岡崎と禅問答?
誰が用意したのかは知らないけれど、ドレスに良く似合う靴だった。ストラップがついていて、丸いくるみボタンで留められるようになっている。色は、ドレスよりも少し濃い色味のゴールド。ドレスの生地と似たようなものだけど、靴の方が、ドレスほど張りのある感じじゃない。ちょこんとついたヒールが、木製の床に出会う度にお上品な音を立てる。
そしてあたしは、そのお上品な靴が床にお上品な挨拶をするのを、たいして面白そうにもなく見つめていた。
出島さんはどこに行ってしまったか分からない。猿人種のふたりと岡崎、それに出島さんと共に、同じ場所を目指して歩いているのだから、あたしの進行方向にいるのは間違いない。ただ、隣にいないだけだ。それだって、いつもと同じ光景だ。
ふん、と自虐的に鼻を鳴らすと、
「うらら、怒ってる?」
「うらら、怒ってる?」
右と左と、同時に声がした。顔をあげようかとも思ったけれど、左右を見るためにはどうしたって真正面を見ないといけない。あたしの前を歩いているであろう出島さんの後ろ姿を見るのは嫌だった。出島さんが振り返っていて、目があってしまうともっと嫌だった。だから、顔は一切あげずに、
「放っておいて」
とだけ言うと、猿人種は、更年期かな、違うよ、うららならとっくに更年期は終わっているよ、と失礼極まりないことを言いながら離れて行った。
「黄本ってさ。難儀な性格してるよなあ」
「放っておいてよ」
いつの間にか隣を歩いているらしい岡崎の声にも、同じように答えた。意地でも、顔なんて上げてやるもんか、って思いながら。
「口下手なのは、親父さん譲りなのかなあ」
独り言のように言う岡崎の言葉に、そうかもね、と声には出さないで同意する。
言いたいことははっきりと言ってしまうおばあちゃん。周りの人とはまったく違うペースで生きているらしいお母さんは、イライラしたりピリピリすることがほとんどない。そういう意味で、自分の趣味を貫いているたすくは、お母さん似かもしれない。でも、そう言われてみれば、お父さんは、何か嫌なことがあったりする度に黙りこくっている。ひとりで黙々とお茶をすすり、新聞で顔を隠すようにして、静かにしている。
「その、お前と同じ口下手な親父さんが、この間言ってたよ」
決して煽るような物言いでもないのに、それ以上を言おうとしない岡崎に、あたしはどうしても好奇心が首をもだげるのを抑えられない。
ここまで意地を張って、顔も上げずに失礼なことばっかりを口にして、前を歩いているだろう出島さんを落ち込ませて、みんなの前でけんかみたいなことをしてしまって。そんなあたしに、話の続きが気になるからって、まるで何事もなかったかのように「それでそれで?」なんて聞けるはずがない。どんな神経してるのよ、あたし。ってなるじゃない。
待っていれば、その内焦らし疲れた岡崎が、その後を話してくれるかと思って、あたしは耳に神経を集中させたまま無言で足を進めた。
でも、うんともすんとも言わない。
ああああ、なんなのこれ。新手のいやがらせ? いやがらせなら、出島さんから精神的辱めといういやがらせを受けまくっているので、間に合っているんですけど!
「……なんて?」
とうとう観念したあたしは、なるべく小さな声で聞いてみた。
「ん?」
とぼけないでよ、今更! と涙目になりたい気持ちを抑え、あたしは可能な限りやんわりと、
「お父さん。なんだって?」
かすかだったけれど、あたしは確かに聞いた。岡崎が笑うのを。
悔しい。悔しすぎる。だけど、もう口をきいてしまったのだから、仕方がない。
悔恨の念に地団駄踏みたい気持ちのまま、あたしは岡崎の言葉の続きを待った。
「娘は、何か深刻なことがあると、すぐに自分の内に抱え込むって」
「それだけ?」
「心配だってさ」
「……そう」
そっくりそのまま、その言葉をお父さんに返したい気もするけれど、心配してくれるのはありがたい。
「もっと、自分の思っていることをぶつけられるひとになって欲しいってさ」
自分は、そんなひとになっていないくせに、よく言うよ。
「感情をむき出しにして、取っ組み合いのけんかが出来るくらい、ぶつかっていける相手がひとりでもいれば良いのにって」
「あたしは、青春映画の少年か」
ぼやくような突っ込みに、岡崎は朗らかに笑うと、
「だから、おれ、言ったんだ」
「なにを?」
「もう、いるじゃないですかって」
「え?」
「黄本は、もうその相手を見つけたんだから、心配することないんじゃないですかって。そしたら、苦笑してたよ、親父さん。そうかもねえ。それはそれで、やきもきするけどねえ、って。やっぱりあれなんだな、娘を持つ父親ってのは複雑なんだな。よくテレビとかでも見るもんな。娘さんをくださいっていうシーン。ああいうの、想像しちゃって落ち込むのかなあ」
「……え?」
ちょっと待って。まさか、岡崎の言う『相手』ってのは……。
「あ、あのさ。岡崎、もしかして」
「出島さん。黄本には、出島さんがいるじゃん」
あまりにもあっけらかんと言われて、あたしは思わず片手をこめかみにあてる。
岡崎って、おそろしい。
最近、とみにそう思うことが多くなったように思う。岡崎って、ひとを油断させる名人っていうか、気付いたら懐に入り込まれて、あのまるで善人めいた(って、実際善人なんだけど)笑顔で、ひとを上手く丸め込んでしまうんだ。
出島さんの変態っぷりを見てもにこにこしてるし、賢介さんのセクハラ発言を目の当たりにしてもにこにこしてるし、猿人種みたいな扱いづらいひとたちとも、なんだかんだと仲良くしてるし。
恐るべし、岡崎!
「今さっき、岡崎が見ている前で、あたし、思いっきり出島さんのこと拒絶したよね? 見てたよね?」
「ああ、でもあれ、例えばおれだったりしたら、あんな風にはならないわけだろ?」
「当たり前じゃない」
「なんで当たり前なのか、考えたことある?」
「はあ? そんなの、考えなくても分かることでしょ。出島さんが、変態で、わけわかんないことばっか言ってるからじゃない」
「んー。まあ、そうかもしれないけどさ」
苦笑を滲ませて、歯切れの悪い言い方をすると、岡崎はそれからは何も言わなかった。あたしも、それ以上、岡崎のことを言及することも出来ず、悶々としたまま口を閉ざす。だって、ちょっと歯切れの悪いことを言われたからって、いちいち突っかかってたら失礼じゃない? 岡崎だって、よかれと思って言ってくれてるだけなんだろうし。
「そのうち、分かるんじゃない? 誰だって、自分のことほど、客観的に見られないもんだろうしさ」
「達観した言い方するね。岡崎は? 自分のこと、分かってる?」
「分かんないよ。そんなの、分かんないに決まってる」
「でも、岡崎って、いっつも穏やかににこにこしてるし、部活も頑張ってるし、悩みがなさそうなんて言ったら失礼かもしれないけど、あたしみたいにどろどろ悩んだりしなさそうなイメージだわ」
「そ? じゃあ、黄本は、おれのこと、なんも分かってないんじゃない?」
軽くそう言うと、岡崎は、あたしの肩をぽんと叩いた。条件反射で顔を上げれば、岡崎と目が合う。言葉の内容とは裏腹に、岡崎はちっとも怒っていないような顔で、あたしを見つめる。
「お互い、思春期で大変だよなって話だよ。要は」
「なにそれ」
ちっとも要約されていないことを言う岡崎に、げんなりした顔をしてみせる。でもなんだか、少し気分が晴れた。
なんにも解決していないけれど、あたしは昨日と同じあたしのまま、まったく成長できていないダメダメなままだけれど。でも、なんだろう。お互い、なんて言われて、あたしは岡崎の悩んでいる内容なんて知りもしないのに、まるで悩み仲間ができたみたいな気持ちになったのかもしれない。
ほんと、あたしって駄目だなあ。
誰にも聞かれないように、頭の中でだけ盛大なため息をついて、あたしは肩をすくめて笑ってみせた。岡崎は、同じように肩をすくめてみせると、
「その調子、その調子」
と歯を見せた。