行き場のない夜
深夜2時。施設の廊下に、またあの声が響いた。
「うち、帰るんよ……ここはうちの家じゃない!」
母は薄いパジャマ姿のまま、玄関のドアを叩き続けていた。
職員2人が駆け寄る。
「○○さん、夜ですよ。お部屋に戻りましょうね」
「いやじゃ!わしの家はあっちじゃ!あっちに父ちゃんがおる!」
手を振り払う母の力は細いのに、ものすごく強く感じた。
他の入居者が怯えた顔でドアから顔を出す。
「怖い……」「また?」という小さな声が、静まり返った夜に突き刺さった。
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翌朝、施設の空気はどこか重かった。
夜勤明けの職員が申し送りの席で呟く。
「今夜も玄関から出ようとして……。暴言も増えてきてる。職員の数では、もう目が行き届かない」
「他の利用者さんの不安も大きい。事故が起きる前に、施設としても対応を迫られてる」
主任の声は淡々としていた。怒っているわけじゃない。けれど、限界の色が滲んでいた。
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昼過ぎ、美咲は呼び出しを受け、施設へ向かった。
応接室には、施設長、ケアマネ、担当看護師がすでに揃っていた。
「ご家族にとっても苦しい話になるかもしれませんが……」
施設長の言葉に、すでに嫌な予感がした。
「昨夜のような徘徊、暴言、他利用者さんとのトラブル。職員も見守りを続けていますが、これ以上の対応は困難です」
「つまり……退所、ですか」
「はい。できれば、早めに次の受け入れ先を探していただきたいです」
その言葉は冷たいものではなかった。
けれど、美咲にはナイフのように胸に突き刺さった。
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夕方、家族会議が開かれた。
父、美咲、兄の健介がテーブルを囲む。
「もう、どうしたらええんじゃ……」と父は頭を抱える。
健介が苛立った声で言った。
「お父さん、俺らの誰も、家で母さんの面倒なんて見れないんだよ」
「わかっとる!でもどうすりゃええんじゃ!」
「施設が無理って言ってんだよ!現実見ろよ!」
父が怒鳴り返す。
「金だって払っとるんじゃ!もっとちゃんと見てくれりゃええだけの話じゃろ!」
「そんなこと言ってる場合じゃないの!」と美咲が割って入った。
「もう“預けとけばなんとかなる”時期は過ぎたんよ。母さん、もう普通の施設じゃ無理なん!」
テーブルの上の空気が張り詰める。
父の顔は真っ赤になり、兄は睨みつけ、美咲は涙を堪えていた。
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そのころ、母は施設の居室で職員に囲まれていた。
「ここはうちの家じゃない」「帰る」「あの道をまっすぐ行けば父ちゃんがおる」
何度も繰り返し、泣き叫ぶ声が廊下に響く。
職員の一人が静かに呟く。
「もう、心が“ここ”にはいないんですよね」
「ええ……。信頼関係も築く暇もなく、症状が進んでいってしまった」
現場には“冷たさ”ではなく、“無力感”が漂っていた。
何をしても、母はもうここには“居場所”を見つけられなかった。
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夜、美咲は帰り道の車の中で、静かに涙を流していた。
母の声が頭から離れない。
――「帰る」「ここじゃない」。
それは認知症の言葉だとわかっていても、
まるで娘としての自分が拒まれているように感じてしまう。
信頼関係なんて、最初からなかった。
職員と家族も、家族と家族も、母とこの世界も。
ただ、それぞれが自分の限界を抱え、静かに壊れていっているだけ。
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玄関の鍵を閉めると、家の中がひどく広く感じた。
母がいないのに、母の声が響いているようだった。
「……帰るんよ」
その夜、美咲は泣き疲れて、眠れなかった。




