理想と現実のあわい
朝、施設の食堂。
母・陽子はゆっくりと朝食を口にしていた。表情は穏やかに見えるが、時折、遠くを見つめる瞳には家の記憶が宿る。
美咲はその様子を見ながら、小さくため息をつく。
「母さん、こんなふうに落ち着いてくれるなら、施設にお願いして正解かも…」
しかし、父の顔は曇っていた。
「……そうか? でもわしには、まだ家に置きたい気持ちが残っとる」
直樹も肩を落とす。
「俺もそう思う。ここで安全かもしれんけど、母さんの気持ちはどうなるんだろう」
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昼、母は手工芸の時間に参加していた。
隣に座る入居者に微笑むが、ふと窓の外に目をやり、誰もいない廊下を探す。
「帰らにゃ…うちに帰らにゃ…」
職員の佐伯さんが近づき、やさしく声をかける。
「陽子さん、ここは安心して過ごせる場所ですよ」
しかしその声に母はかすかに眉をひそめ、手を払いのける。
美咲は内心もどかしさでいっぱいだった。
「でも、もうこれ以上何もできんのよね……」
父は黙ったまま椅子に座り、視線は遠くの庭へ。
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夕方、家族と職員の間で小さな口論が起きる。
父が言った。
「自由に歩かせてやれんのか? 母さんの気持ちを無視しとるじゃないか」
佐伯さんは冷静に答える。
「危険を避けるためです。もし怪我をされたら、母さんにもご家族にも大きな負担になります」
直樹は歯を食いしばりながら言う。
「でもそれって、安全だけが最優先で、母さんの心はどうなるんですか?」
職員は一瞬、答えに窮する。家族の思いは理解しているが、現場の責任は免れない。
その亀裂は小さくとも、確実に浮き彫りになった。
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夜、母の部屋で再び夜間徘徊が起きる。
手すりを握り、ドアを開けようとする母。スタッフが制止し、家族はすぐそばで見守る。
母は泣き叫び、手を振り回すこともあった。
美咲は涙をこぼしながら母の手を握る。
「怖いよね…でも、危なくないから」
父は顔を背け、声にならないため息をつく。
「…家に置きたかった」
直樹も無力感で胸が詰まる。
「理想は、家でみんなと一緒に暮らすことだったのに……」
家族の理想と、現実の施設での暮らし。その差が、ここにきてはっきりと見える。
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夜勤の職員も疲れた顔で見守る。
「家族と私たち、双方の思いをどう折り合いつけるかが、今後の課題ですね」と佐伯さん。
家族は互いに視線を合わせ、小さく頷く。
でもその間にも、母の手がドアノブに触れ、夜の影が揺れている。
家族は疲れ、心に亀裂を抱えながらも、母を支え続けるしかなかった。
理想と現実の間で揺れ、涙を流す夜が、また続く。




