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記憶のかけらと家族のかたち  作者: 櫻木サヱ
施設への決断と、新しい日常

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夜の扉を叩く人

施設に入居してから、三日めの晩だった。

昼間は職員のくれた小さなプログラムに参加して、母・陽子は笑っていた。手芸の小さな花を誇らしげに見せる姿を、子どもたちは写真に収めた。だが、夜になると別人のように揺れが戻ってきた。


20時を過ぎ、消灯の準備が進むころ、陽子は自室のベッドの中で身体を慌ただしく動かし始めた。まるで何かに呼ばれているかのように、布団の縁を離れて、しきりに窓の外やドアの方を見つめる。目には焦りが差し、口は細く震えていた。


「帰らにゃ…うちに帰らにゃ…」

独り言のように、しかしその言葉ははっきりと響いた。


勤務の夜勤スタッフの一人、佐伯さんが廊下を歩いてきて、静かに部屋のノックをする。

「陽子さん、今日はもうお休みの時間ですよ。ゆっくり休みましょうね」


だが陽子は首を振り、ベッドから立ち上がると、手すりにつかまりながらドアに向かった。鍵はかかっていても、設備の作動音や人の気配をかぎ分けるようにして、ドアノブを確かめる。


廊下のナースコールが軽く鳴り、佐伯さんが扉を開ける。顔を見れば、陽子の目は昔の地図を追うかのように一点を探している。彼女が一歩外に出ようとしたとき、驚きの瞬間が訪れた。


腕を伸ばした陽子の手が、近くにあった車椅子のハンドルに当たり、それを勢いよく押しのけた。車椅子は倒れはしなかったが、その動作の荒さに佐伯さんは思わず身を引く。隣の棚にあった小さな花瓶が揺れ、テーブルの上のティーカップがひとつ床に落ち、割れる音が鳴った。


「触らんで…触らんで!」陽子が叫ぶ。声には恐怖と怒りが混じり、周囲の空気が一瞬張りつめる。血肉の伴う暴力的描写は避けつつも、その行動の強さ、周囲の緊張ははっきりと伝わった。


佐伯さんは慌てて近づき、落ち着いた低い声で話しかける。「陽子さん、危ないから落ち着いて。手をここに置いて、深呼吸しようね」

しかし、普段の穏やかな声も、今は届かない。陽子の視線は遠く、過去の家へ向かって突っ走っている。どうしてもあの家に「帰らねばならない」と言い張る。


ナースステーションに連絡が入り、ベテランの介護士がすぐに駆けつけた。彼らは陽子を無理に押さえつけることはしない。まずは声の調子を落とし、視線を合わせず、手の届く距離で安全に誘導する。だが、その夜は陽子の感情の波が強く、通常の方法ではなかなか鎮まらなかった。


遠巻きに見守るほかの入居者の顔に、動揺の色が走る。床に落ちた破片を片づけに来た若い介護士が小声でつぶやいた。「みなさん、安心して。私たちがいますから」その声が、ほんの小さな救いだった。


廊下の蛍光灯の光の下で、陽子は再びドアノブに手を伸ばし、そこに貼られた注意ラベルを引きはがそうとする。壁に飾られた案内表示を引っ張って、外側の通路へ進もうとする。動作は激しく、指先は震えている。スタッフはさらに人数を呼び、陽子の動線を封じるように優しく囲んだ。


直後、施設にかかってきた電話を受けたのは佐伯さんだった。子どもたち――美咲からの連絡だ。車で向かっている旨を告げる声は震え、言葉には切迫感があった。到着まで、なんとか陽子を安全に保たねばならない。スタッフたちは互いに目を合わせ、小さな指示で動く。押さえつけるのではなく、落ち着かせ、周囲の危険物を除去し、窓やドアを物理的にも確認した。


その間、陽子はふいに父親の名を呼び、手を伸ばした。かつての家族の姿が彼女を突き動かしている。目には涙が溢れ、嗚咽が混じることもあった。誰かが乱暴に扱ったのではない。むしろ自分の中で過去が暴れ、身体を借りて叫んでいるかのようだった。


やがて車のエンジン音が敷地の外から聞こえ、家族が到着した。直樹と美咲、そして浩一の顔には、疲れと焦燥、そして後悔が渦巻いている。三人は駆け寄り、スタッフに事情を聞く。佐伯さんは的確に事情を説明し、今夜の出来事の経緯、対応した方法、現在の陽子の様子を伝える。家族はその説明を聞きながら、それぞれの胸に重いものを抱えた。


「ごめん、ごめんね。こんなにしてしまって…」美咲の声は震え、直樹は怒りと悲しみが混ざった表情で陽子の手を握る。浩一はぽつりと、「連れて帰りたい」と呟いたが、言葉の重みは誰にも届かなかった。彼もまた、自分の否認が招いた現実と向き合い始めていた。


その夜、家族と施設のスタッフは長い話し合いを持った。誰もが言葉少なに、だが真剣に意見を出す。夜間のセンサーは既に取り付けられているが、陽子のように細やかな動きをする人には限界がある。ベッドセンサー、ドアアラーム、職員のパトロール増員——技術的対策は可能な範囲で整えられる。しかし、家の記憶を探し求めて動く心は機械だけで止められるものではない。


「時には、陽子さんが人にぶつかったり、物を壊したりすることもあります。今夜のように、感情が爆発する場合は、まず安全確保が最優先です。ですが、身体的な拘束は最小限に留め、代わりに環境調整や心理的ケアを優先します」佐伯さんは静かに説明した。彼女の声には、経験に裏打ちされた冷静さと優しさが混ざっていた。


家族は疲れ切っていた。浩一は席について、顔を伏せる。かつて亭主関白だった自分の姿を思い出し、そして今、配偶者が時間の中で迷子になっていく事実に打ちのめされる。直樹は自分と父の無力さを痛感し、どうしてもっと早く気づけなかったのかを自責する。美咲は涙を拭い、震える声で「母さんの記憶は戻らないかもしれない。でも、安全に暮らしてほしい」とだけ言った。


その夜、家族は施設に泊まり込むことにした。交代で母のそばに座り、眠れぬ夜を一緒に過ごす。陽子は何度か起き上がり、窓の方へ歩き、ドアノブに触れた。だが家族とスタッフの連携は以前より密で、危険が起きる前に手が差し伸べられた。物音で目を覚ますたび、小さなため息と安堵が交錯する。


翌朝、母は昨日の出来事をほとんど覚えていなかった。食堂で出された柔らかいお粥を前にして、屈託のない笑顔を見せる。だが家族は知っている。あの笑顔の裏には、帰りたいという強い欲求と、時折暴れ出す恐れが潜んでいる。対策は進むが、完全な防御ができるわけではない。認知症は夜の扉を、家族の思い出の扉を、静かに揺らし続ける。


その日の夕方、浩一は母の手を握りながらぽつりと言った。

「もう、無茶はせんでくれよ」

母は返事をしない。ただ窓の外の庭を見つめ、短くつぶやいた。

「ここも、ええ」


言葉にならないやり場のない思いを抱えつつも、家族は小さな対策を一つずつ積み重ねていった。夜間巡回を増やし、陽子の安定する時間を記録して、落ち着く手法をスタッフと共有する。家にいた頃とは異なる形の「見守り」が、ここで始まったのだ。


だがその夜の出来事は、家族の胸に深い刻印を残した。帰宅願望は消えない。記憶の片鱗が鍵を外し、夜の世界へと母を誘うたび、家族は再び眠れぬ夜を迎える。認知症という敵は姿を見せない。だが、その残した傷や疲労は確かに、毎日の生活に重くのしかかる。


結局、答えはない。あるのは小さな積み重ねと、次の夜をどう乗り切るかという現実だけだった。家族も施設の人々も、その現実の中で互いに手を取り合い、少しでも安全で穏やかな時間を作ろうと努める。夜の扉を何度たたかれても、戸を固く締めるのではなく、そこにある記憶と不安を丁寧に扱うこと──それが、いま彼らにできる最も人間的な抵抗だった。


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