kiss and make up
ぐんぐんと岡崎の姿が遠くなっていく。ぶらぶらと揺れるあたしの両腕は、どこに掴まれば良いのかも分からないで無視されたまま。とんとんと定期的にあたしの爪先が、出島さんの脇腹にあたる。ふわふわ揺れる出島さんの後ろ髪が、あたしの頰をくすぐる。
出島さんの腕はあたしの脇の横。あたしの顎は、ちょうど出島さんの肩あたり。
これが、出島さんの見ている景色かあ。
俵抱えにされたまま、あたしは呑気にそんなことを考えたりしていた。
岡崎の姿は確認できるけど顔の表情は見えない。それくらいの距離を離れたところで、急に出島さんが廊下を曲がった。そして、扉のようなものを開いて、中に入る。扉を閉めるために出島さんはそちらに振り向き、そのせいで、あたしには部屋の中が見渡せた。
着替えるために入った部屋に良く似た、豪華なベッドが中央に鎮座した部屋。ドレープのかかった重そうなカーテン、天井に施された絵画のような彫刻、窓際に置かれた丸い木製のテーブルに二脚の椅子。紺とクリーム色のストライプになった掛け布団にマッチングするためなのか、紺を基調にしたタペストリーみたいな絨毯が敷かれている。
出島さんがまた、きびすを返す。
今度あたしに見えるのは、今入ってきた扉の木目だけだ。
扉から離れ、ベッドの脇を通り、窓際の椅子に下ろされた。肘掛けのついた、背もたれの高い、布張りの椅子。
座らされると同時に、あたしの視点はどんどんと下がっていく。ふわりとドレスが広がって、床に足が着く頃には、あたしは出島さんの顔を見上げていた。
「出島さ」
呼びかけたけれど、出島さんは足早にあたしの元から去っていってしまう。
追いかけることもせずに、肘掛け椅子に座らされたまま、あたしは立ち去る出島さんを目で追った。
あたし、何やってるんだろう。
そうじゃないのに。けんかしたいわけじゃない。拒絶したかったわけじゃない。悲しませたかったわけじゃない。全然、そうじゃない。
うまく言葉にできない。
あたしは、出島さんに優しくされている。たまに、優しすぎると言うか、過保護だとも思うくらいに。でも、あたしは決して出島さんの所有物じゃない。出島さんは、あたしの所有物でもない。
お気に入りのかばんみたいに、使わないときは部屋に置いておいたままで、気が向いたときだけ使う。そういう存在なの、あたしは? 出島さんにとって? だったら、あたしはまるで木偶の坊みたい。
それとも、あたしは本当にそんなに役立たずなんだろうか。出島さんにとって、あたしはそんなに頼りないの? あたしには、出島さんの支えになることは出来ないのだろうか。毎日とは言わない。たまに、ごくたまに、出島さんの杖みたいになれるのなら。
遠くで、水が流れる音がする。
近くに川でも流れているのかと思って、窓の外に目をやった。視界に飛び込んできたのは、見渡す限りの森。日本の山とは、どこかが違う。緑の濃さだろうか、それとも色味? 木々を揺らして、鳥の群れが飛び立って行く。
「失礼しました」
声に振り向けば、その姿にぎょっとする。ぽたぽたと、髪から滴り落ちる雫。もしかして、さっきの水の音は、これ? この部屋、洗面所か何かがついているのかもしれない。
「ど、どうしたんですか、それ」
「頭を冷やしてきました」
「は、はあ……」
頭を冷やすって、髪の毛をざざ濡れにすることだったっけ?
「でも、無理みたいです。ナイアガラの滝にでも打たれないと、僕の煩悩は消えないみたいです」
「煩悩? なんの話ですか?」
「どうしましょう、うららさん。矛盾してるって分かってるんです。でも、もう限界です」
「一体、なんの話なんですか、さっきから。それよりも、その髪、乾かさないと」
「いいんですよ、髪なんて」
「よくありません! 風邪引いちゃったらどうするんですか? あっち、洗面所があるんですか?」
語気を強めれば、出島さんは殊勝にうなずく。
「あっち?」
視線を、出島さんが歩いて行った方に向ければ、これまた静かにうなずく。
「タオルか何か持ってきますから、座っててください!」
躊躇ったけれど、意を決して、立ち上がる。出島さんの腕を取って、あたしが座っていたのとは反対側の椅子に座らせる。
早足で洗面所に入れば、びしょ濡れの洗面台が目につく。オレンジ色のような乳白色のような石でできた洗面台は、ぬくもりを感じさせる照明に照らされて心地が良い。
洗面台の横に置いてある籐製の籠に積んである真白いタオルを見つけた。広げてみると、ハンドタオルよりも少し大きいくらいのサイズで、出島さんの髪を乾かすには小さすぎるんじゃないかと思う。タオルを手にしたまま洗面所をキョロキョロすると、洗面台の横にある巨大なバスタブが目に入った。大きい。これは、ひとりで入るものなの……? ひとり温泉なの? 室内に?
数々の疑問が浮かぶけれど、今はそんなことを考えている場合じゃない。バスタブの近くに置いてある、洗面台のそれに良く似た籐の籠に、お目当てだったバスタオルを見つけて、それを一枚ひったくると、洗面所をあとにした。
出島さんが、髪から滴り落ちる雫で上着を台無しにしてあたしを見つめる。
言いたいことは、たくさんあるはずなのに。言い方が分からない。どう言えばいいか分からない。何を言えばいいか分からない。
タオルを広げて、出島さんの頭を包み込む。出島さんの目の前に立っていて、出島さんと目が合わないなんて珍しい。出島さんは、あたしをきつく抱きしめる時だって、目を合わせようとするから。
出島さんのもの言いたげな視線から解放されて、安心したあたしは、少しだけ肩の力を抜いて、タオルをごしごしと動かした。出島さんの髪の毛から引っ越ししてきた雫のせいで、タオルはみるまに湿っていく。
出島さんの、丸い頭。タオル越しに感じられる、やわらかい髪の毛。まるっとした後頭部。こんなにそばにいるのに、涙が出そうになるのは、なんでなんだろう。帰ってきて欲しいと願っていたのは、あたしじゃないの? それが叶ったら泣きたくなるなんて、あたしはなんて子供なんだろう? 泣いて困らせたいわけじゃない。わがまま言って困らせたいわけじゃない。あたしはただ、出島さんと同じところに立ちたいだけなのに。
「うららさん」
「は、はい!」
ちょっと油断していたところに話しかけられたもんだから、心臓がえれっと出るかと思った。すっかりひっくり返ってしまった声には突っ込まず、出島さんがタオル越しに、籠った声で言う。
「変なところを触らないと約束するから、うららさんのこと、抱きしめても良いですか?」
「え、えと、あ、は、はい……。い、いいです、よ」
出島さんの両腕が伸びて、あたしの腰に巻き付く。タオルをかぶったままの頭が近付いて来て、あたしの胸に触れた。深く深く息を吐く音がして、そのまま、出島さんは動かない。
そっと手を動かして、出島さんの後頭部を包み込んだ。そして、両手で抱え込むようにして、とんとんと指だけで叩く。出島さんが、いつもあたしにしてくれているみたいに。
「出島さん」
聞こえても聞こえなくても構わない。
「あたし、もっと強くなりたいです」
出島さんが、あたしを頼れるように。出島さんがいない間を、寂しいと感じないように。出島さんに、もっと素直になれるように。自分に、もっと正直になれるように。
腰に添えられた指に力がこもる。体を強張らせたあたしは、胸元のタオル魔人を見下ろす。
「出島さん?」
言いながら、タオルをゆっくりとはがす。花嫁のヴェールをめくる花婿みたいに。現れたのは、前髪をぺたんと貼付けた出島さんの顔。マンガで描かれる河童みたいなその前髪に、あたしは吹き出してしまう。
「あ、ひどい」
「ごめんなさい。だって」
「だって?」
「ふふ、河童みたいだなって思って」
「河童ですよ、僕は。正真正銘、河童です。水棲種のね」
「知ってますよ」
「ねえ、うららさん」
「なんですか?」
「どうしたら、僕は、うららさんにもっと笑ってもらえるでしょう?」
「……どうしたら、あたしは出島さんに、もっと頼ってもらえるんでしょうか」
出島さんが軽く目を見開く。その視線を受け止めて、あたしは息を整えた。
「うららさん」
出島さんの瞳が揺れる。それとも、揺れているのは、あたしの視界かもしれない。
「僕はね、河童ですけど、でも、それ以前に、男の子なのです。うららさんには、世界で一番大切にしたいひとの前では、見栄を張って、意地でもいい格好したいんです」
「馬鹿なんじゃないですか」
「馬鹿なんですよ。大馬鹿なんです。でも、仕方がないじゃないですか。好きなんですから」
「でも、だからって、どうして」
「どうして、僕がうららさんに頼らないか、ですか? そうですねえ。理由は、色々ありますけど。一番は、僕に引け目があるからです」
「引け目?」
「現在の僕の仕事は、不定期な出張が入らざるをえない。僕は、うららさんの家に住まわせてもらうために、本部に結構無理を言ってきましたから、しばらくは本部の命には逆らえない身です。ですので、出張で色んなところに飛ばされてしまうのは本望だとしても、そのせいで、うららさんに寂しい思いをさせてしまうのは、まったくもって本意ではありません。僕はね、うららさん」
そこまで言ってから、出島さんはつと微笑んだ。あたしの瞳の奥を見つめるような、深くて広い目をして、微笑む。あたしは、こうやって出島さんが微笑むときに、鼻の形が少し変わって、両側の口角に皺が寄るのを見るのが好きだ。
「ここまでわがままし放題で、未だにうららさんに見捨てられていないのが、不思議なくらいなんです」
「自覚はあるんですね」
「うららさんに愛されてるなっていう?」
「違います! わがままし放題だって、そういう自覚はあるんですね」
「ありますよ。毎回、わがままする度に、びびりまくっています。と同時に、うららさんなら、許してくれるんじゃないかなと甘えきっています」
「それって」
「狡い? 卑怯? 策略的? 大人げない? その通りですよね」
「いえ、そこまでは言ってませんけど……」
「肝心なところでブレーキのかかってしまううららさんのことですから、もちろん、僕に対して、面と向かってはおっしゃらないでしょうけど。でも、そう思ってますよね?」
堪忍しろ、お前がやったんだろ、と犯人に詰め寄るベテラン刑事のそれで、出島さんが笑みを深める。
「そ、そりゃあ、ちょっとは、思ったりしましたけど」
「じゃあ、そうおっしゃってくだされば良かったのに」
「それじゃあ、何の解決にもならないじゃないですか! あたしは、出島さんに、もっと、大人だって思ってもらいたくて……。わがまま言って困らせたくはないです」
「大人の僕が、わがままし放題で、うららさんに甘えまくって困らせまくっていてもですか?」
「それとこれとは、違います」
「そうですか? 僕は、わがままをする度に、心が痛みます。うららさん、たまに玄関までお見送りに来てくださるじゃないですか。もう、僕の心はぽっきり折れる寸前ですよ。仕事なんてどうでもいい、河童なんて死に絶えても構わない、猿人種なんて交渉なんてせずに殲滅させてしまえばいい、なんて思っちゃいますから」
「物騒ですね」
「愛の力とは、かくも恐ろしいものなのです」
「でまあ、ここで僕のなけなしの理性が警鐘を鳴らすわけです。今ここで、うららさんとの甘い日々を選んでしまえば、これからのうららさんとの甘い生活が失われてしまう。本部に、僕がうららさんと一つ屋根の下で過ごす権利を剥奪されてしまう。そんなことになったら、心が折れるどころじゃありませんから。廃人になる自信があります」
「やめてください。縁起でもない」
「ね。と、こうした理性と本能の関ヶ原の戦いを経て、僕は出張に出かけるわけです。それでね、帰ってくるじゃないですか。うららさんのおうちに。毎回、毎回、どきどきしているんですよ。玄関に、僕の荷物がまとめてあって、出て行けって言われたらどうしようって。だから、うららさんが僕を見て、おかえりなさいって言ってくださるだけで、僕は生きていて良かったなあと思うわけです」
「でも、それじゃあ」
それじゃあ、何も変わらない。あたしは、出島さんに何も言えないままで、出島さんはあたしに何も言わないままで。
あたしは、証拠みたいなものが欲しいのだ。出島さんに無理をさせていないっていう証拠。あたしだって、微々たるものであっても、出島さんの役に立っている、立てるという証拠。
そんなものを欲しがる時点で、あたしは子供なんだろうけれど。
でも。
「でも」
出島さんが笑顔で言って、あたしを引き寄せた。出島さんの顎が、あたしの胸に当たっている。首を垂直に上げるようにして、あたしを見上げると、
「これからは、違う方法を考えるとしましょう。うららさんと一緒に、新しい方法を考えていきましょう。僕がわがまま言い続けられるように。うららさんが、もっと笑っていられるように」
「はい」
大きな声を出したら、漏れる息と共に涙がこぼれるんじゃないかと思ったから、あたしは囁くようにしか返事ができなかった。
出島さんの片方の手が動いて、指が絨毯をのぼる猫の足のようにあたしの背中を上ってくる。背骨の梯子を上り終えると、そっと首の裏に触れた。エサを欲しがる猫のように、出島さんが甘ったるい声を出す。
「kiss and make up」
「え?」
「英語の諺ですよ。仲直りのキスをして、水に流しましょうってな意味です」
「仲直り」
その響きが、懐かしい。小さい頃は良く使っていたはずなのに、どんどん使わなくなっていく言葉。それを、あたしよりも年上の出島さんの口から聞くのは、懐かしくも新鮮だ。
「というわけで」
出島さんが両目を閉じる。
「え?」
「姫からのキスがないと、僕は王子に戻れませんから」
「誰が王子ですか。普通、自分で言います? そういうこと」
「うらら姫の前でなら、何でも言えますよ、僕は」
出島さんは、目を閉じたままだ。二人っきりだと分かっていながら、あたしは部屋を所在なげに見渡す。窓の外は、緑が広がるばかり。
「諺って、言葉通りに捉えなくてもいいんじゃないでしょうか」
「じゃあ、おでこでいいですから」
「いや、会話が噛み合ってないじゃないですか」
「えー、じゃあ襲っても良いんですか? 折角、ここまで紳士の振りをしてきたっていうのに」
「だ、だめです!」
「じゃあ、おでこ」
二人っきりなのに、恥ずかしい。出島さんだから、恥ずかしい。こういう気持ち、出島さんには分からないんだろうな。
あたしは、とうとう観念して、ゆっくりと頭を下降させる。
「こんな役得が出来るのなら、仲違いも良いもんですね」
「噛みますよ」
「あ、それはやめてください! 前言撤回します! 仲直り最高、けんか反対!」
慌てた出島さんの声に、あたしはくすくすと笑った。




