夜を越えて
夜。
家の中は静かだったはずなのに、母の足音が廊下に響いた。
「帰らにゃ……うち、帰るんよ」
美咲は布団の端で目を覚まし、そっと声をかける。
「母さん、まだ夜じゃけぇ、外には行かんで」
母は振り返り、曇った目で答える。
「……うち、あの家に戻らにゃいけん」
言葉の中には、幼い頃の不安と寂しさが混ざっていた。
⸻
父が静かに立ち上がり、廊下に出る。
「母さん、夜は危ないぞ。誰もついて来れん」
しかし母は手を振り払い、玄関の方へ向かう。
ドアのノブに手をかけようとした瞬間、
直樹が走ってきて母を抱き止めた。
「母さん、落ち着いて! 危ないんよ!」
母は一瞬、怯えたように肩を震わせたが、すぐに泣き声をあげた。
「だれもわかってくれん……帰らせて!」
家の中は混乱した。
物音にびくっとする犬、電気が揺れる影、
家族の焦りと疲労が互いに伝わって、重く沈んだ空気になる。
⸻
美咲は深呼吸をして母の手を握る。
「母さん、うちにおるじゃろ? 危なくないじゃろ?」
母の指先が少し止まり、ゆっくりと震えが収まる。
肩を抱き、リビングに戻すと、母は小さくうなずいた。
父は椅子に座り、頭を抱える。
「……もう限界じゃ。夜はどうにもならん」
直樹も疲れた顔で頷く。
でも誰も、母を置き去りにはできない。
⸻
夜が更け、母が布団に落ち着いた後。
美咲はそっと寝室の灯りを消し、廊下に座り込む。
父も直樹も、静かに疲れた息を吐く。
家族の誰もが、母のために心を砕き、体を削っているのがわかる夜。
母は夢の中で、再び幼い頃の家に帰る。
その姿を、家族はそっと見守るしかない。
現実と記憶のあいだで揺れる母を、
抱きしめることも、連れ戻すこともできないまま――。




