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記憶のかけらと家族のかたち  作者: 櫻木サヱ
帰る場所。

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45/74

一時帰宅の日。

梅雨が終わりきらない曇り空。

 施設の玄関で、母・陽子は小さな手提げ袋を握っていた。

 花柄のバッグには、職員が用意した替えの服と薬、そしてお気に入りのハンカチ。

 本人は「ちょっとお出かけ」と思っている。

 けれど、家族にとっては――久しぶりの“帰宅”という現実だった。


 「母さん、今日だけ家に帰ろうか」

 美咲の声は、わずかに上ずっていた。

 横で父・忠彦が口を引き結び、直樹が後部座席のドアを開ける。

 陽子はうれしそうに笑った。

 「ほうか、ようやく帰れるんじゃな。みんな待っとるじゃろ?」


 その言葉に、美咲の胸が痛む。

 “待っている人”なんてもういない。

 けれど、否定することもできなかった。



 家に戻ると、陽子は玄関の段差で立ち止まった。

 懐かしいはずの我が家を前にして、表情が揺らぐ。

 「ここ……うち、なん?」

 父が笑顔を作る。

 「ああ、うちじゃ。ほら、畳もそのままじゃろ」


 陽子は部屋の中に入ると、目を細めて壁を見た。

 そこには昔の家族写真が並んでいる。

 若い頃の忠彦と、自分。幼い美咲と直樹。

 「……きれいな人じゃなあ」

 陽子が写真の中の自分を指さして呟いた。

 父の目が滲む。



 昼食の時間。

 美咲が用意したのは、母の大好物――ちらし寿司。

 「母さん、ほら、好きだったでしょ?」

 陽子は箸を持ち上げ、少し迷ったあと、一口食べた。

 「おいしい……でも、誰が作ったん?」

 「私だよ、美咲」

 「美咲?」


 その瞬間、美咲の胸の奥が冷たくなる。

 何度も名を呼んでも、母の表情は曇ったままだった。

 「……あんた、親戚の子か?」


 直樹が横を向き、父は目を閉じた。

 食卓に並ぶ湯気の向こうで、家族の心が遠ざかっていく。



 午後、母はリビングの時計を何度も見上げた。

 「もう帰らんと、夕飯の支度せんといけん」

 「母さん、ここが家よ」

 「違う違う、旦那が帰ってくるけぇ」


 その言葉に、父が堪えきれず声を荒げた。

 「わしがおるじゃろ! ここに!」

 母は一歩下がり、怯えたように目を見開いた。

 「……知らん人や」


 その瞬間、父の肩が落ちた。

 美咲はすぐに母の手を取り、静かに言う。

 「母さん、大丈夫。怖くないよ」

 けれど、母の目はもう焦点を失っていた。



 夕方。

 帰る前、陽子は庭に出て、花壇の前でしゃがみこんだ。

 「この花……あの子と植えたんじゃ」

 母の指が、咲きかけのアジサイに触れる。

 小さな風が吹き、花びらが揺れた。

 「きれいじゃな……帰りたくないのう」

 その一言に、美咲の目から涙が落ちる。


 でも、帰らなければならない。

 夜になると、母は不安が強くなる。徘徊も始まる。

 施設の職員に引き渡す時、母は何度も振り返った。


 「なんで帰るん? うち、ここなのに」


 職員が優しく肩を支える。

 父は答えられず、ただ小さく頭を下げた。

 その姿を見ながら、美咲は思った。

 ――この“帰る場所”は、いったい誰のためにあるんだろう。



 施設へ戻る車中、母は静かだった。

 まるで、すべてを忘れたかのように。

 けれど、美咲にはわかっていた。

 母の瞳の奥には、かすかに涙が光っていた。


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