受け入れのゲンカイ
その夜、施設の廊下に甲高い声が響いた。
「帰る!うち、ここじゃない!」
母は薄暗い廊下を裸足で歩き、消灯された非常灯の下で泣きながら玄関のドアを叩いていた。
「○○さん、こっち、こっちに戻りましょうね!」
夜勤の職員が二人がかりで母の腕を優しく支える。だが母は振り払うようにして叫んだ。
「触るな!あんた誰なん!うちの家に帰るんよ!」
その声は他の入居者の部屋にも響き、何人かが不安そうにドアを開けた。
職員の表情には疲労と焦燥がにじんでいる。夜勤の人手は最低限、他の対応も山積みだった。
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朝方、夜勤明けの申し送りで、母の名が真っ先に挙がった。
「昨夜も玄関前に立ち続けて、三度目の徘徊です。対応しても暴言と拒否で…他の利用者さんも眠れなくなってます」
「これ以上このままだと、他の方にも影響が出る。正直、現場では限界かも…」
誰も責めることはできなかった。
職員たちの声には怒りではなく、疲れと“本音”が滲んでいた。
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その日の昼、施設長とケアマネから家族に連絡が入った。
「お母様の件で、少しご相談したいことがありまして……」
面談室。テーブルを挟んで、父、美咲、兄の健介が座る。
その向かいに施設長、ケアマネ、担当看護師。
空気は最初から重かった。
施設長が低い声で切り出す。
「実は最近、お母様の夜間の徘徊と他利用者への接触が増えています。職員も対応を続けていますが…正直に申し上げて、このままの環境では難しい状況です」
「……どういう意味ですか?」と美咲。
「退所を…ということです」
その言葉が落ちた瞬間、父がテーブルを叩いた。
「ふざけるな!金も払ってるんだ!それが“見れません”って、どういうことだ!」
職員たちは少し身を引いたが、逃げなかった。
「お父様、お気持ちは理解しています。ですが私たちも、すでに夜間二名体制で限界を超えているんです。他の利用者さんの安全も確保しなければなりません」
健介が苛立ったように呟く。
「つまり、“うちの母が迷惑”ってことかよ」
「そうじゃありません。ただ——」
「そうじゃないなら、なんでこんな話になるんだ!」父の声がさらに大きくなる。
美咲は唇を噛みしめた。
彼女だけが、施設の立場と家族の理想の“あいだ”に立っていた。
職員の言葉も、家族の怒りも、両方が痛いほどわかってしまう。
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そのとき、面談室の外から声が聞こえた。
「帰る…帰るんよぉ……」
母の声だった。スタッフに支えられながら、ドアの前で泣いていた。
「ねぇ……あんた、ここじゃない……帰ろうや……」
母の細い手が、ガラス越しに空を掴むように伸びる。
父は拳を握りしめ、声を殺して俯いた。
美咲の視界が滲んだ。
兄は「……なんで、こんなことに」と呟いた。
家族の理想は、「施設に預ければ安心」だった。
でも現実は、想像以上に厳しく、冷たく、そして誰もが限界の中で踏ん張っていた。
母の病は、誰のせいでもない。
けれど、この状況に誰も“正解”を持っていなかった。
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面談は、結論の出ないまま終わった。
「転所を前向きにご検討ください」
施設長のその一言が、家族の心に深く刺さった。
廊下を歩きながら、美咲は母の背中を見つめる。
母はまるで小さな子どものように、職員の腕にしがみついている。
――あの頃、母は家を守る人だった。
でも今は、帰る場所を探して彷徨う人になっていた。




