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理解している矛盾、納得できない欲求


 あれは確か、出島さんの前の出張のときだったと思う。


 唐突に帰ってきた出島さんは、あたしが珍しく遅く学校から帰ってくると、すでにみんなと食卓を囲んでいて、お母さんとお父さんの湯のみにお茶を注いでいた。


 あのとき、あたしは一体どんな顔をしていたんだろう。


 いつも通り、まったくいつもと変わらない出島さんの笑顔を見て、おかえりなさいとつられて微笑みたいような、どの面下げていけしゃあしゃあと帰ってくるんですかと怒鳴ってやりたいような、またどうせすぐにいなくなってしまうんでしょうと不貞腐れたいような、今度はいつ帰ってこられるんですかと聞きたいような。そのどれもが選択できなくて、あたしは顎に力を入れて、歯を食いしばった。そうでもしないと、意図しない言葉がこぼれてしまいそうだったから。


 そして、あたしは気付いてしまったのだ。


 いつも通り、甘く爽やかな笑みを浮かべる出島さんの両目の下に、今まで見たこともないようなクマができていたのを。


 出張で何をしているのかなんて、出島さんは教えてくれない。今の仕事内容なんて、話してくれない。どこに出張で、誰に会って、どんなことをしなくちゃいけなくて、どんなに大変なのかなんて、一言も言ってくれない。

 あたしが聞くのはいつだって、出島さんの甘ったるいお菓子みたいな言葉だけ。楽しそうに、嬉しそうに、あたしの学校生活のことを出島さんは聞く。あたしの宿題の内容、今日一日のスケジュール、誰とどんな話をしたのか。何の本を読んでいて、最近はどんなテレビを見たりしているのか。毎日、代わり映えのないあたしの生活の逐一を、出島さんは丁寧に聞き、ばか丁寧に相槌を打ち、そして、あたしが言葉につまったりすると、メレンゲみたいなふわふわな視線でこちらを見てくるのだ。

 その視線のせいで、もっとあたしが言葉につまったりするなんて、気付いてもいないんだ。


 出島さんは、ずるい。


 あたしはお世辞にも良い聞き役とはいえない。気の利いたことなんて言えないし、気遣いができる方でもない。そこへきて、出島さんは、ひとのことを煙に巻くのが上手いのだ。そんなひとを相手に、上手く話を聞き出すなんて、できっこない。


 「出島さんは?」

と聞いてみたことは何度かある。このときも、そうだった。だって、あたしの話ばっかりだなんて、不公平だから。あたしのつまらない毎日を延々と聞かされて、出島さんは何の話もしないだなんて、一方通行過ぎる。でも、勇気を振り絞って尋ねた言葉に、出島さんはいつもこう答える。


 「僕のことなんて、いいんです。僕は、うららさんのために帰ってきたんですから」


 そう言われれば、どう返していいのか分からない。


 だってあたしは、出島さんの出張についていけるわけじゃない。車の免許を持ってるわけでも、車を持ってるわけでもない。お小遣いには限りがあって、学校は容赦なく宿題を出してきて、あたしは未成年で、何も自分の思い通りにいかない。出島さんのサポートを、あたしは何もしていない。あたしはここで、まるで受動的に出島さんのいつとも知れぬ帰りを、長いとも短いとも測り得ない滞在を待っているだけだ。


 「でも。あたしの話ばっかりで、出島さんの話がないなんて、そんなの……。お仕事の話とか、したくないんですか?」


 そう、自分でも少し驚いたくらいにしつこく食い下がったら、出島さんは困ったように肩を上げた。


 「したくないというか……。しても、うららさんには面白くないお話ばかりだと思いますし」


 あたしが、もっと大人だったら。


 そうしたら、出島さんだって、出張の話や仕事の話をしてくれるに違いない。あたしが大人で、思慮分別がある、自立した人間だったら。

 きっと、頼りないんだ。出島さんにとって、あたしは。

 そんな頼りないあたしのために帰ってくるだなんて。そして、あんな濃いクマを作っているだなんて。あんなに疲れているのに、あたしの学校生活の話を聞かされて、あたしは出島さんの何も理解しないで。

 あたしは、出島さんにとって、重荷なんじゃないだろうか。あたしがいなければ、こんな辺境の村に帰ってくる必要もない。出張に行くのに都合の良い場所に住めば良いだけだもの。もっと、出島さんの立ち位置だとか、仕事内容を理解できるひとに、出島さんは話を聞いてもらえる。そうしたら、ストレスも軽減するかもしれない。そうすれば、クマなんて作らなくても良いのに。


 「出島さん」

 「なんですか、うららさん?」

 「いえ。なんでも、ないです」

 「本当に?」

 「はい。何か、下らないことを言おうと思って、忘れてしまったみたいです」

 「ふふ、うららさんは意外とおっちょこちょいさんですねえ」


 あのとき、本当はあたし、何て言いたかったんだろう?


 出島さん。出島さんは、あたしといない方が……。










 「うらら」

 「うららー」


 あたしが岡崎と笑い合っている声を聞いたからなのか、拒絶されすごすごと引き下がっていたはずの猿人種が近寄ってきた。


 「なに」

 「あ、まだ怒ってる?」

 「やっぱり、更年期?」

 「あのねえ。さっきから気になってるんだけど、更年期っていうのは、四十五歳前後のひとがなるものなの。しかも、軽々しく使ってるけど、本人にとってはとっても辛い症状が出たりするんだから。失礼だよ」

 「ごめん」

 「すまん」

 「いや、分かってもらえれば、それでいいんだけど……」


 しゅんとうなだれた顔は、出島さんほどの殺傷性はないものの、充分にアイドルとして売りに出せそうな態で、あたしは妙にどぎまぎしてしまう。


 「じゃあ、うららは?」

 「反抗期?」

 「ぶっ!」


 イノセントに失礼なことを言う猿人種の言葉に、今まで抑えていたものを吹き出すように岡崎が笑う。


 「ちょっと! なんで岡崎が笑うかな」

 「いや、ごめんごめん。でも、反抗期かー。そうだよな」

 「なによ。なんなの、何でそんな含んだ言い方するの」

 「怒るなよ、黄本。反抗期つったって、相手を限定した反抗期だなって思ってさ」

 「はあ?」


 なんなの、この岡崎は。どうして、なんでもかんでもこんなに抽象的にしか言えないの? 少しははっきり言ってくれたっていいじゃない。それでなくても、あたしは色々、もやもやしたものを抱えてるんだから。あの気まぐれ河童のせいで!


 少し落ち着いて考えれば、どうみても八つ当たりにしか思えない。でも、あたしにはそれが分からず、岡崎に真剣に腹を立て始めていた。


 また、そういうあたしと岡崎のやり取りを見て、


 「わー、うららが怒ってるー」

 「いかりんぼー」

 「かりんとうー」

 「いか焼きかりんとうー」

 「うららのいか焼きかりんとうー」


 などと、余計な茶々を入れる猿人種が鬱陶しいことこの上ない。


 「誰がいか焼きよ、誰がかりんとうだっ!」

 「水ようかんといか焼きー」

 「水ようかんとかりんとうー」

 「もう! うるっさいな、あっち行ってて!」

 「らじゃー」

 「らじゃーあ」


 ぷりぷりと怒りも露わに適当な方角を人差し指で示すと、猿人種は素直に、例のふにゃふにゃとクラゲのような歩き方で去っていく。指した方角には壁以外の何もなく、猿人種のふたりは、壁に向かってふにゃりふにゃりと歩いていって、その内鈍い音を立てて壁に激突した。


 あのふたり、想像している以上に頭悪いかもしれない。


 未だくつくつと喉の奥で笑っていた岡崎は、あたしの呆れた視線に気付いてか、


 「ま、あのひとたち、体は頑丈にできてるみたいだし」


と言った。


 確かに。天は二物を与えず、か。


 「で? どうすんの?」

 「なにが」

 「反抗期。続けるのか?」

 「だから、それはどういう意味、っぷ!」


 岡崎の方に視線を送っていたせいで、前方を見ていなかった。目の前に急に立ちはだかった、柔らかくも堅い板のようなものに、頰骨を打ち付ける。じわりと衝撃が顔面に広がって、あたしはその板のようなものに手をつけ姿勢を正した。


 「もう……」


 その板が、喋った。


 「へ?」


 板の声がした上の方へ顔を向けると、そこには、見慣れた後頭部。さらりと揺れる髪に、目を凝らせば見えてくる、少しじっとりと湿っている頭頂部。うなじだけでも美声年選手権に出場できるんじゃないかと思う、後ろ姿だけでも分かる容姿端麗っぷり。


 「……え?」


 これ。出島さんの後ろ姿なのでは? ということは、この柔らかく堅い板は、出島さんの体の一部……。後頭部から続いている部分、つまり、背中なのでは?

 ということは、あたしがいま無防備に両手を置いているこれは、出島さんの背中なのでは? そういえば、なんかこの板、あったかい!

 そして、あたしは今しがた、出島さんのことを衆人監視の中思いっきり拒絶して、ひとりで不貞腐れていたのでは?

 岡崎の禅問答のような物言いに腹を立て、猿人種のものの見事にひとの神経を逆撫でする物言いに堪忍袋の緒をすり切れるんじゃないかと言うほど極限まで伸ばされ、すっかり周りが見えていなくなっていたけど、あたしの今の言動は、出島さんにとっては我慢ならないものだったのでは?

 だって、もしもあたしの耳が正常に稼働しているのであれば、今、出島さんは「もう、限界です」って言ったよね? 何が限界なの? 自分のことを傷つけまくっておいて、猿人種とコントみたいなことをしているあたしのこと? 岡崎とちょっと笑い合ったりなんかして、デリカシーない振る舞いをしたあたしのこと?


 なんてことが、走馬灯とワンツーゴールを決められるくらいの早さで脳内を駆け巡った。


 何か、言わなきゃ。何か。

 でも、何を? あたしに、何が言える?


 残念ながら、行動力という点においては、出島さんの方が上だ。それも、数百倍。


 気付いたら、強張る手を出島さんの背中から離していたあたしに、出島さんがくるりと正面を向けていた。顔はうなだれたままで、降りかかる前髪のせいで、その表情は隠れている。


 「もう、限界です。うららさん」

 「で、出島さん……?」


 あまりにも悲しそうな声でそう呟くから、あたしは咄嗟に、胸の前でなす術をなくしていた手を差し出した。


 矛盾してるって、分かってる。


 あたしが、出島さんを傷つけたんだって、分かってる。あたしがいるから、あたしが子供でおこさまで、重荷で面倒なやつだから、出島さんのいらぬ苦労が増えているんだろうって、分かってる。だから、きっと、出島さんはあたしと一緒にいない方が良いんだろうって、分かってる。

 それでも、出島さんが笑うと、嬉しい。出島さんが悲しんでると、あたしも悲しくなる。

 出来れば、出島さんにはいつでも、によによと世界中の悲しみなんて知りもしないって顔で笑っていて欲しい。

 だから、あたしのせいで出島さんは悲しんでいるけれど、あたしは、出島さんには笑っていて欲しいのだ。


 差し出した手が、出島さんの頰に触れようかというときだった。


 「ごめんなさい、うららさん」


 ぐいと強い力で肩を引き寄せられる。急なことで、顔が一瞬後ろに傾き、そして前へと引っ張られる。あたしの前髪は出島さんの頰をかすめて、あたしの両手は何にも触れられず宙に浮かび、そしてあたしの両足は、廊下とのコンタクトを失った。急速に離れていく岡崎の顔が、笑っているような驚いているような。


 何が起こっているのかまったく把握できないまま、あたしの頭には、出島さんの言葉がぐるぐると回っていた。


 謝らなくちゃいけないのは、あたしの方です。出島さん。


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