夜のざわめきと信頼の崩壊
深夜1時。
施設の廊下は静まり返っていた。
だが、その静けさは破られた。
「帰るんよ!うちの家はあっちなんじゃ!」
母の声が、枕元の夜勤職員の耳を突き刺す。
声はか細くも、意思の力強さを帯び、簡単には止まらない。
職員が駆け寄る。
「○○さん、落ち着いて!部屋に戻ろう!」
母は振り払う。手が職員の腕に当たり、痛みと驚きで職員の顔が一瞬硬直した。
「あ……痛っ!」
「いやじゃ!いやなんよ!」
母の声は、泣き、怒り、訴えが混ざったものになっていた。
他の入居者も目を覚まし、廊下から顔をのぞかせる。
怯える子供のような顔、困惑した表情。
母の徘徊は、ただ本人の問題だけではなく、周囲にまで影響を与えていた。
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翌朝、施設長は娘と父を呼び、昨夜の報告を伝える。
「夜間の徘徊だけでなく、手を出すことも増えています。職員だけでは対応に限界があり、事故のリスクも高まっています」
娘は俯き、父は言葉を失った。
現実は理想を容赦なく突きつけてくる。
「……でも、家に戻すわけには……」
娘の声がかすれる。
母の帰宅願望、施設での安全管理、家族の希望──全てが絡み合い、解決策は見えない。
「職員の方々も疲れています」
ケアマネが続けた。
「信頼関係があれば、もう少し対応できるのですが……現状では難しい」
信頼が存在しない現実。
家族は“預ければ安心”と考えていた。
職員は“責任を負うのが当たり前”と扱われる。
その認識の差が、冷たい亀裂として空間を漂わせた。
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昼、母は食堂で落ち着きをなくしていた。
テーブルを叩き、周囲の椅子を蹴り、「帰る」と繰り返す。
職員が何度声をかけても、母の心は過去の記憶の中にあった。
娘は目を覆い、父は肩を落とす。
「これが……現実なのか……」
誰もが、重い現実に押しつぶされそうになった。
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夜、娘は自室で日記をつける。
母のこと、父のこと、職員のこと、そして自分の無力さを。
文字にしても、心の奥に渦巻く不安と苛立ちは消えない。
「母さんを守りたい。でも、誰も守れない……」
涙が静かに頬を伝った。
窓の外では街灯が雨に濡れ、ぼんやりと揺れている。
──施設も家族も、そして母本人も、
誰もが自分の限界を抱え、夜を越えていくしかなかった。




