父の苛立ちと、娘の孤立
夕暮れのリビング。
窓の外はオレンジ色に染まり、街路樹の影がゆらりと揺れている。
でも家の中は、まるで嵐の中心にいるかのようにざわついていた。
「もう、限界じゃ!」
父の声が怒鳴りに変わった。
手に持ったリモコンを、テーブルに叩きつける音が、静かな部屋を割った。
娘は目を伏せ、声を出さずにうつむいた。
「お父さん……でも、母さんのことを考えて……」
言葉は途中で詰まった。
思い浮かぶのは、夜中の徘徊、玄関の前で泣き叫ぶ母の姿。
職員からの退所勧告のこと。
そして、父の苛立ち。
「考えてる? 俺は考えてる! でもな、家じゃ見れん! 施設だって限界や! それがわからんのか!」
父の声は、怒りだけでなく、恐怖と無力感が混ざっていた。
「わかってる……わかってるよ……!」
娘はようやく声を上げた。
「でも……でも、どうしたらいいか……誰もわからないの……!」
涙がこぼれ、頬を伝って落ちる。
その涙を見た父は、言葉を失い、ただ拳を握るだけだった。
⸻
夜、娘は自室でひとり座っていた。
部屋の片隅に置かれた母の昔の写真を手に取る。
若い頃の母は笑顔で、優しく、力強かった。
でも、今の母は、帰ることしか頭にない。
安全を守るために施設に預けても、安心していない。
職員と家族の間にあるのは、信頼ではなく「義務」と「限界」だけだった。
「助けて」と母の声は聞こえる。
でも、助けられる人は誰もいない。
娘はその現実に押しつぶされそうになった。
⸻
翌日、父と娘は再び施設を訪れた。
母は昼食のテーブルで泣きじゃくっていた。
「帰る!うちの家に帰るんよ!」
小さな声ではなく、叫びに近い。
父は視線をそらし、娘は手を伸ばすことしかできなかった。
職員は淡々と母を抱き、落ち着かせようとする。
でも、母の目は遠くを見ていて、現実には届いていなかった。
「……どうしてこうなるんだろう」
娘は心の中でつぶやいた。
父は黙ったまま、腕を組んで立っている。
二人の間には、何も言わずとも“亀裂”が広がっていた。
⸻
夕方、帰宅の車内で、娘は窓の外をぼんやり見つめる。
「母さんを助けたい……でも、誰も助けられない」
その呟きに、父は答えなかった。
胸の奥で、互いに言えない苛立ちと罪悪感が、静かに膨らんでいく。
母の帰宅願望、夜間徘徊、そして家族内の意見の対立。
すべてが絡み合い、誰も救えない夜を作り出していた。




