すれ違う場所で。
面会室の蛍光灯が、やけに白くまぶしかった。
母・陽子は窓際に座り、落ち着きなく手を動かしている。
テーブルの上の紙コップに入ったお茶を指先でつつきながら、何度も同じ言葉を繰り返した。
「帰らせて。もう帰るけぇ」
職員の佐伯が、穏やかな声で応じる。
「陽子さん、もう少しお昼寝してからにしましょうね」
「嫌よ。家が心配なんじゃもん」
その言葉に、美咲が小さく息を吸い込む。
“家なんてもうないのに”――その言葉が喉の奥で詰まって出てこない。
隣で父・忠彦が腕を組む。
「また同じことの繰り返しか……職員さん、なんとかしてもらえませんか」
佐伯は少しだけ眉を寄せた。
「認知症の症状ですから、“なんとかする”というより、受け止めていくしか――」
「受け止めていく?そんなきれいごとばっかり言われてもな!」
父の声が跳ねた。
職員室の奥から他のスタッフが顔をのぞかせる。
美咲は慌てて父の腕を掴んだ。
「お父さん、やめて。みんな見てるよ」
「黙っとけ、美咲!あんたも母さんをここに入れたんじゃろうが!」
その一言で、美咲の胸の奥がひび割れた。
「……私だって、嫌だったに決まっとるじゃろ」
声が震える。涙がにじむ。
⸻
少しして、母が突然立ち上がった。
「家に帰るって言いよるじゃろ!」
声は高く、かすれていた。
佐伯が慌てて両手を広げ、制止に入る。
「陽子さん、ここは安全ですよ。ご飯もありますし――」
「うるさい!」
母の手が空を切る。紙コップが床に転がり、お茶が広がる。
美咲が駆け寄り、母の肩を抱こうとするが、強く振り払われる。
「お前は誰なん!」
その瞬間、世界が止まった。
美咲の手が宙で止まり、涙が頬を伝う。
「……母さん、私、美咲よ」
母の瞳は焦点を失っていて、娘の名を思い出せない。
父が俯いたまま、拳を握る。
⸻
その夜、施設の会議室。
佐伯と美咲、直樹、父が座っていた。
「最近、陽子さんの症状が進んでいます。徘徊や興奮も増えていて……」
職員の声は静かだったが、どこか疲れきっていた。
「もしかしたら、特別対応が必要になるかもしれません」
父が眉をひそめる。
「それって、追加料金とか言うやつか?」
「はい、職員の増員対応が必要なので」
「金、金、金ばっかりじゃのう!」
佐伯の口元がわずかに震える。
「……私たちも、毎晩の徘徊対応で、休む暇がないんです。
“当たり前”と思われてしまうと、正直、やりきれなくなります」
その言葉に、父の顔が一瞬固まった。
「……わしらが悪いんか?」
「悪いとかじゃなくて……ただ、わかってほしいんです」
沈黙。時計の音だけが響く。
⸻
帰り道。
駐車場の灯りに照らされた父の横顔は、深く刻まれていた。
「わし、なにが正しいかわからん」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
美咲は助手席で静かに言う。
「きっと、誰も正しくないんよ。ただ、みんな疲れとるだけ」
父は返事をしなかった。
窓の外を見つめながら、小さく呟く。
「母さん……帰りたい言うてたのう」
その声は、夜風に溶けていった。




