守るもの、守られるもの
施設での生活は、まだ母にとって落ち着くものではなかった。
朝、食堂に集まる母を見て、美咲は心配そうに声をかける。
「母さん、今日はよく眠れた?」
母は小さくうなずくが、その目には昨日の夜の影が残っている。
直樹は職員の佐伯さんに近づく。
「昨日はあんなに暴れたのに、どうしてもう少し自由にさせんのですか?母さんが窮屈そうで…」
佐伯さんは落ち着いた口調で答える。
「危険を回避するのが優先です。もし制御を緩めれば、母さんも他の入居者も怪我のリスクが高まります」
直樹の顔はこわばった。
「でも、母さんの気持ちを尊重しないと、ますます混乱するんじゃないですか?」
佐伯さんは少し眉をひそめる。
「感情と安全は両立できません。私たちは、まず命と安全を守ることが使命です」
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昼、母は室内の歩行を始めた。
手すりを握り、足を慎重に動かす。しかしその視線は遠く、家の記憶の中の玄関を探しているようだった。
ふと、隣の棚に触れ、花瓶を倒しそうになる。職員がすぐに手を伸ばして制止した。
母は振り返り、怒りを露わにする。
「触らんで!」
美咲はそっと母の肩に手を置く。
「母さん、大丈夫よ。危なくないけぇね」
母は小さくうなずいたが、手の震えは収まらない。
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夕方、家族会議が行われた。
父は静かに椅子に座り、疲れた目で職員たちを見つめる。
「私らも母さんを守りたいが、やり方がようわからん」
佐伯さんは頷く。
「ご家族の思いも十分理解しています。ですが、施設でのルールと安全管理は守らねばなりません」
直樹は悩んだ顔で言った。
「家では母さんを手放せない。ここでは安全かもしれんが、母さんの不安は増える」
美咲も言葉を重ねる。
「どうしたら母さんが安心できるのか、もう少し柔軟な方法はないんですか?」
職員の中には頷きつつも、表情には迷いもあった。
「私たちは記録と手順に従っていますが、日々の対応で改善できる部分はあるかもしれません」
その言葉に、家族は少し希望を見出す。
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夜、母はまた布団から立ち上がり、ドアに手をかける。
帰宅願望は消えず、夜間徘徊の衝動も残っていた。
職員が駆け寄り、再び安全を確保するが、母は泣き叫ぶこともあった。
美咲は手を握り、母の顔をそっと自分の胸に寄せた。
「怖いんじゃね。でもみんなおるけぇ、安心してええよ」
父も横で小さくうなずく。
「無理はせんでええんじゃぞ。ここで安全におれることが一番じゃ」
職員は疲れた笑顔で、家族と母を見つめる。
誰も悪くない。
だが、認知症の進行と安全管理、家族の感情、施設のルール——
全てが重なり、葛藤は消えることなく続いていた。
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その夜、家族は施設に泊まり込み、母の側で眠る。
職員との距離感を学びながら、少しずつ協力関係を作っていく。
夜間徘徊も、暴力的な行動も、完全には消えない。
けれど家族と職員が寄り添うことで、母の安心と安全は少しずつ守られていた。




