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記憶のかけらと家族のかたち  作者: 櫻木サヱ
施設への決断と、新しい日常

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当たり前の裏側

施設の朝。母・陽子はいつも通り、目を覚ますと周囲を見回し、すぐに歩き出した。手すりを握り、ドアに手をかける。


 「またですか……」夜勤明けの佐伯さんが小さくつぶやく。目の前の光景は毎度のことだが、心底うんざりしている。

 母は泣き声を上げながらドアノブを触り、廊下に出ようとする。危険を察知してスタッフが制止すると、母は暴れる。小さな机や椅子を押す手が荒く、言葉も怒声交じりだ。


 美咲が駆けつけ、母の手を握る。

「母さん、危なくないよ、もうやめよう」


 しかし美咲の声には、深い共感はない。どちらかというと、「施設で面倒見てもらってるんだから、ここで大人しくしててほしい」という思いが混ざっていた。


 父も眉間にしわを寄せ、苛立ちを隠せない。

「もう少し、職員さんに任せんといけんのか?」

 直樹はため息をつき、言葉を探す。

「職員さんも大変なんはわかるけど、母さんの自由も制限されとる…」


 佐伯さんは冷たい視線で答える。

「制限ではありません。安全確保です。何度も同じ説明を繰り返しますが、これが現実です」


 美咲は心の中で、苛立ちが募る。

「もっと、私たちの言うこと聞いてくれればいいのに……」

 職員は無言で母を安全な位置に誘導する。互いに無言の攻防が続く。



 昼の手工芸の時間、母は隣の入居者に軽く手を伸ばし、物を落としてしまった。

 スタッフがすぐに拾うと、母は怒り、椅子を押し返す。

 美咲が「ああもう!」と口にする声に、職員の眉がぴくりと動く。


 「面倒見てくれるのは当たり前じゃないんですけど!」と内心で思いながらも、スタッフは穏やかに対応するしかなかった。家族にその苛立ちを直接ぶつけることはできない。


 父はテーブルの端に手を置き、ため息をつく。

「職員さんも大変じゃのう……でも、母さんは家におらんと不安なんじゃろうな」


 直樹もまた、自分たちの理想と現実の差を痛感する。

「施設に入れることで安心できるって思ってたけど、母さんも私たちも、全然満たされてない」



 夜、母はまた徘徊を始める。ドアノブに手をかけ、廊下に出ようとする。

 「帰る!家に帰る!」叫ぶ声に、家族は息を詰める。

 スタッフが慌てて制止し、母をベッドまで誘導する。


 美咲は手を握りながら、ため息混じりに言う。

「お願い……静かにして」

 その言葉には、愛情よりも「もう勘弁してほしい」という現実的な思いがこもる。


 父は椅子に座ったまま、目を伏せる。

「これが…現実か……」


 夜が深まる中、家族と職員の間には冷たい空気が漂う。

 互いに相手の努力や苦労を十分に認められず、期待と不満だけがぶつかる。母の認知症は進行し、帰宅願望や徘徊、時折の暴力は止められない。

 けれど、家族も職員も、これが日常だと諦めるしかない。


 母の目に浮かぶ不安と涙、家族の苛立ち、職員の内心の疲労。

 誰も悪くない。だが、信頼のない関係は、毎日をさらに重くしていく。


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