施設と家族の、温度差
「私たちにだって限界があるんです」
職員の声は震えていた。
事務所の奥の小さなミーティングスペース──四角いテーブルを挟んで、娘と旦那、ケアマネ、施設長、そして担当の介護職員が向かい合っていた。
前回の退所勧告からわずか数日。
母の夜間徘徊は収まるどころか、さらに頻度を増していた。
眠れぬ夜が続き、娘の顔には濃いクマが刻まれていた。
「“限界”って言葉、簡単に言わないでくださいよ!」
旦那がテーブルを軽く叩いた。
「そっちがプロなんでしょ?金だって払ってるし、見てくれるって言うからここに預けたんですよ!」
その一言に、職員の顔がピクリと動いた。
プロであることと、無限に対応できることは違う──
でも、それをいくら説明しても伝わらないのが現場のつらさだ。
「私たちは、ご本人の安全と他の利用者さんの生活も守らなければいけません」
ケアマネが穏やかに、けれどしっかりとした声で言った。
「ご家族の気持ちは痛いほどわかります。ただ、今の状態では夜勤の職員だけでは対応しきれないのが現実です」
娘はうつむいたまま、膝の上の手を握りしめていた。
「わかってます……でも……母は……昔から、頑固で……帰るって言い出したら、止まらないんです……」
声が震えた。
「それでも、あの人は……私たちの“母”なんです」
職員の胸にも、何かがちくりと刺さった。
夜中に「帰る」と泣きじゃくる母を、廊下で抱きとめた夜のことを思い出す。
母の顔は、本当に切なそうだった。
その涙に何度も揺さぶられたのは、職員の方かもしれない。
「でもね……」
旦那が苛立ったようにため息をついた。
「そっちが“無理”って言うなら、こっちはどうしたらいいわけ? 家に戻せって言いたいんですか?」
「誰もそんなことは言ってません」
施設長が低い声で返した。
「ですが、受け入れが困難な状態になっているのは事実です。医療的なサポートがある施設、または専門の病棟を検討していただく必要があります」
「そんな簡単に言わないでください!」
娘が思わず声を上げた。
「探したって、そんな都合よく見つかるわけないじゃないですか……!母の状態、わかってるくせに……!」
場の空気がピリッと張りつめた。
誰も責めたいわけじゃないのに、怒りと不安と絶望がぐちゃぐちゃに混ざって、誰も引けなくなっていた。
「うちの母は……」
娘が、震える声で言葉を続けた。
「“厄介者”じゃないんです。誰よりも一生懸命生きてきた人なんです……!」
その言葉に、職員の一人が目を伏せた。
「厄介者」──それは誰も口にしないけれど、現場でときどき空気の中に漂う“影”だった。
「……わかっています」
ケアマネが小さくうなずいた。
「でも、ご家族だけでも職員だけでも、もう支えきれない時期に来ているんです。これが“認知症”という病気の現実です」
涙が娘の頬をつたった。
旦那は拳を握りしめたまま、何も言えなくなった。
──理想と現実の溝。
それは目に見えないけれど、確実に、深く、家族と施設の間に広がっていった。
廊下の奥から、また母の声がした。
「帰ろう……ねぇ、帰ろう……お父さんが待っとるんよ……」
娘の心は、その声にぐらりと傾いた。
現場の温度と、家族の想い。
その差は、たった一晩で埋められるものじゃなかった──。




