遠い日の声
夜。
母は寝室の布団に横たわり、まどろみの中で小さな声をこぼしていた。
「お父さん……怒っとる」
その声は、過去の時間に溶け込むように、薄暗い部屋を揺らした。
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──夢の中、幼い母の家。
縁側には、朝の光が差し込んでいる。
母は小さな手で茶碗を抱え、台所に立つ母親を見上げた。
針仕事をしている母親の背中は、どこか遠く感じる。
背後から重い足音。
父が帰ってきた。
その姿に、母は小さく身をすくめる。
「……また怒るんじゃないか」
父は声を荒げることもある。
でも、怒りの中には期待も、厳しさも混ざっていた。
少女の母は、それに応えようと必死に動く。
しかし、どんなに頑張っても、父の眉間の皺は消えない。
小さな声で呼んでも、反応は薄く、時に厳しい叱責だけが返る。
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母は庭に出て、柿の木の下に座った。
土の匂い、木の葉の音。
でも心の奥はずっと孤独で、誰も本当には理解してくれない。
「どうして、誰もわかってくれんの?」
涙が頬を伝う。
小さな胸の奥に、ずっと冷たい風が吹いていた。
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現実に戻る母の寝室。
美咲は布団の横でそっと母の手を握った。
その手は夢の中の幼い母の手と重なっているようで、冷たくも温かい。
「母さん……寂しかったんじゃね」
小さな声でつぶやくと、母は微かにうなずいた。
まるで、自分の心の奥にある孤独を、初めて家族に見せるように。
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リビングでは、父が静かに椅子に座っていた。
昔の自分の厳しさを思い出したのだろう。
その目には、後悔と愛情が入り混じっていた。
直樹が呟く。
「母さん、あの時は怖かったけど、今はこうして家族がいるじゃん」
母の目が少し潤む。
幼い頃の孤独と、今の家族の温もりが、重なった瞬間だった。
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その夜、家族は誰も眠れなかった。
それぞれが、自分の胸の中にある思いと向き合った。
でも、少しだけ柔らかい気持ちも生まれていた。
母の夢が見せたのは、寂しさだけではない。
家族に伝わる愛情の種でもあった。




