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記憶のかけらと家族のかたち  作者: 櫻木サヱ
帰る場所。

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48/75

行き場のない夜

深夜2時。施設の廊下に、またあの声が響いた。

「うち、帰るんよ……ここはうちの家じゃない!」

 母は薄いパジャマ姿のまま、玄関のドアを叩き続けていた。


 職員2人が駆け寄る。

「○○さん、夜ですよ。お部屋に戻りましょうね」

「いやじゃ!わしの家はあっちじゃ!あっちに父ちゃんがおる!」

 手を振り払う母の力は細いのに、ものすごく強く感じた。


 他の入居者が怯えた顔でドアから顔を出す。

 「怖い……」「また?」という小さな声が、静まり返った夜に突き刺さった。



 翌朝、施設の空気はどこか重かった。

 夜勤明けの職員が申し送りの席で呟く。

「今夜も玄関から出ようとして……。暴言も増えてきてる。職員の数では、もう目が行き届かない」


「他の利用者さんの不安も大きい。事故が起きる前に、施設としても対応を迫られてる」

 主任の声は淡々としていた。怒っているわけじゃない。けれど、限界の色が滲んでいた。



 昼過ぎ、美咲は呼び出しを受け、施設へ向かった。

 応接室には、施設長、ケアマネ、担当看護師がすでに揃っていた。


「ご家族にとっても苦しい話になるかもしれませんが……」

 施設長の言葉に、すでに嫌な予感がした。


「昨夜のような徘徊、暴言、他利用者さんとのトラブル。職員も見守りを続けていますが、これ以上の対応は困難です」

「つまり……退所、ですか」

「はい。できれば、早めに次の受け入れ先を探していただきたいです」


 その言葉は冷たいものではなかった。

 けれど、美咲にはナイフのように胸に突き刺さった。



 夕方、家族会議が開かれた。

 父、美咲、兄の健介がテーブルを囲む。

「もう、どうしたらええんじゃ……」と父は頭を抱える。


 健介が苛立った声で言った。

「お父さん、俺らの誰も、家で母さんの面倒なんて見れないんだよ」

「わかっとる!でもどうすりゃええんじゃ!」

「施設が無理って言ってんだよ!現実見ろよ!」


 父が怒鳴り返す。

「金だって払っとるんじゃ!もっとちゃんと見てくれりゃええだけの話じゃろ!」


「そんなこと言ってる場合じゃないの!」と美咲が割って入った。

「もう“預けとけばなんとかなる”時期は過ぎたんよ。母さん、もう普通の施設じゃ無理なん!」


 テーブルの上の空気が張り詰める。

 父の顔は真っ赤になり、兄は睨みつけ、美咲は涙を堪えていた。



 そのころ、母は施設の居室で職員に囲まれていた。

「ここはうちの家じゃない」「帰る」「あの道をまっすぐ行けば父ちゃんがおる」

 何度も繰り返し、泣き叫ぶ声が廊下に響く。


 職員の一人が静かに呟く。

「もう、心が“ここ”にはいないんですよね」

「ええ……。信頼関係も築く暇もなく、症状が進んでいってしまった」


 現場には“冷たさ”ではなく、“無力感”が漂っていた。

 何をしても、母はもうここには“居場所”を見つけられなかった。



 夜、美咲は帰り道の車の中で、静かに涙を流していた。

 母の声が頭から離れない。

 ――「帰る」「ここじゃない」。

 それは認知症の言葉だとわかっていても、

 まるで娘としての自分が拒まれているように感じてしまう。


 信頼関係なんて、最初からなかった。

 職員と家族も、家族と家族も、母とこの世界も。

 ただ、それぞれが自分の限界を抱え、静かに壊れていっているだけ。



 玄関の鍵を閉めると、家の中がひどく広く感じた。

 母がいないのに、母の声が響いているようだった。

「……帰るんよ」


 その夜、美咲は泣き疲れて、眠れなかった。


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