家族の狭間
翌朝、娘の美佐がナースステーションに現れた。
「昨夜、また徘徊があったって聞いて…大丈夫でしたか?」
「はい。大事には至りませんでした。でも、お母さまの“帰宅願望”が強まっています」
美佐は目を伏せる。
「もう…お母さん、私のことも時々わからなくて…。それでも、まだ“家に帰る”って言うんです」
ナースは少しだけ沈黙し、言葉を選んだ。
「“帰る”というのは、必ずしも家そのものを指すわけではないんです。
安心できる過去、心の中の“場所”に帰りたい気持ち。
それを否定せず、受け止めてあげることが、今の介護ではいちばん大切です」
美佐はゆっくりうなずいた。
「……そうかもしれませんね。
でも、父はまだ“母が病気だ”ってことを、きっと認めきれてないんです。
“もっとしっかり世話すれば、戻るはずだ”って言うんです」
ナースは穏やかに微笑みながらも、その現実を痛いほど理解していた。
「介護は、努力で治すものではありません。
でも、関わり方で“苦しみを軽くする”ことはできます。
お父さまにも、少しずつそれを伝えていきましょう」
娘の目に、涙が滲む。
「…ありがとうございます」
ナースは、心の中で小さく祈るように思った。
――介護を通して、誰かが誰かの痛みに寄り添う。
それは奇跡じゃなく、毎日の小さな積み重ねでしか生まれない。




