父の影
夕方、リビングの空気が張り詰まる。
母はソファに座り、手を組んでじっと一点を見つめていた。
「お父さんが、怒っとる……」
その声は小さいが、家族の胸を重くした。
美咲はゆっくり近づく。
「母さん、誰も怒らんよ。ここにおるじゃろ?」
母は小さく首を振った。
「わからん……でも、怒っとるんよ。うち、悪いことしたんか」
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直樹がため息をつく。
「母さん、もうお父さんはおらんよ。心配せんでええ」
しかし母の目は、遠い昔の父を探しているように揺れていた。
その瞬間、父も言葉を失った。
「……あの頃のわしも、きつかったんじゃな……」
家族の間に、沈黙が落ちる。
怒りでも恐怖でもない、
ただ、昔の記憶と今の現実がぶつかる重さだけがあった。
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夜、母は布団に入っても手が震えていた。
夢の中では、幼い自分が父の足元で怯えている。
厳しい父の声、叱られた日の匂い、畳の冷たさ――
全てが鮮明に蘇る。
美咲は母の手を握り、肩をそっと撫でる。
「母さん、もう大丈夫よ。怒らんけぇ」
母は小さくうなずくが、目の奥にはまだ恐怖の光が残っていた。
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父もまた、昔の自分の厳しさに胸を締めつけられた。
「……あのとき、母さんをもっと守れとったらよかったのう」
直樹が父の背中に手を置く。
「もう過去は変えられん。でも、今の母さんは守れる」
家族は互いに小さく頷き合った。
母の記憶の影に押し潰されそうになりながらも、
支えるために立ち上がるしかなかった。
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深夜、母の寝言がリビングまで聞こえた。
「……ごめんなさい……もう怒られん……」
家族は互いの存在を感じながら、夜の長さを越えていく。
誰も悪くない。
でも、誰も簡単には笑えない夜だった。




