崩れていく声
その日の面会室は、いつもより空気が重かった。
母・陽子はテーブルの端に座り、両手を膝の上でいじっている。小さく震える指先が、なにかを訴えるようだった。
「もう家に帰ろうや。お父さん、家寒いって言いよったろ?」
陽子がぽつりとつぶやいた。
その一言で、美咲の胸がぎゅっと締めつけられる。
「お母さん、ここが家よ。ほら、みんな優しいでしょ?」
笑顔をつくるけれど、母は首を横に振る。
「違う、ここは家じゃない。あんた、嘘つくな」
その声に、父・忠彦が顔をしかめた。
「もうええ加減にしてくれ。どれだけ説明したらわかるんじゃ」
横にいた直樹が、父に静かに言い返す。
「父さん、そんな言い方せんでもええじゃろ。母さんはもう理解が難しいんよ」
忠彦の目が一瞬で鋭くなる。
「難しい難しいって、そればっかりじゃ。医者の真似事みたいなこと言うな!」
声が響き、職員が慌てて廊下をのぞく。
美咲はとっさに立ち上がり、父の腕を押さえる。
「もうやめて! 職員さんに迷惑かけんで!」
その瞬間、母が立ち上がった。
「うるさい!わたしの家なんよ!出して!」
陽子がテーブルを叩き、椅子が揺れた。
驚いた美咲が駆け寄ろうとするが、母は押し返すように手を振り払う。
「なんでみんな嘘ばっかりつくん?わたしの家は…あそこに…」
陽子の視線は、窓の外、遠い田んぼの方を向いていた。
その光景が、幼い日の記憶と重なっているのだろう。
⸻
数分後、スタッフが母を落ち着かせようと優しく声をかけた。
しかし父の口から出たのは、冷たい言葉だった。
「ここに預けとるんじゃけぇ、ちゃんと見てくれんと困る」
その一言に、若い職員の表情がわずかにこわばる。
「はい、努力はしております。ただ――」
「努力じゃ困るんよ。金払っとるんじゃから」
沈黙。職員は何も返せなかった。
美咲の顔が一瞬赤くなり、直樹が苦い顔で俯く。
父の声の中には、怒りと同時に、どうしようもない無力感が混ざっていた。
⸻
帰りの車の中は、誰も口を開かなかった。
街灯が流れるたびに、美咲は母の言葉を思い出す。
「ここは家じゃない」
その言葉が、まるで家族全員の心を突き刺していた。
沈黙を破ったのは直樹だった。
「なぁ、父さん。もうちょっと母さんに寄り添ってやろうや」
「寄り添うてなんになる。あいつの頭が戻るんか」
冷たい言葉。けれどその裏に、壊れそうな心の音があった。
「俺はな、美咲。あいつがあんなふうになるとは思わんかったんじゃ。
ずっと強かったんぞ。家も、わしも、支えとったんじゃ」
父の声が震え、ハンドルを握る手が白くなる。
「それが、今じゃわしの顔も忘れよる。もう、どうしたらええんか、わからんのじゃ」
直樹も、言葉を失う。
美咲の頬を、知らぬ間に涙が伝っていた。
⸻
その夜、施設から電話が入った。
「お母さまが、また部屋を出ようとして転倒されました」
受話器の向こうの声に、美咲は小さく「はい」とだけ返した。
電話を切ったあと、父が深く息を吐く。
「またか……」
その言葉に、怒りも悲しみもなかった。ただ、疲労だけが滲んでいた。
理想も、絆も、支え合いも――
どこかで壊れかけていた。
それでも、明日も施設へ行かなくてはならない。
母はきっと、また「帰る」と言う。
そしてそのたびに、家族は胸を痛め、職員は眉をひそめる。
信頼も理解も、もう形を失ってしまったのかもしれない。




