く言った。
オスカーは箸を持った。
一口、食べた。
ザクゥゥゥッ。
衣が弾けた瞬間、十七年分の鍵が、音を立てて外れた。
少年の頃の台所。
父親が仕事を失った冬。母親が残り物をかき集めて、それでも必死に揚げてくれた、あの一枚。家族四人で囲んだ、狭くて暗くて温かったあの食卓。
あの頃はまだ、食べ物を「評価」していなかった。
ただ、美味しかった。
それだけで、世界は十分だった。
「……っ」
声が、漏れた。
十七年間、料理の前で声を漏らしたことはなかった。
手帳が、膝の上に落ちた。
拾う気になれなかった。
目の奥が、じわりと熱くなった。
泣けなくなったと思っていた。十七年間、そう思い続けてきた。だが今、頬を一筋の熱いものが伝った。
男が、振り返らずに言った。
「……泣いてるのか」
「……プロとして、あり得ない失態だ」
「そうか」
「……十七年間、泣けなかった」
「そうか」
それだけだった。
同情も、慰めも、説明もない。ただ鍋に向き直って、出汁を一口すすった。
オスカーは天使の露草を口に含んだ。シャク、と瑞々しい音がして、脂の熱狂が潮のように引いていく。残ったのは純粋な幸福感だけだった。
皿が空になった頃、オスカーはようやく口を開いた。
「一つ聞いていいか」
「なんだ」
「この料理の何が、人を泣かせるんだ」
男はしばらく黙った。
鍋を火から下ろし、布巾で手を拭いてから言った。
「知らない。ただ揚げてるだけだ」
「……そうか」
「お前は何者だ」
オスカーは床に落ちた手帳を拾い上げた。
「食評家だ。王都で一番、料理人に恐れられている」
「ふうん」
揚太郎が振り向いた。初めて正面からオスカーを見た。
「で、どうする」
オスカーはペンを取った。
十七年間で初めて、何を書くか迷わなかった。
迷う必要がなかった。
答えは、もう胃の底にある。
◇
三日後。
王都の貴族街に掲示された『翠玉の食卓』最新号。
ハルトマン侯爵が震える手で該当ページを開いた。
そこにはこう書いてあった。
「王都に、革命がある。路地裏の突き当たり、暖簾一枚の向こうに。私は十七年間、美食を評してきた。その間に私は、食べることの意味を忘れていた。今週、それを思い出した。ただ一つだけ書く銀貨三枚。この値段で、人間は魂を取り戻せる。ハルトマン侯爵から金貨五枚を受け取ったことを、ここに開示する。だが評価は変わらない。本物の前では、金貨五枚など紙切れに過ぎない」
『揚太郎』 総合評価 ——筆を置く。
侯爵の顔が、みるみる蒼白になった。
金貨五枚の開示。
これは致命傷だ。
食評家への買収工作が、王都全体に知れ渡った。
翠冠亭の予約は翌週から激減し、侯爵は貴族仲間からの冷たい視線に晒されることになる。
侯爵は震える手で評論誌を閉じた。
そして、別の手を考え始めた
一方、路地裏には翌朝から行列ができた。
揚太郎は暖簾を掛け、油を温め、今日も鍋を睨んだ。
何も変わらない。
変わる必要がない。
一番端の席に、オスカーが静かに座った。
手帳を開いている。だが今日は、ペンを走らせていない。
ただ、食べている。
揚太郎が鍋に向き直りながら、ぼそりと言った。
「毎日来るな」
「……迷惑か」
「銀貨三枚、払えるならいい」
オスカーは財布から銀貨を三枚、カウンターに置いた。
「……毎日払う」
「そうか」
その音が、静かな路地裏に小さく響いた。
ジュワァァァ……バチバチバチッ。
今日も、銀貨三枚の革命が始まる。
(完)
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