一時帰宅の日。
梅雨が終わりきらない曇り空。
施設の玄関で、母・陽子は小さな手提げ袋を握っていた。
花柄のバッグには、職員が用意した替えの服と薬、そしてお気に入りのハンカチ。
本人は「ちょっとお出かけ」と思っている。
けれど、家族にとっては――久しぶりの“帰宅”という現実だった。
「母さん、今日だけ家に帰ろうか」
美咲の声は、わずかに上ずっていた。
横で父・忠彦が口を引き結び、直樹が後部座席のドアを開ける。
陽子はうれしそうに笑った。
「ほうか、ようやく帰れるんじゃな。みんな待っとるじゃろ?」
その言葉に、美咲の胸が痛む。
“待っている人”なんてもういない。
けれど、否定することもできなかった。
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家に戻ると、陽子は玄関の段差で立ち止まった。
懐かしいはずの我が家を前にして、表情が揺らぐ。
「ここ……うち、なん?」
父が笑顔を作る。
「ああ、うちじゃ。ほら、畳もそのままじゃろ」
陽子は部屋の中に入ると、目を細めて壁を見た。
そこには昔の家族写真が並んでいる。
若い頃の忠彦と、自分。幼い美咲と直樹。
「……きれいな人じゃなあ」
陽子が写真の中の自分を指さして呟いた。
父の目が滲む。
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昼食の時間。
美咲が用意したのは、母の大好物――ちらし寿司。
「母さん、ほら、好きだったでしょ?」
陽子は箸を持ち上げ、少し迷ったあと、一口食べた。
「おいしい……でも、誰が作ったん?」
「私だよ、美咲」
「美咲?」
その瞬間、美咲の胸の奥が冷たくなる。
何度も名を呼んでも、母の表情は曇ったままだった。
「……あんた、親戚の子か?」
直樹が横を向き、父は目を閉じた。
食卓に並ぶ湯気の向こうで、家族の心が遠ざかっていく。
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午後、母はリビングの時計を何度も見上げた。
「もう帰らんと、夕飯の支度せんといけん」
「母さん、ここが家よ」
「違う違う、旦那が帰ってくるけぇ」
その言葉に、父が堪えきれず声を荒げた。
「わしがおるじゃろ! ここに!」
母は一歩下がり、怯えたように目を見開いた。
「……知らん人や」
その瞬間、父の肩が落ちた。
美咲はすぐに母の手を取り、静かに言う。
「母さん、大丈夫。怖くないよ」
けれど、母の目はもう焦点を失っていた。
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夕方。
帰る前、陽子は庭に出て、花壇の前でしゃがみこんだ。
「この花……あの子と植えたんじゃ」
母の指が、咲きかけのアジサイに触れる。
小さな風が吹き、花びらが揺れた。
「きれいじゃな……帰りたくないのう」
その一言に、美咲の目から涙が落ちる。
でも、帰らなければならない。
夜になると、母は不安が強くなる。徘徊も始まる。
施設の職員に引き渡す時、母は何度も振り返った。
「なんで帰るん? うち、ここなのに」
職員が優しく肩を支える。
父は答えられず、ただ小さく頭を下げた。
その姿を見ながら、美咲は思った。
――この“帰る場所”は、いったい誰のためにあるんだろう。
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施設へ戻る車中、母は静かだった。
まるで、すべてを忘れたかのように。
けれど、美咲にはわかっていた。
母の瞳の奥には、かすかに涙が光っていた。




